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1話

 スミレさんが亡くなったのは、春の風が吹き始めた頃のこと。

 80歳というのが大往生なのか、まだ惜しまれる年齢なのか私には分からない。

 ただ、晴れ上がった青空の下で行われた葬儀は、その空と同じくらい爽やかですがすがしく、カラリとしたものである。



「さすがよねえ、スミレちゃんは」

「こんなに人が来るだなんてねえ」


 似たような顔のお婆さんたちが、その顔をつきあわせて酒臭い息を吐く。


「なんたって、スミレちゃんだもの」

「そうよ、スミレちゃんだもの」

「お友達も多かったし、お世話をした人も多かったものねえ……」


 スミレさんには友人が多い。

 玄関に「高崎すみれ」忌中、の張り紙を出した途端、あふれんばかりの弔問客が訪れた。

 家の中に入ることができず、香典だけ置いて帰った人もいるほどだ。

 弔問客は皆、口々にスミレさんとの思い出を語った。そのほとんどは、聞いたこともない話ばかり。


 スミレちゃんは人の命を救った。

 スミレさんは火事を起こした家に飛び込んで猫を5匹助けた。

 高崎さんは飛び降り自殺する人を説教して思いとどまらせた。

 スミさんは地縛霊を説得して成仏させた。


 どこまで本当かわからないがそんな思い出話が飛び出して、そのたび誰もが、さもありなん。と頷くのだった。

 私のような不慣れな喪主でも、ご近所さんや葬儀屋のおかげで滞りなく進行し、気がつけば時刻は夜。

 最後まで家に残ったのはスミレさんの……祖母の旧友四人ばかりである。


「でもさ、亡くなる前の日、あたし電話したのよ。なのに、朝に具合が悪いからって救急車呼んで、それで病院に付くなり、ポックリでしょう。びっくりしすぎて涙も出なかったわよ」

 大きなパールのネックレスをした女性はケイさん。

「やあねえ、そういうのピンコロっていうのよ。ピンピンからコロリ。私もそういうのがいいわ」

 ぷっくり太った女性はタチさん。

「そうそう。昔にはガンもやったみたいだけど、最期は結局、老衰だったんでしょ……どんな病気もスミちゃんを仕留められなかったのねえ」

「だってスミちゃん元気だったもの。いっつも派手な虎柄のシャツきてさ」

 童顔で色白の女性はスウさん。

「真っ赤なサングラスかけてきたときは心臓が止まるかと思った」

「それで紫のパンツはいて、杖振り回して……ええとだれだったっけ……そうそう、近所の里中さんの」

「あのバカ息子を会うたびにびしびし殴ってねえ。結局更正させたんだから」

 気の強そうな女性はクヌマさん。

「少年院くらいしか、行くところがない、なんて言われてたあの子をねえ……」


 祖母の旧友たちはため息を付くと、同時に寿司をばくばく食べる。

 私は彼女達を昔から知っているが、四人と祖母がいつ知り合ってどう友達になったのか私は知らない。

 ただ彼女たちは顔がそっくりなので「四姉妹」と名乗っていた。

(お年寄りはみんな同じ顔になるんだなあ……)

 私は慣れないワンピースに足を痺れさせながら、彼女たちの思い出話に愛想笑いを浮かべる。

(……でも、スミレさんは誰にも似てない顔をしてる)

 小さな祭壇に飾られた祖母の写真は、昨年の冬、私が帰省した時に撮ったものだ。

 私が東京で就職して2年。

 気がつくと、どんどんと帰省の足が遠ざかっていた。珍しく帰省したのは半年前。

 スマートフォンに買い換えたスミレさんが、写真の使い方を知りたいと言ったので、一緒に撮影した。

 このように、スミレさんは年をとっても新しいものや珍しい機能が大好きなのだ。

 写真を撮った時、真冬だったのに珍しいくらい晴れた日だった。

 ニッカリと笑うスミレさんの背景は、雲一つない綺麗な青空。写真の右端で見切れているのは私の帽子。


(あの帽子、そういえば家に忘れたまま東京に帰っちゃったんだ……)


 私は温い湯飲みに指を擦りつけながら、ぼんやりと部屋の周囲を見る。

 綺麗に掃き清められた畳の上にはこじんまりとした祭壇。

 綺麗に飾られた花に、淡く灯る蝋燭と写真、そして黄金色のど派手な布に包まれた遺骨に白木の位牌。

 くゆるように上がる線香が、部屋に雲みたいに広がっている。

(あんな小さな箱に収まっちゃうんだもんなあ……)

 鶏ガラみたいな体型のスミレさんは、いよいよ小さな骨となって白い箱の中におさまった。 

 あとは四九日を待ってお墓に納めれば全ては終わりだ。


 まるで、夢の中みたいだった。

 足先に滲む春の冷たさだとか、部屋を包む凜とした空気は現実とは思えない。

 2日前まで私は東京の、一人暮らしのアパートにいたのだ。

 病院から電話を受けて、大急ぎでこの家を目指した。(と言っても新幹線と在来線とバスを乗り継ぐ必要があるので5時間はかかるのだけれど)

 病院で冷たくなったスミレさんをみても、その手に触れても、お坊さんが念仏を唱えても、棺桶の中で眠るスミレさんをみても、そして火葬場で骨になった彼女を見ても、いまだに実感が湧かない。


「そうそう、あんなこともあったわねえ……、ほら、スミレちゃんが泥棒を撃退した話……」

「私が覚えてるのは、詐欺の犯人を説得した話かしら……」


 四人はとりとめもなく、スミレさんの思い出話に花を咲かせていた。私はその声を聞きながら、この場にスミレさんが居ない不思議を思う。

 乾いた寿司に、余った仕出し弁当。こんな料理でも、きっとスミレさんは全部食べたに違い無い。

 スミレさんは粋でいなせで大食漢だった。いつも皆の中心にいて、大きな声で笑っていた。

 そんなスミレさんは数年前にガンに掛かった。

 しかしガンでさえスミレさんのパワーに屈して共存を選び、スミレさんは相変わらず元気だった。

 ゆっくりと年を取り、そして彼女は2日前、本当に綺麗にぽっくりと亡くなった。

 近いうちに顔を見せに寄るね。なんて電話で話をしたのは一週間前。

 次にスミレさんのケータイ番号からかかってきた電話は、彼女の死を告げるものだった。


「そうそう、あんなこともあったわねえ」


 何かの思い出話でパッと笑い声が広がる。

「……ねえ、スミちゃん……」

 一人がいつもの癖のように振り返る。返事はなく、彼女は微笑んで首を振る。

「駄目ねえ、こんなになっても、すぐそこに居るような気がするの」

 振り返れば、この古い家は静かだ。

 築何年なのか、天井ばかりが高い平屋建て。

 キッチンは土間と呼ばれる地面式だし、冷蔵庫もいつのものか分からないほど古くて丸い。

 部屋には無数の箪笥と無数の座布団、無数の押し入れ。

 祭壇を作るのだって、相当に骨をおったのだ。

 棺桶を入れるスペースをどう作るのか、葬儀会社の人たちが困り果てて顔を見合わせていた。

 弔問客が溢れかえったとき、葬儀会社の人たちが「ホール借りればよかったですね」なんてこぼした。

 色んな人が座ってぺちゃぺちゃになった座布団を引き寄せて、私は目を細める。

 つい先程行われた葬儀が、遠い彼方の出来事のようだ。

 スミレさんの棺桶まわりには、たくさんの弔問客がずっと、ずっと居た。

 祭壇の前でいつまでも静かに泣いていた金髪の男の子、あれがきっと里中さんの息子さんだったのだろう。

 私は冷たくなった湯飲みをつかんで、ため息をつく。

 部屋の隅にある古い鏡台、そこに映る私はほんの少し疲れてみえる。

 ワックスで無理にまとめた短い癖毛の髪。真っ黒のワンピース姿。

 化粧は愛想笑いのせいですでにはげ落ちている。

 喪主とは大変なものだ。特に身よりが少ない場合はよけいに大変だ。

「亜紀ちゃん」

 タチさんがふと、私の名を呼んだ。

 ああ私の名前は高崎亜紀だった。と唐突に思い出す。

 ずっと私は「スミレさんのお孫さん」だった、そんな気がする。

「そういえば亜紀ちゃんは東京に住んでるんでしょう。大変だったわね、こんな急なことで。お仕事もあるだろうに」

 その言葉に、私は湯飲みを握りしめる……口を開きかけて留まる。

 実のところ、私はちょっと前に仕事の契約を切られたばかりである。

「いえ……ちょうど、仕事の空き時間だったので……」

 どんどんと俯く頭を必死に立て直しながら私は言う。

「あらよかった。そうよね、忌引休暇はもらえるわよ、当然だわよ、東京なんだから」

 無邪気な言葉が私を殴り付ける。失業保険を受けるばかりの今の身には突き刺さる言葉ばかり。

 私の頭はどんどんと下がっていく。

「……はあ、そうですね」

 スミレさんは生前、口が酸っぱくなるほどよく言ってた。


 ちゃんと顔を上げて、言葉を出すんだ。

 でないと、人には伝わらない。亜紀の悪い癖だ、顔を俯けるのは……。


「ほんと、そんなのを見てたように死ぬでしょ。孫思いだわよ、スミちゃんは。でもあんな人だし、亜紀ちゃん、苦労したでしょうねえ。やることなすこと、極端だもの、スミちゃんは」

「いえいえ、おもしろい祖母でしたよ」

 まるで文鳥みたいに話を続ける小さな老人たちを見ながら、やっぱり私の頭は下がっていく。

「あら、いまの言葉、スミちゃんが聞いたらきっと喜んだわよ」

「ええ……」

 ……社交的で友人の多かった祖母と違って私はどこか人見知りだった。

 幼い頃はスミレさんの後ろで隠れているだけでよかった。だんだん愛想笑いが染みついた。どっと疲れが出たのは大学の頃。

 この町で……田舎でもなく都会でもない、そんな中途半端なこの町はどこにいてもスミレさんの話題で持ちきりだ。その孫ともなれば妙に注目される。

 家から通える小さな大学を卒業したあと、私は就職先を東京に定めて町を逃げ出した。

 そして10年後の今、私は無職となって、スミレさんを見送ろうとしている。


「……スミちゃんも果報者よね。なさぬ仲のお孫さんでも、こんなにいい子ならねえ……」


「こらっ」

 クヌマさんが思わず漏らした声に、残りの3名からの叱責が飛ぶ。しかし私は苦笑して首を振った。

 胸のどこかが、ちくりと痛んだ。

 それは、幼い頃から抜けない棘のようなもの。

「私、気にしてませんから。むしろ、スミレさんが自分のおばあちゃんで、よかったなって思うくらい」

 私に母はいない。父もいない。

 いや、親もなく生まれてくる子なんていない。だから正確にはいたのだ。しかし、私は両親の顔を知らない。

 母親は一人で私を生んだあと、まだ幼い私を山に捨てようとしたらしい。

 この町は山に囲まれているし、実際スミレさんの家は山の中腹にくっつくように立っている。

 顔も知らない母が私を捨てようとした時、スミレさんが私を奪った。スミレさんは母の親戚だという話だが、どこまで本当の話か分からない。

 それなら自分のことを「母」とすればいいものを、スミレさんは「おばあちゃん」で通した。「お母ちゃんって年齢じゃないだろ」と、少し恥ずかしそうに笑ったものだった。

 だから私には父も母もなく、ただ「祖母」がいるだけだ。

「……ちょっと冷えて来たから窓、締めますね」

 私は立ち上がって、薄く開いた窓を閉める。

 窓の向こうに見える風景は深い闇と、道なりにポツポツともる電灯の小さな灯りだけ。

 ここは山に囲まれた小さな町。田んぼの隙間に飛び飛びに家がある。どこも静かで、車の音もしない。

 東京とは、全然違う。

 空気も綺麗で、夜は虫の声ばかりだし、人の動きだってゆっくりだ。

 私はこの町で、20歳過ぎまで過ごしてきた。

 本当の親に捨てられかけた子どもの頃の記憶はほとんどない。

 そのショックのせいか、どうか。私の幼い頃の記憶はふわふわと、マシュマロみたいに曖昧だ。

 晩秋の頃、私はスミレさんに引き取られ、孫という体で育てられたらしい。

 気がつけば養子縁組もされていて、私とスミレさんは確かに家族だった。

「小さな頃から育てられたから、おばあちゃんっていうより、お母さんみたいで」

 笑って私は天井のシミをみる。昔はお化けみたいで怖い、と思っていたシミだ。

 しかしスミレさんは古くても汚くてもこの家を愛した。

 この家には「大黒様」が住むのだ。だからシミが汚いだとか、怖いだとかそんなことを言っちゃいけない。

 と、口が酸っぱくなるほど言っていたものである。それが何者なのか、私には分からない。

「この家に住んでるといえば、大黒様もいたわねえ」

「ああ。スミちゃんの口癖の」

「本当に、いたのかねえ」


 私がシミを見上げたせいで、ご老人たちも同じ事を思い出したらしい。

 つまようじで歯の間をせせりながら、皆さんがしみじみ呟く。

「本当に居たかどうかは分からないけれど……でも大黒様の好物ノートの、あのご飯はおいしかったわねえ」

 ……そうだ。私は、はっと目を見開く。スミレさんが大事にしていたのはこの家だけではない。

 大黒様はご飯を食べるのだ、とスミレさんは良く言っていた。

 スミレさんは超絶リアリストで幽霊もお化けも妖怪もなにも信じていなかった。

 その癖、大黒様という存在だけ信じていた。

 そして、そんな大黒様に食べさせるための料理レシピをまとめたノートがあるのだ。

 料理上手なスミレさんだったけど、そのノートを見て作る時は抜群においしいものを仕上げた。

「ハンバーグおいしかったわ」

「オムライスもね」

「ああ、もう一回、べっこう飴が食べたいわねえ」

 彼女たちは空っぽの寿司桶を眺めながら、さんざん大黒様の好物ノートの話をして、やがて同時に口を閉ざす。

 裸電球が照らす白い部屋。山から下りた風が戸をたたく中、丸いちゃぶ台を囲む彼女たちはまるで四姉妹みたいだ。

 少し離れた場所に座る私だけ、なんとなく孤独だった。


「あら、お囃子」


 小さな音を聞きつけて、全員が顔を上げる。

 不意に外から、お囃子の声が聞こえた。

「……ちょうど春のお祭りよ、いま、町にみんな帰ってきてるから」

 スウさんがふと、つぶやいた。お囃子の音はいつもより控えめで、しかし力強い。ゆっくりと歌うように泣くように通りの向こうを通りすぎて行く。

 ああ、これはスミレさんに捧げるためのお囃子なのだ。

 そう思ったとたんに、目頭が熱くなった。

 スミレさんが死んで、私はまだ泣いていない。あまりにあっさりとした死だったからである。

「ほんと、スミちゃん、いい子だわよ……こんな、みんながそろう日に死ぬなんてさ」

 四姉妹も同じらしい。風の音と、お囃子の音。それに季節はずれの蚊が一匹、弱々しく飛んでいく中、私たちは同時に目を軽く押さえた。

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