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リーバイスロンリネス

作者: 森川めだか

リーバイスロンリネス

          

Rain,in the her


 その年は地球に彗星が近付いた年だった。


()(えき)茅子(かやこ)は始めからおかしな生徒だった。決して腕を見せようとしない。

その日も、()()(れん)十枝吾郎(とえだごろう)の退屈な授業を聞いていた。

彗星はフリルと呼ばれていた。二人は大学生で今、誇大妄想について学んでいるところだ。

二人は深層心理学を学んでいる。専攻はユング哲学だ。茅子の席の前にはいつもカフェラッテの紙パックが置かれている。

ユング哲学は分かり易く言うと、フロイトの提唱したリビドー、つまり心的エネルギーを特定性がないとし、無意識もコンプレックスと名付け集合的無意識も見なした。

要するに、一夜漬けだ。恋も茅子も入学したばかり。まだ夏も来ていない。茅子が気になったのは夏でも長袖を着るだろうってことだ。

彗星は丸みを帯びてずっと見える。新月より明るくてエイアル8路という軌道を辿っている。

大学ってのは下心でできてる。恋が入学して分かったことだ。恋は恋なんてしたくなかった。恋が心閉ざすきっかけとなったのは高校時代、もう何も感じないように心を折ったからだ。それからは、「誰かに見られている」という症状を呈していたが黙っていた。

少しでもカッコいい人がいるとその気もないのにヒソヒソ声で話す。少しでも恋に近付こうとする。男も、そんな大差ない。

茅子がオンザまゆ毛にしてるのもそんな話から逃げたいのではないか。

十枝先生が欠伸をついた。

外ではレッカー車が白い車をひっさげイリアポリスの長閑な通りを走って窓の脇に見えなくなった。

まだ、烏が自分の足をつついていた頃。いつの間にか潰した紙パックを置いて茅子はいなくなっていた。


「ちょっと見せて」

茅子は魚本(うおもと)亮子(あきこ)の所に来ていた。亮子は精神科医だ。

茅子は腕をまくった。

「また、ひどくなってる」

茅子の左腕には何度もかきむしった跡がもう傷になってる。茅子は強迫性神経障害だ。

「「何か付いてる」んです」

茅子の症状は雨のように繰り返す。

「今日も大学に行ったの?」

「はい」

「・・自分で治そうって言っても駄目ね」亮子はそっと茅子の袖を直した。

何がそうなったのか分からない。なぜなら、人間は無意識の集合体だからだ。

いつもの薬をもらって茅子は文具店に寄った。精神科医に行った日は必ず落ち込む。

恋がボールペン売り場にいた。茅子はその下のメモ帳を見たかった。

「ああ・・」気付いて、恋は少しどいた。茅子は屈んで一番安いメモ帳を選んでレジに並んだ。その後ろに恋がボールペンを持って並んだ。

二人とも大学にいた人だなーと思ってはいたが、ここは学生街だから話しかけることもしなかった。

レジになぜかスノードームが置いてある。

茅子はそれを少し指差して恋に振り向いた。

「小さな家みたい」

雪の降る町。

恋はちょっと笑って、「今日、途中で抜け出したよね?」と聞いてみた。

「ああ、ちょっと病院・・」そう言っただけで、茅子はまた背を向けた。

大体の人は、なぜ自分が病院に行くのか話したがるものだ。

ボールペンを買って、恋は冬は頬に当たる空気が痛いことを思い出した。


亮子は自分に魔法をかけていた。私は医者の娘、いつも笑ってないといけない、女として見られなければならない。行動もそれにブレーキをかけていた。

無意識化の体験が抑制になっていることもよく知っている。

亮子はカットレモンを横から取り出して、絞ったレモン汁を直接、口に入れた。

こんな所、誰にも見せられない。


(はちす)()(へい)はセンタープレスのズボンをどこがセンターでどこがプレスなのか分からないほど歩いていた。

蓮には住所がない。ここ、イリアポリスに来たのも初めてのことだ。

月はただ雫。

「すまない」

蓮はゴミ出しに来ていた恋に声をかけた。

「はい?」

「夜でもやってる自動販売機ないかね?」蓮は煙草を買いたかった。

「ここどこ?」

「彗星の下ですよ」


「失跡ってのは、まあ、いなくなることだな」

恋は口で説明するのが下手なので案内していた。

「いつまでですかどこまでですか」

「自分のシャツの色を見つけるまでだね」

そんな蓮はスウェットシャツを着ていた。

「ありがとう」

蓮はジュースを片手に煙草を吸っていた。

誰かに見られている。

振り返っても、蓮が自動販売機の光に当てられているだけだった。


No home


 夜明けにはこの雨も止んで、時速何kmで春は乱舞するんだろう。

恋だって綺麗事で下心がないわけじゃない。女の子は「エッチな写真」と言うだろう。男は「スベタ」だ。

花は散るけど、煙草は積もっていくばかりだ。

吾郎だけはイリアポリスじゃない所に住んでいる。

何がそう疲れてるのか分からない。記憶がかさばって身動きができないのか。

吾郎は一人の部屋で胡坐をかき靴下に手をやり考えている。

「んー」

理由はない。

ユング哲学にもリビドーにも無意識にも理由はない。

「さて」

吾郎は立ち上がってレンジフードを見た。油が付いている。

その下で今日も料理をし洗い物をし誰にも見咎められずに汚れていく。

記憶だけが消えればいいのに。


「誰もが潜在的な犯罪者なの」

恋と茅子は亮子と食事を共にしていた。レストランでリゾットを食べているからリゾット会だ。

茅子は新学期が始まってクラス替えで友達を作る時みたいに頑張っていた。

恋とは偶然街で見かけても会釈もしなかったが、十枝先生の講義で誰とも口を利かない後ろ姿に親近感を抱いていた。

「彗星が現れてから何かこの世じゃないみたい」茅子は膝の上に置いた手を直した。

恋には自分の症状は全部話した。別に、隠すことじゃない。

「この間、変な人に会って、失跡したんだって」恋は「誰かに見られている」ことを誰にも話していなかった。

「ジェネラルクライシスって知ってる?」亮子は口を拭った。

「誰の身にも起こることでね、既存の希望が過去になりに行くことなの。私も最近、知ったんだけど、論文で「ある」記憶だけが残るんだって。それからはあなた達の範疇だけど、深層意識の中でだけ起こるんだって」亮子は窓を見上げた。

「ホント、彗星が現れてから変な事ばかり起きる」

「水は彗星からやって来たんだってね」恋はリゾットの底の部分にこびり付いた焦げを気にしていた。

「そしたら僕らは宇宙人だね」

「記憶を記録にする、表層意識を植え付けるとかね。記憶を消す方法って、なかなか多いのよ」亮子はコップで水を飲んだ。

「私にもやって欲しいな」茅子は本音を口にした。

「怖いことよ」亮子はそれ以上何も言わなかった。

リゾット会の帰り、「僕も失跡したいな」とエイアル8路を見ながら恋は茅子に言った。


「余談だが、」と前置きした上で、吾郎は狐と鶴のご馳走の話を学生たちに聞かせた。

「狐は鶴をまんまと騙して得意になっていたが、鶴はそのお返しとばかりに今度はうちにいらっしゃいとご馳走の準備をする」誰も聞いていなかった。吾郎が下を向いていたからだ。黒板にも何も書かれてない。

「うちにいらっしゃい、私をご馳走するからいらっしゃい・・」なぜこんな話をしたのか吾郎は新しい記憶を作りたかったのかも知れない。

自分の死を暗示することで安心したかったのかも知れない。

講義が終わって、恋が先日の誇大妄想について聞きに来た。

「ユング哲学・・」そう言って、恋の話を聞かないで窓に寄った。

恋はそこで話をするのかとついて行った。

「久し振りに空を見たよ」吾郎はもう誰もいないと思って本音だった。


吾郎は部屋に帰って、昔Iの大文字を忘れてlと書いたことを思い出していた。

何でだろう。何で度忘れしたんだろう。

それがジェネラルクライシスとは知らないで、吾郎の頭の中はそれだけになっていた。

空白が?。

靴下にはlの文字が書かれていた。


Poesie


 亮子はボディスーツ姿でくつろいでいた。

「ホント、この世じゃないみたい」

急に音楽が止まったと思ったら、暗くしていた室内が真っ暗になった。

停電だ。

カーテンを開けて外を見ると街の外観も変わっていた。スターライトだけだ。

ここらだけなのかな。亮子はテレビをつけようとして自分で笑ってリモコンを戻した。

またボディスーツで寝に入った。


月は裏に出てる時もある。

恋は表に出ていたので停電に気が付かなかった。

「あれ、点かないか」

「誰かに見られている」それは烏だった。夜という夜が烏。

茅子の目に映っていたものも烏のフンなんだ。

もう腕をかきむしらなくてもいい。

恋は電話をしようとした。その手は自分の電話番号を押していた。

烏に見られて烏のフンが付いてる。


月は上に出てることもある。

暗くなった街で茅子は腕をかきむしりながら記憶を消す方法ばかり考えていた。

十枝先生はあれからIをlと書くことだけを繰り返してる。解雇もその内だろう。

私もああなりたい。それがジェネラルクライシスなら魚本先生に頼んでみようか。

記憶を記録にするとか言ってた、表層意識を植え付けるとか。

私が忘れてもいいこと。

この彗星が見えなくなる前に済ましておきたかった。


蓮は急に暗くなった部屋で後ろの彼方を見続けていた。

死なれた恋人のことを思うと自分の記憶を消してその恋人の思い出だけが残ればいいと思った。

そうして、いつまでも恋人のままでいられたら自分の記憶なんて空疎だ。

冬のままで終わらせたくない。

落ちたはずの物を拾っていた。


とうとう吾郎は来なくなった。ユング哲学は宙に浮いたままで全員に単位が送られることになった。

空はいつも雨が降っている。

講義に来る人も少なくて、律儀に来る人は何か他の目的があった。例えば、下心でヒソヒソ話をするとか。

巡り会う人は、選ぶことが出来ない。

恋は茅子の左腕を掴んだ。

「見つけよう僕らの天気を」

この街には海なんてないけど、彗星が見える場所ならあります。

「今度生まれたら、何だろう」

「今度生まれたら、私も」

同じ川の流れにいた。

「僕も君もあの先生も君のお医者さんも僕が会ったあの変な人も、人生に疲れた者同士、なかなかの切れ者だよ」

「ねえ、私が記憶をなくしたら悲しい?」

「悲しいよ。悲しいけど君が悲しいことがもっと悲しい」

「この停電もフリルのせいなのかな」

「そろそろ地球に差し掛かってる頃だ」

「星に理由なんてないのかもね」

「僕らには理由があるよ」恋は茅子を抱きしめた。

心臓の鼓動の音、それは日溜まりの温度に似ていた。

「ハリネズミに会ったことないけど」

「あなたのシャツの色は見つけた?」胸の中で茅子は言った。

「今度生まれたら、鳥になったら虫を食べないといけないんだ」

全然ドキドキしない、それはきっと自然なことだからだ。普通のことなんだ。


停電して、水と食糧しか与えられずイリアポリスの人々は生きていた。

やっと通電した時に恋はエッチな写真をトイレに浮かべた。

色が滲んで繊維が解けてフヤフヤになった。

黄色いおしっこがスベタにかかる。

絵描く彼奴へ。

幸せの下に注ぐ。

流した後、思い出は残らない。


Supper


 ゴミ出しに行ったら、水泳のプールの匂いがした。

蓮とまた会った。

「夜によく会いますね」

「ここで出会った人は君だけだったから」

出て行くんだな、と思って何も聞かずにいた。

「最後の晩餐って知ってる?」

「ああ、あの有名な」

「何食べたかって、魚なんだってさ」

「きっとカットレモンがあったでしょうね」

蓮はフリルを見ていた。エイアル8路を指で辿って落ちる所までを辿るとポケットに手を直した。

「君のシャツの色は見つかった?」

「僕の恋人はボーダのシャツと言ってました」

「同じ星を見つけようとしたんだよ」今度は目で夜空を辿った。

「同じ夜空に一度見つけた星ってさ、少し目を離すともうどこにあったのかなんて忘れちゃう。一度しか出会えないんだ。天文学者なら違うかも知れないけどね」

何かなくしたんだな、と思った。

「あなたのシャツ、もう着ないんですか」

「停電したね」

「明かりがないと、人は生きていけないんでしょうか」

「海ってさ、振り返るんだよ。引き寄せるんだな」今度は手を裏、表にして何だか盆踊りみたいにザザー、ザザーと蓮は波を表していた。

「きっとあの彗星も海に落ちるよ」

「海に見える所に落ちるでしょうね」

「ひた向きに生きてたら何かいい事あるのかな」

「きっと、・・決して多くはないけれど」

蓮は「そうだった」と言って、謝るように少し手を上げた。

「気を付けてください」

細い下り坂を下りる蓮は少し顔を向けた。

「あの細い路地、このバスはワンマンですのでお気を付けくださいって書いてあるんですよ」

「どういう意味なのかな」

「さあ、あなたが轢かれたら僕、泣きますよ」

「ワンマン社長みたいにさ、威張って誰の言う事も聞かないのかな」

「僕もそう思ってました。どうも違うようです」

「言葉って難しいね。伝わるように話さないとね」

今度は恋が謝るように手を上げた。

さよならなんて言葉は違ってるから。


またリゾット会、じゃなくて亮子の元へ茅子と恋はいた。

「どうしても消したいの?」亮子は女っぽくなく片肘を突いて話を聞いていた。

「確かに、ジェネラルクライシスは人間の手でもできるけど」

「奥意識だけが残るって」

「そう」亮子は茅子のカルテを整理して閉じた。

「処分してもいい? あなたも?」亮子は恋を見た。

「できるなら」

「それは無理なの。一方の記憶だけ。そうしなきゃ存在が消えちゃう」

「君が消していいよ」

「いいの?」

恋は肯いて、「烏に言われて」と少し笑った。


「あなたに会えたさみしさだけが残るかもね」茅子は少し笑った。

頭に装着した変な帽子は夜空の色をしている。

「ゆっくり目を閉じて」亮子は茅子だけを残してそっとドアを閉めて、中を暗くした。


ようやく始まったユング哲学の講義には、茅子の机にカフェラッテだけが残されている。

「脳には終わりがない」そう言った先生は煙草臭かった。

「大切にするから」

今もあの人はいる。

恋は逆上がりができるようになった茅子の記憶を持っていた。

亮子とは連絡を取り合ってない。彗星は消えてしまった。

彗星の記憶だけは残るだろう。いつか忘れてしまっても。

茅子が今、何をしてるのか知らない。「今度生まれたら」なんて考えてやしないだろう。

裸の息はいつも白くて、恋のシャツは黒い。烏と仲良くなったから。

街明かりにカフェラッテ色の烏が歩いている。

恋は窓を拭く。

溺れそうになってた言葉にもできない世界。

隣だった女子がヒソヒソ話している。僕の錆びたリベットがカッコいいんだろう。

教室の中で起きた出来事は教室の中で終わればいいんだ。

自分の息で曇ったガラス窓に茅子が映るとすればフリルのシャツを着てる。

中学生だった恋が母の親戚の叔母さんにお年玉をもらった。その思い出が消せない。

思い返してみれば、さまざまな花の散る中で日車だけは散らなかった。


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