冬休み3
「本当は野生動物に餌をやるのは、あまり良くないかもな。だからちょっとだけな」と言って、疾風が笑った。
悪戯っぽく零れた微笑みに、ギュッと心臓を掴まれるような気がして万里はドギマギした。
悪いことをしている、と意識してしまうと急に後ろめたさが湧いて来る。だけど同時に、アドベンチャーパークで足場がスカスカのつり橋を恐る恐る渡った時みたいに、ワクワクしてしまうのは何故だろう?
疾風が開けた袋の口に手を入れ、パンの耳を一つ手に取った。
どの白鳥に上げようか、とソワソワと悩んでいる内に。躊躇いも見せず、隣で疾風が手に掴んだパンの耳を川に向かってポイッと無造作に投げこんだ。
途端にスーッと音もたてずに、水面を滑るように真っ白な白鳥達が優雅に近づいて来る。その内一匹が、黄色いくちばしでパクリと咥えたが早いか、あっという間にパンを飲み込んでしまった。
羨ましくなった万里も、負けてはならじと慌てて右腕を振りかぶる。
「えい!」
勢い込んでブンっと振った手の端から、パンの耳がスポンと抜ける。力を込め過ぎたのか、想像していたよりずっと手前に落ちてしまった。しかしそこにはちょうど、一羽の白鳥がいた。万里は偶然でもドンピシャの位置にパンを投げることが出来たと、嬉しくなる。
ところが。体の間際パンが落ちたというのにその白鳥は、何故か長い首を右へ左へひねり、明後日の方向を探し出す。そこに右往左往している白鳥達の間を縫うように、茶色く小さなマガモが飛び出して来て、敏捷に水面に浮かんだそのパンを確保してしまった……!
「あ!」
万里は思わず批難の声を上げた。
「ええ~! そんな。白鳥に上げたかったのにぃ……」
別にマガモが悪いわけではない。けれども何だかガッカリしてしまう。
ショックで情けない声を出す彼女を慰めるように、疾風がボソリと呟いた。
「白鳥って、ちょっとドンくさい所あるよな」
確かに。と万里は思う。目の前にあるのに、キョロキョロと慌ててパンを探す様子はどこか滑稽にさえ見えた。何もかもずっと小さい、非力そうに見えたマガモの方がずっと賢く逞しく見える。体長にすると白鳥は一・五メートルほど、マガモがその三分の一くらいだろうか。
「白くて優雅で……とっても、頭良さそうに見えるのに」
すぐ脇にあるパンに気付かず右往左往する様さえ見なければ、細く弓なりにしなる白い首も、その上に付いた小振りで形の良い頭も、黒い縁取りをアクセントにした黄色いくちばしも。真っ白な羽毛で包まれたツルンとした体も……奇跡のように美しく整っていて、神々しくさえ感じるのに、と万里は溜息を吐いた。
「見た目通りとは限らないね」
「……人間にもそう言うの、いるよな」
そこで疾風がポツリと呟いた。
万里は突然話題が変わったことに、キョトンとする。
「人間って?……誰のこと?」
クラスの誰かを言っているのだろうか?
咄嗟に思い当たらない万里が首をかしげると、疾風が「ぷはっ」と笑い出した。
破顔する少年を目にした万里は、ちょっとビックリしてしまう。
そんな屈託なく笑う疾風を見るのは、久し振りだったのだ。
学校の帰り道、万里と並んで歩く疾風はそんな風に笑ったりしない。クラスの中で男子に囲まれている彼が、ふざけている男子に向かって笑顔を見せていることはあったけれども。
そんな笑顔を見たのは、あの時以来かもしれない。競馬場でのことだ。優勝が決まった瞬間の疾風を見た時、今と同じ気持ちになった。万里は彼の満面の笑顔と言うものを、その時初めて目にしたのだ。
いつもならクラスメイトより少し大人びて見えるくらいの疾風が、その辺の子供みたいにあまりにも屈託なく笑っていたので、万里はソワソワせずにはいられなかった。
「ほら、餌やろうぜ。白鳥達が待ってるぞ」
「あ、うん!」
我に返って鳥達の群れに目を向ける。期待に満ちた視線が、ジリジリと万里達に向けられていた。
川の下流と上流から、餌の気配を察知したのか慌てて駆け付けて来る白鳥もいる。と言っても、見た目はあくまで優雅に水面を滑っているだけだ。しかしさきほど白鳥のアタフタした様子を目にしたばかりの万里の目には、どうしてもその優雅な白鳥達の周りにフキダシのようなものが見えてしまう。
『あそこで餌、配ってるって!』
『うそ! 早く行かなきゃ! なくなっちゃうぅ!』
『急げ、急げ!』
なんて、台詞が今にも聞こえてきそうだ。
万里は気を取り直して、もう一つパンの耳を手にした。
「じゃあ、行くよー! ちゃんと取ってね!!」
今度こそ! と言う思いを込め。白鳥めがけて、パンを投げる。
万里の手を離れたパンが、放物線を描いて白鳥達の間に落ち―――る前に。
ひゅうっ!
と黒い影が目の前を通り過ぎ、そのパンが消えた!
なんと万里が投げたパンは、抜け目なくチャンスを狙っていたカラスに攫われてしまったのだ。
「えっ! あっ、ウソ! なんでぇ?!」
ムンクの叫びのように両手で頬を挟み、唖然とする万里。
隣でその様子を見守っていた疾風は、堪えきれずに再び笑い出したのだった。