3話
数日経っても、まだ雪は続いていた。
最初こそ珍しがって外に出ていた人達も、数日も続くと外に出なくなる。
役場からの「安全情報」を流す車と除雪車だけが外を走るようになる。
雪かきも、みんな大急ぎですませてしまうので、町からすっかり人が消えてしまったようだった。
毎日の慣れない雪かきに体がすっかり疲れ果て、私はこたつに潜ったまま少年を見つめている。
「……もしかして君が大黒様なの?」
彼は無邪気にノートをめくってはひとつ、ひとつ、指を指す。
そして笑う。
彼はぴたりと私に寄り添ったまま。
最近は眠るときも、私の側で可愛い寝息を立てている。
細い体は少年らしい張りがあり温度も高い。寄り添っていると、不思議と眠くなる。
「きみはスミレさんの言ってた大黒様なの?」
「……」
私の質問には一つも答えないが、きっと彼は生きた人間じゃないんだ、ということは理解できた。きっと彼は、スミレさんの言っていた「大黒様」だ。
それが何者であるのかは分からないけれど。
そして不思議とそれが恐ろしくないのである。
『スミレさんの家なら、あり得る』
そんな風に思えるのだ。
「これ、食べたいの? わかった……ええっと。鳥肉と卵と……うん、それくらいならあるから作ろうか。でもそろそろ雪が止んでくれないと、食材も切れちゃうなあ……」
彼が指した「二度揚げ唐揚げ~塩レモン味~」のレシピをじっと見つめて私は立ち上がる。
「ねえ君、もしかして私が小さな時からここにいた?」
冷えた土間の台所。そこでスミレさんのエプロンを着けて唐揚げを揚げる。振り返ると、小さな棚の上に少年が腰を下ろして楽しそうに足を揺らしている。
そこは幼い頃、私の特等席だった……その事を思い出した。
エプロンを着けて豪快に唐揚げを揚げるのは、スミレさんの役目だ。
今、逆転して私はここに立っている。
スミレさんはもういない。
かすれたような大声も、特徴的な笑顔も、今は小さな骨壺の中。
「雪、続くね」
雪の音を聞きながら私は少し焦げた唐揚げに、塩とレモンで作ったソースをかける。
じゅ、と音と共に爽やかな香りが広がった。
「このままじゃ、だめだなあ」
私は肩を落とした。
白いご飯、熱々の唐揚げ、大根のお味噌汁。大黒様は、喜んでそれを食べている。でも、私の胸のモヤモヤは晴れない。
「ねえ大黒様」
唐揚げを囓ると、じゅっと脂が飛び出した。口の中が一気に熱くなる。甘い塩と、レモンの風味。スミレさんほどじゃないけれど、私の唐揚げもじゅうぶんに美味しい。
「……一緒に東京に来る?」
大黒様は口に米粒を付けたまま、驚いたように顔を上げた。
そして複雑な顔をして、私を見る。
「だって、納骨が終われば私東京に帰らなきゃだし、家……潰すかもしれないし」
大黒様は嫌ともいいとも言わない。ただ、悲しそうな目でじっと私を見る。
「君をここに置いていくの、悲しいし。嫌だったら、無理にとは、いわないけど……」
しょん。と大黒様は俯く。その細い首筋を見つめて私はため息を付く。
「養うなら、仕事、ちゃんと探さなきゃだな」
どうせ、この家は出て行かなくてはいけないのだ。
雪はまだ、続いている。
「いえ、あの……そうですか。はい……はい、ありがとうございました……」
プチプチと途切れそうな電波の中、私は携帯を耳に押し当てたまま、何度も頭を下げた。
私の前には書きかけの履歴書と、企業の名前が入った封筒が何枚か。
ここ数日、時間を見つけて求人サイトをあさり、郵送で履歴書を送った。ネットで申し込みが出来るところは片っ端からチャレンジした。
それでもお断りをされること数十回。そのたび心はポキポキと音を立てて折れていく。
私の何がいけないんでしょう。何か問題でも? 聞けたらいいけど、そんなことを聞けるわけがない。
何より、東京まで片道およそ5時間。すぐに面接に行けないこの環境もよくない。
でもこの雪を押して、そしてスミレさんや大黒様を残して東京に戻ると思うと腰が重く、つまりダラダラと私は無為な時間を過ごしている。
「仕事がみつからなくって」
電話を切ってため息をつく私を、心配そうに見上げるのは大黒様だ。
そっと指を伸ばして彼の頭に触れる。まるでタンポポの綿毛のような柔らかい髪だ。頬はつるつるとしているし、温かい。生きた人の体温だ。
(スミレさんとは、違う)
数日前の病院、霊安室。冷たいベッドの上でねむるスミレさんの髪の毛は硬くて頬はぞっとするほど冷たかった。
やっぱり、スミレさんは死んだのだ。
骨壺の中身がその証拠だ。白くて小さなそれは砂糖菓子じゃないし、海辺に落ちてる綺麗な白い石でもない。
スミレさん以外、なにものでもない。
でも私は、その証拠を少しだけ疑ってる。
……この家は、スミレさんの香りと過去と思い出が詰まりすぎている。
「このままじゃ、東京に戻ってもどうしたらいいのか」
力なく、私は大黒様の好物ノートをめくった。
聞こえるのは雪の音とノートをめくる乾いた音。
いつから作られたノートなのだろう。
生クリームの海で溺れるプリン、黄色いカレー、カリカリキャベツと豚の生姜焼き。
丁寧に書かれたスミレさんの文字は、青インクが滲んでいる。
「ごめんね、ちょっと横になる」
思い出が息苦しく、私は座布団を丸めてそこに頭を押し付けた。
雪の音は、もう聞こえない。
そういえば、最後に雪かきをしたのはいつだろう……そう脳裡に浮かんだ次の瞬間、私は眠りに落ちていた。
夢の中で私はスミレさんの背を見つめていた。
ああ、これは夢だ。と、自分で分かる類の夢である。
スミレさんは、裁縫に用の長くて丈夫な木の定規を握っていた。それを手に、肩を怒らせて歩くのだ。怒り狂う彼女が向かう先は小学校だ。
その背を見て、私は耳まで熱くなる。
ああ。覚えている。
これは記憶に封じ込めた風景だ。
初夏の温度が煩わしい四月の後半、私は小学校で軽いイジメを受けた。
イジメといっても悪口程度で、私はちっとも気にしていなかったのだけど、スミレさんはとても怒って定規を手に小学校に乗り込んだのだ。
そして私に悪口を言った男の子を追いかけて、定規でビシビシ打ったのだ。
「お前が嫌いで殴るんじゃない、あたしの大事な物を馬鹿にされたから殴るんだ」
そんな子どもみたいなことを言って、スミレさんは男の子をビシビシ打った。
私といえば恥ずかしくて、スミレさんの腕を掴んで、必死に文句を言った。
スミレさんに打ち付けられてワンワン泣く男子にも、文句を言った。
そもそも、そっちが悪口を言ったから、こんな大事になったんだ、そう叫んで彼をぽかぽか殴った。
そうしたら、スミレさんは「にかっ」と笑って私を見た。
ほら、顔を上げたら必死になれるだろう。いつもの低い声で、スミレさんはそう言った。
「ん、なに」
ゆさゆさと揺り動かされる感覚に、私は目覚めた。
腰の痛さと体の冷たさに、私は呻きながら起き上がることとなった。
「心配してくれてるの?」
「……」
揺り動かしていたのは大黒様だ。小さな手が私の体を何度も揺らしていた。
その目も、顔も、どこか懐かしかった。それは何であるのか思い出しかけて、ふっと途切れる。
(変なの……)
冷たくなった腕で目をこすり、私は大黒様の顔を見る。
この家に戻ってきてから、記憶が混じり合うことが多くなった。思い出せそうなのに思い出せない、もどかしい。
記憶の喪失は昔からのことで、だからこそ、私はこの町が嫌いだった。
私は覚えていないのに、私の事を全てお見通し。みたいに見つめてくる大人達、スミレさん。
親に捨てられてスミレさんに拾われた私は、どこか孤独だった。
「ん……? べっこう飴?」
私が黙った途端、大黒様が金色のものを私に差し出す。それは、数日前に作ったべっこう飴だった。
不格好でごつごつとした、黄金色の甘い固まり。
「この間作ったやつ、置いといてくれたの?」
大黒様はコクコクと何度も頷く。それを舐めて、私は苦笑する。
とろりと、甘い味だった。
「小さな子に心配されてるようじゃ、だめだな」
時計が指しているのは深夜過ぎ。雪は止んだのか、もう何の音もしない。
時折、電灯がかちかちと付いたり消えたりする、そんな静かな夜。
「……スミレさん」
棚の上に置かれた骨壺に、私はぼんやりと話しかけた。
「……どうしよう、私、どうしたらいい?」
金の布にくるまれた骨壺は、何も答えてくれない。
その前に置かれたノートも、何も答えてくれない。
「ああ……」
私は寝ぼけたまま、ノートを撫でる。
ふと、自分の欠点が見えてきた。
「私、夢がないんだ」
思えば、私には夢というものがなかった。
顔をうつむけて過ごした子供時代。
家から近いという理由で大学を選んだ大学時代。
そのあと、私ははじめて決意をする。
この家にずっと居ては駄目だ……そう思い、就職先を東京に決めた。
温かくて優しくて楽しいスミレさんの家。でも私とスミレさんは結局「なさぬ仲」だ。
そう言ったのは、誰だっただろう。小さな頃、確かその言葉を誰かから聞いた。
その言葉は、私の心をドロドロにして、一人で孤独になろうとした。
スミレさんに、いつまでも厄介にはなれない。
夢もないままに東京に出て、なんとなく……本当になんとなく、家から足が遠のいた。
スミレさんとは月に数回の電話のやりとりだけ。病気になったときは驚いたけど、それでも帰省は一年に一回、そう決めていた。
スミレさんには友達が多い。スミレさんは毎日楽しそうだ。だから私が邪魔しちゃいけない。そんな気遣いばかりしていた。
……胸の奥がちくりと痛む。何かまた、嫌な事を思い出しそうだった。
そんな私の背を、大黒様の小さな手が叩く。
あまりに必死に叩くものだから、驚いて顔を上げる。
……その途端、ふっと電気が落ちた。