2話
しかし泣いてばかりもいられないのだ。と気づかされたのは葬儀が終わったあとのこと。
この家をどうするかは決めかねているが、部屋の片づけは必須だ。
(ほんっとうに、今が無職でよかった……)
……と、思ったのは、スミレさんの残した荷物の膨大さを前にした時。
小さな家のそこらかしこに棚があり、どの棚もいっぱいだ。
謎の物置、巨大な桐箪笥。小さな棚に、いくつもある物置部屋。
80年生きたスミレさんは荷物が多い。そういえば私がここに住んでいた頃からそうだった。
彼女のお気に入りの派手な車はもう売ってしまったが、お気に入りの虎柄シャツにピンクの水玉スカートや、縁日で売っていそうなアクセサリーなんかは山のように残されている。
どれもこれもスミレさんの香りがする。小さな頃はこんな格好で町を歩くスミレさんが恥ずかしかった。
でも今から思えば、こんなに彼女に似合う服はない。
「ほんっと田舎だなあ……」
20本目のネックレスを箱にしまって、私は大きく伸びながら玄関から外に出る。
外は相変わらずの春の陽気だ。
雨でも降るのか、空は白く濁っている。それがまた、春らしい。
砂埃のまう白い土、遠くに見える堤防にはピンクのブロッコリーみたいな桜の花。
そして、田圃の向こうに見える小さなお社。そこに神輿がかつぎ込まれるのがみえた。
家の背後は切り立った山だが、目の前は田園風景。
まだ何も植えられていないが、秋になると風が稲穂を揺らして黄金色の波が泡立つのだ。
今は何も無い田んぼに、夕陽の色がそろそろと降りようとしていた。
後ろにある山から風が吹き降りて、ざわざわと音が響く。
私は舞い上がった髪を押さえ、山を見る。
(山の音がする)
その山は私が捨てられかけた場所だ。
私はその山で一回死んで生まれ変わったんだ。と、スミレさんはくどいほどに言った。
「……今夜はお米を食べようかなあ……余ってるし……レトルトカレーもあるし……」
私は所在なく、エプロンについた埃を落とす。
誰もいない家で黙々と片づけをするのも、思い出に浸るのも、もうすっかり慣れた。慣れないのはこの家の意外な広さと、物の多さだけである。
(ご飯のまえに、もう一仕事)
暗くなる前に、部屋の中央にある物置部屋を片づけよう。そう思い立ったのは、何もせずに過ごす時間が勿体なかったからだ。
重い扉を押し広げ、暗がりに潜るとほこりっぽい戸がもう一枚。
それを力一杯横に引くと、埃と水っぽい香りが広がる。
そのとき、私は出会ってしまったのだ。
「……ん?」
最初に見えたのは白い手首。大きなヒョウ柄のシャツ。
「んん?」
続いて見えたのは、おかっぱ頭、大きな黒い瞳。赤い唇。
「ん~? きみは誰?」
居間と台所の間にある、謎の物置部屋。その入口を封印するように積み上がった箪笥と箪笥の合間に、一人の子供が座り込んでいたのだ。
あまりに色白なものだから最初は見えちゃいけないモノが出たか、と身構えた。喉の奥から変な声が出かかった。
でも、よくよく見れば、それは少年なのだ。まだ、5歳にもなってないくらいの。
「まって、足が……」
少年は驚いて逃げようとした。
が、足が箪笥と箪笥の隙間に挟まってうごけない。まるで子猫のようにもがもが蠢く彼を押さえて、私は必死に箪笥をずらす。
「待って待って怪我しちゃう。待って、ちょっとじっとしてて」
少年の細い足が折れないように気をつけて、そっと引き出す。掴んだ手は緊張しているのかひどく冷えている。
重い箪笥をずらすと、彼は慌てたように足を引き抜いた。
そして、足の先にふうふうと息を吹きかけるのだ。その様子はまるで子猫のようだった。
「怪我してない? 大丈夫?」
声をかければ少年はおずおずと私の顔を見つめた。口は開くが声は聞こえない。
「君、口が……」
こくこくと頷く顔は幼いが、この家に迷い込んだ風ではなさそうだ。
彼は慣れたように素足のまま、ぺたぺたと台所へ駆けていく。慌てて付いていくと彼は誰かを探すようにきょろきょろと辺りを探っている。
サイズの合わないぶかぶかのシャツに、素足。髪は子供特有の柔らかさで、ふわふわと揺れている。
私は思わず彼の小さな肩をそっと撫でた。
「……ごめんね、スミレさん、死んじゃったんだ」
少年は、冷たい台所を見つめている。私の言葉を聞いて、その背が震える。見上げた顔に表情はないが黒い目が大きく見開かれている。
きっと彼はスミレさんの知り合いだろう。スミレさんは年代問わず、友達が多い人だ。
そしてこの家はいつも鍵などかけず、誰でも入れるようになっている。
近所の子がいつもの感覚で入り込んだのだ。
スミレさんのこの家には、そんな不思議な魅力がある。
昔から、よく小さな子供たちがこの家に集まってきていた。
子供だけじゃない。大人も、お年寄りもこの家に集まってくるのだ。そしてスミレさんはいつも特別おいしいご飯を作る。
……過去を思いだしかけて、私は首を振る。
22年間暮らしたこの家には、思い出が多すぎる。
「……まって、それ大黒様の好物ノート?」
少年をぼんやり見つめるうちに、その視線が彼の腕の中でとまった。そこに、見覚えのある青いノートが抱きしめられている。
それは、古い、古い、縁なんかとびきり汚れてへろへろになっている、ノート。
「君、それどこで見つけたの?」
のぞき込むと、少年は無言で私にそれを差し出す。おそるおそる受け取って中を覗けばそれは確かに懐かしの「大黒様の好物ノート」なのだ。
それは昔から、台所の隅にそっと置かれていた。
中身といえば、スミレさんの手書きでいろいろなレシピが載っている。
とはいえ、その中身はいつでもスミレさんの企業秘密だった。
それでも私はスミレさんの目を盗んで何度か、中を見た。
几帳面な文字、青いインクで描かれた料理の絵。昔、隠れてみた記憶が頭の中にぱっと広がった。
そうだ、これこそが「大黒様の好物ノート」だ。
スミレさんが死んだ後、部屋のどこを探しても見つけられなかったノートだ。
「……好物ノートだ……」
本当は早く見つけて、棺桶に入れてあげよう。そう思っていたのだ。それなのに火葬を終えた今更見つかった。まるで、燃やされるのを嫌がるみたいに。
冷たい土間に座り込んだまま、じっとノートを見つめる。そんな私を少年が大きな目で見上げていた。
「あ、ごめん。ちょっと懐かしくて……」
少年から向けられるのは、期待が込められた視線。
彼は小さく口を開けたまま、じっと私を見る。
口の中は健康そうな赤い色。小さくて白い歯が輝いている。
「……何か、作って……あげようか?」
尋ねると、彼はおそるおそるといった体で、ノートを数枚めくってある場所を指す。
「ホットケーキ……」
スミレさんの文字で、ホットケーキ(小麦粉から作るやつ)と書かれている。青い文字が光り、古びたノートに不思議と寂しかった。
「うわ。おいしい」
ノートには分量が細やかに載っている。
1グラムだって間違わないように丁寧に作れば、ホットケーキは見たことがないくらいふかふかに仕上がった。
ふんわりと丸く、きつね色。バターを乗せてもつるりと滑ってしまうくらいのなめらかさ。
ナイフとフォークでそっと切り分けると、甘い湯気がほわっと立ち上がる。
食べて思い出した。ああこれは、スミレさんのホットケーキだ。口の中でとろけるこの感覚は、懐かしのスミレさんの味だ。
「すごいね、さすがスミレさんのノートだ」
鉄の重いフライパンで丁寧に4枚焼いた。少年があまりに必死にかきこむので、私は自分の一枚をそっと彼の皿に乗せる。
彼は輝くような笑顔を浮かべてホットケーキをぱくぱくと食べる。いっそ気持ちがいいくらいの食べっぷりだ。
たっぷりのバターに、ひたひたになるほどの、黄金色のメープルシロップ。
それを一気にかき込むと、彼はとたん、眠そうに目を細める。
「眠くなった? でもまって、君のお母さんに知らせなきゃ」
声をかけるころには、名も知らないその少年は手からナイフを落として床に転がり落ちる。あわてて受け止めたその体は、驚くほどに軽かった。
「ああ、寝ちゃった……」
彼は結局一言もなにも発しないまま、綺麗に眠りにおちた。
窓の外には、いつの間に降り出したのか雨の音が響いている。
雨は翌日になっても、その翌日になっても止まなかった。
それどころか、雨はミゾレとなって雪になった。そして気温がぐっと落ちた。
この山間の町は、よく雪が降る。でもこんな桜が咲く頃に降るのは珍しい、と皆が口を揃えた。
私と言えば、箪笥の中に眠っていた高校時代のダウンコートを取り出して、スミレさんの手袋と靴下を身につけた。さらにコタツまで引っ張り出す羽目になる。
そうなると、片づけ作業は遅々として進まない。
やがて雪で暇になったご近所さんが我が家に集まることとなる。それはスミレさんが生きていた頃と、全く変わらない光景。
昔はスミレさんの後ろに隠れていた人見知りの私も、仕方なく大人の笑顔を貼りつけてお客様に食事を振る舞う。
「でも悪いわねえ。こんな、ごちそうになって」
「食材が冷蔵庫に余ってるので……減らしていかなきゃだし」
昨日はお隣のおばさんに、その向かいのお嬢さん。
そして今日は四姉妹である。それと名前も知らない少年が一人。
結局、あれ以来彼は家に戻ろうとせず、どの家の子か名乗ることもせず、なんとなくこの家に居着いている。
少年の行方不明者が出ていないか聞いてみても誰も知らないというし、客が来るとすっと逃げてしまうので確認もとれない。
だから私は一つの作戦をたてた。
すなわち、ご飯で釣る。である。
彼を食卓に引きずり出してお客様に人相見をしてもらう。我ながら完璧な作戦ではあった。
「まあ。亜紀ちゃん、完璧よ。スミレちゃんの味にそっくり!」
「大黒様の好物ノートが見つかったんです」
客が来れば少年は逃げる。そこで私は朝からコトコトと、カレーを煮たのだ。
雪の冷たさにも負けない強いカレーのにおいだ。
大黒様の好物ノート。一番最初のページに書かれている、ツナのカレー。
人参もジャガイモもびっくりするくらい細かく刻んで、ツナと一緒にカレーの中に混ぜてしまう。
カレーのルーは使わない。小麦粉と、赤い缶に入ったカレー粉だけ。牛乳をたっぷり使えば、黄色のとろりとしたカレーができあがる。
匂いにつられて人があつまる。匂いにつられて、少年も顔を出す。
丸い木の机にカレーと水を並べたとき、私はふと懐かしさを覚えた。
ふわりと揺れる湯気を追いかければ、古い天井に消えていく。
この家は古いので、天井が高く、板が複雑に絡み合っている。
昔、なぜだか涙をこらえるときにいつも天井を見上げていたのだ。
するといつもスミレさんは黙って美味しいものを出してくれた。
ずっと思い出せなかった子ども時代の記憶が、ここ最近少しずつ掘り起こされつつある。
それが良いことなのか悪い事なのか、分からない。
ただ、思い出すたびに胸の奥がじりじりと、痛い。
「納骨が終わったら、亜紀ちゃんは東京に戻っちゃうのね」
カレーを堪能しながらスウさんがいう。残りの三人が相打ちするように何度も頷く。
「そりゃそうよ。若いんだもの」
「家は? どうするの? ここ、残していく?」
タチさんに聞かれて私は言葉に詰まる。でも息を吸い込んで愛想笑いを浮かべる。
「誰も住まない家は悪くなるし……いっそ、潰そうかなって……」
「この家も、なくなっちゃうのねえ……昨年の雪のときとか、昔の地震も乗り越えた強い家なのよ」
声にかすかな棘があった。
古い家。ずっと、ここに立っている立派な家。
でもここには思い出が詰まりすぎている。
「いっそねえ、ここに帰ってくればいいのに」
もっと帰って来てあげればよかったのに。と彼女の目は少しだけ批判めいて私を見る。
私は小さく肩を丸めて、俯いた。
大学を出て以来、年に数回しか家に戻っていない。遅れてきた反抗期、とスミレさんはそう言った。でもそうじゃない。
ただ、私は町の人々の声が怖かったんだ。
「あ。でも、まだ……正直、どうするかは決めかねてて」
「戻って来ると言ったって、仕事がないじゃない、このあたりは」
私がしどろもどろになると、クヌマさんがシャキシャキと場の空気を和ませた。
その空気にそっと息を吐いて、私は急いで顔をあげる。
丸い机の向こう側、そこに少年の小さな顔がある。
人が来れば隠れてしまう名前も知らない子が、今日初めて同じ席についたのだ。だから私は彼の手を取り、四人を見る。
「あ。そうだ。この子の親を捜してるんですけど」
「相変わらず面白いことをいうのねえ亜紀ちゃん」
しかし、帰ってきた言葉は冷たかった。
「そこには誰もいないじゃない」
私は少年の小さな腕を取ったまま、静かに固まる。
屋根を叩く、雪の音はますます強くなるばかりだ。