半径70cmぐらいの窮屈な世界
雨が降っていた。
ぱつぱつぱつ、という独特な音が頭上から、ぱちぱちぱち、という跳ねるような音が足下から、それぞれ俺を取り囲んでいる。
街行く人々の話し声が耳に入る。けれどそれを特定の言葉として理解するのは難しかった。雨音が外界の音を拒んでいるようで、話し声は聞こえるが、具体的な内容までは分からなかった。
どうでもいいや。
そんなことを思った。
別に誰が何を話してようがどうでもいい。大声で喋ってようが、歩きスマホをしてようが、煙草を吸ってようが、食べ歩きをしてようが、俺には関係のないことだ。
疫病が蔓延している中でマスクもつけてないやつがいるなんて、どうでもいい。
(………肌寒いな)
雨の日特有の染み入るような冷たさと、じとりとした匂いが充満している。折角朝から外出しているのに、こちらの気分まで落ち込みそうだ。
水溜まりに気をつけながら歩を進める。ちっちゃい水溜まりでも、たまに結構な飛沫を跳ばすから嫌になる。靴下が濡れてしまったら、今日一日最悪な気分で過ごすことになりかねない。
不意に、持っていた傘がぶつかる。傘が傾き、つられて右手が持ってかれ、雨の滴が髪を濡らした。
「すみません」
咄嗟にそう言ったが、相手は何もなかったかのようにそのまま通り過ぎて行った。少しだけ、胸の内に暗いものが蔓延った。
こんなことしてる場合じゃない。俺も急がなくちゃいけない。そう言い聞かせて、気を取り直して道を行く。
俺の傘は結構大きめだ。半径が70cmくらい。俺はガタイが無駄にあるから、これくらいないと安心できない。当然、狭い場所を通る時なんかは、よく人にぶつかる。大は小を兼ねると言うが、大きすぎるとかえって窮屈なのかもしれない。
目的の待ち合わせ場所に着く。駅前の、ちょっとした広場だ。待ち合わせの相手はまだ来ていないようで、俺は何気なく、辺りに視線をやった。
広場の花壇には綺麗な樹がある。だが、既に花は散っていて、綺麗な緑の葉がぽつぽつと生えていた。
花壇の側のコンクリートから、小さな植物が顔を出していた。けれど、その花は雨のせいで散ってしまって、何の花なのか分からなくなっていた。
ぶるる、とポケットに突っ込んでいたスマホが震える。電源を入れてパスワードを解くと、一番最初に世界中で親しまれている無料通話アプリの通知が目に入った。『ごめん』という文字を見てすぐさまアプリを開いて、メッセージを返す。
『どした』
『傘忘れた~』
『今どこ』
『改札』
『待ってろ』
広場から駅に目を向けると、ちょうど改札の前に突っ立っている少女の姿が目に入った。『邪魔になるからせめて脇にそれろ』とメッセージを入れて、そちらへ向かう。顔を上げた彼女に、軽く左手を振ると、彼女の方も手を振った。
「どうして傘持ってるの!?」
「逆になんで持ってないの」
「家出た時は降ってなかったんよー」
「天気予報見てないお前が悪い」
「ぶー!!」
彼女は文句を垂れながら隣に立つ。そして俺の手からばしっと傘をひったくった。
「おい」
「いいでしょ? どうせ相合傘するんだし」
「あのなあ、別にいいけど………」
「文句言うなら置いてっちゃうよー!」
彼女は本気で置いていきかねない。俺には最初から、「分かったよ」と言う選択肢しか残されていないという訳だ。
仕方ないので傘に入り、彼女から傘を奪い返す。
「なあに? やっぱ女性には持たせられないとか、そういう紳士的なことするんだぁ」
「お前が持つと頭が当たるんだよ」
「私の身長が低いと?」
「当たり前だバカ」
「バカ!? 今バカって言った!? ねえ!」
そんな風に突っかかって来る彼女をなんとか受け流しつつ、二人で雨の中を歩く。
その半径70㎝くらいの世界は二人にとってとても窮屈で。
カバンに入っていた折り畳み傘を渡し忘れるくらいには、魅力的な世界だった。