2-1 「宿場」を出立
まぶしい……。そう感じたとき、どこからか自分を呼ぶ声がする。
「……ディさん……ンディさん」
何度も名前を呼んでいる。
「……リンディさん……起きてください」
はい、起きてますよぉー。
「起きてください、リンディさん」
なんだか、身体が揺れている。
「朝ごはんですって、リンディさん」
ごはん? それなら、さっき……食べた……。
「早く起きないとなくなりますよー」
なくなる? マジ? はっと目を開ける。仰向けの視線の先には……ショートカット……の顔。
「あ、起きた。おはようございます」
……迷子の……迷子の……ユーカだ。
「……おふぁよぅ」
「あの、そろそろ朝食の時間だそうです」
「あ、ふぉんとに?」
上半身をどうにか起こして……ベッドの上に崩れたあぐらをかく。
「少し前にスウさんが呼びに来ました」
リンディは伸びをして大あくび。
「ふゎ、そう。……それは、どうも」
「まだ寝てるって言ったら、『二日酔い?』とか聞かれましたけど……大丈夫ですか?」
「……大丈夫。眠いだけ」二日酔いなんてありえない。別に、頭痛くも、気持ち悪くもない。目もだんだん覚めてきた。「ふぉ……っちはどう?」
でも、あくびは出る。
「わたしは大丈夫です。ジュースだけですし」
「そうだった……。じゃ、支度すっか」
ベッドから脚を下ろして立ち上がろうとしたところ、やたらに体が重いのに気づく。まだ、身体が目覚めていないようだ……。とりあえずベッドに腰掛けたまま、ナユカに話しかける。
「……ユーカは……いつ起きたの?」
「わたしは、けっこう前です」
リンディが眠っていたので、スウが呼びに来た直前まで、カーテンは閉めたままにしておいた。しかし、それから眠れるベッドの美女が目覚めるまでには、それなりに時が経っており、今は少々あわてる必要がある。朝食に間に合わないことはないにしても、全部食べきる時間がなくなったら、この食いしん坊に怒られそうだ。「なんでもっと早く起こしてくれなかったの!」……とか。
「眠れなふぁっ……た……とか?」
「いえ、ぐっすり寝ました」
……なんか、神経太いな、この迷子。ま、あたしも爆睡したけど……酒の勢いで。そのせいか、なんとなくすっきりしない……。酒で寝付いても、睡眠は深くはならないもの。「爆睡」しても「熟睡」ではない。ともあれ、食いっぱぐれないためにはさっさと準備しなければならず、リンディは気合を入れて立ち上がる。いくらなんでも、「どっこいしょ」などという掛け声はない。しかし、「よっ」程度の掛け声は必要である……今は。
どうにか立ち上がって歩みを進めてみると、やはり、体がやけにだるい。二日酔い? 確かに、いつもよりも多めに飲んだけど、そんなはずは……。傍らのテーブルに片手をついて、立ち止まる。着替えなきゃ……という考えが頭をよぎるが、昨晩は服をまともに着替える間もなく眠ってしまったことを思い出す。……そうだった……それじゃ、顔を洗いに……洗面所は共同だっけ……かったるいなぁ……。寝ぼすけは、部屋を出ようと、ゆっくりドアへ向かう。
「駄目です、リンディさん」立ちはだかるナユカ。「そんな格好じゃ」
その自覚のない当人は、重い体を停止させる。昨晩は、いちおう着替えようとして半脱ぎになったところで寝落ちしていたのだが、その辺りの明白な記憶がない。
「格好?」
そう聞き返しただけで、棒立ちのセクシー美女。いや、セクシーを越えている。一言で表現すれば、「だらっ」いや「ずるっ」か。人前にさらして得があるような姿ではない。少なくとも、下着がちらちら、いや、時に大胆に見えるのは直さなければ……。ファッションと言い訳するには、あまりにも着崩し過ぎた御召し物を、御付きよろしく、ナユカはせめて見られる程度に手早く整える。
「はい、いちおうこれで」
「あ、どうも……ふぁ……」
なんかいろいろやってくれるのをありがたく思いながらも、あくびは出るものだ。そのまま手ぶらで、だるい体を引きずりながら、リンディは洗面所へずるずると向かう。
なにかと心配になったナユカは、タオルや洗面具を代わりに持って、その後を追う。もう食事の時間に差し掛かっているおかげで、幸いにも共用の洗面台には誰もいない。身なりを多少整えたとはいえ、この「ぼろっ」とした美女をそのまんま人前にさらすのは、「御付きの者」として、かなり気が引ける。誰も来ないうちに、ある程度のおめかしを済まさなければ。
「急ぎましょう、リンディさん。ご飯が待ってます」
それを耳にした食道楽は、だるいながらも気が入ったらしく、自力で顔を洗い、髪をとかすなどして、なんとか衆目に耐える程度には修正した。もちろん、隣でタオルやブラシを渡すなど、御付きの介添えがあってのことである。
たとえ体が重くとも、リンディの食欲が湧き上がらないことはなく、現状における早足を労して食堂へ赴く。その重そうな歩みに合わせて、ほんの少し後方を歩くナユカの目からは、どう見ても調子が悪そうに見える。にもかかわらず、食堂に着くなりセルフサービスの料理をきっちり盛っている食道楽の姿を見るににつけ、はたして、こんな状態で食事がのどを通るものか、疑問が涌いた……が、それは杞憂だった。料理を食べ始めると頭が冴えたらしく、覇気も生まれ、寝起きの食いしん坊は余裕で完食。昨晩のようないい食べっぷりだった。
食事が終わったところへ、スウが「二日酔い?」と、からかいに来たり、カールおじさんが「よく眠れたか?」と聞きに来たりしたが、彼らに対するリンディの受け答えには、何の問題も見られない。朝食前のだるそうな姿と違い、昨日の飲酒前に戻ったようだ。この両名には、ここの現場の始業時間過ぎにはこの地を発つ旨と別れの挨拶、とりわけ、おじさんには感謝の意を伝えてから、出立の準備のため、ふたりは部屋へと向かう。
ところが、自室の前までシャキッとしていたリンディは、室内へ踏み入れるなりベッドへと直行し、斜めに腰を下ろすと、そのまま後方へ倒れこんだ……昨晩と同じだ。酔ってはおらず、眠気の消え去った頭は至ってはっきりしている点は違うものの、いかんせん体が重い。食事をとって頭は目覚めても、動き出せばだるさは次第にぶり返し、ここに戻ってくる途中からしんどさを感じてしまっていた。
仰向けになりながら、その理由を考える……いや、考えるまでもなく、どうしても無視できない事実がある。今まで、認めたくなかったこと……それは、バジャ……あのセデイト対象者である。あいつの瘴気……あの程度……大したことはないと高を括っていた。でも、それは間違い……認めないと。こうなったら、早いところ目的の街へとたどり着いて、瘴気を処理しなければ……これ以上、悪化する前に。精神に影響を及ぼさないように気を張っていたおかげで、今のところ、そこには影響がないものの、かえって身体のほうに影響が多めに出てしまったらしい。寝起きから感じ続けている強い倦怠感はそれだろう。ともかく、気合を入れてさっさと動き出そう……気合だ……気合……。
どこかの格闘家のようには気合を入れてもらえないセデイターが結論に至った雰囲気を見計らって、これまでなにも言わずに様子を見つめていたナユカが、心配そうに声をかけてくる。
「あの、大丈夫ですか?」
「まぁ……なんとか」
調子が悪いことをリンディは暗に認めた……隠せる状態ではない。それに、同室の彼女は、もう不調に気づいている。
「だるそうなので……」
「体が重くて、ね……」
「出発を遅らせられませんか? そのほうが……」
「それはだめ」ナユカの提案を、不調の本人が即、却下。「予定通りに出る。むしろ、早いほうがいいくらい」
「でも……」
同行者は心配そうだ……食い下がろうとしている。しかし、セデイターはそれを押し留める。
「理由があるの。追い追い説明するから」
「そうですか……。でも、無理はしないでください」
「そうだね……」本当は無理をしなければならない。「とにかく、準備しよう」
ようやく気合が入って、立ち上がるリンディ。方針は決まった。出支度を整えよう。
当初の予定よりも早めに出発の準備を終えたふたりは、あまり関わらないように素っ気なく振舞う管理人にその旨と謝辞を伝え、食事代の清算を終えてから、玄関へ向かう。ちょうど始業時間の少し前、作業員たちが外へ出てくる頃につき、玄関先ではカールおじさんやスウと再び顔を合わせたが、くどいのもなんなので、お互いにさらっと一言、別れの挨拶を交わすと、リンディとナユカはこの「宿場」を後にした。