跨線橋の鹿
暫く近寄って来なかった彼女が、再び話しかけて来たのは八月のS市にある競馬場だった。
内緒で『ジョッキーキッズ』の予選に応援に母親を同伴で訪れた万里が、レースの後満面の笑みで手を振って駆け寄って来るのを目にして―――心臓が止まるかと思った。
「予選突破、おめでとう!」
「……」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと力が抜けて……」
「そっか!頑張ったもんね、次は十月だっけ。本戦も頑張ってね!」
今までのすれ違いが無かったように明るい万里に戸惑いつつ応えていると―――いつの間にかジッとつぶらな瞳で見つめられていることに気が付いて、ドキリと心臓が跳ねる。まるで初めて声を掛けたあの跨線橋で、大きな瞳に見据えられうっかり胸を高鳴らせてしまった時のように……再び鼓動がはやまってしまう。
「飯田、なんで今日……」
と言うかこれまでの態度、全てが疑問だった。
万里はどんな気持ちで少年団を辞めたのだろうか、そして帰り道、跨線橋で疾風に付き纏わなくなったのは何故なのか。厳しい事を言った疾風に怒っていたのか?―――それとも……
ずっと無視していたくせにまるで何ごとも無かったかのように掌を返して、よりによって今日と言うこの日に現れたのは何故なのか。
すると背中で腕を組んだ万里が、唇に人差し指を当てて「フフフ」と笑った。
「だって『見に来い』って言ったのは大野でしょう?」
「え?」
「忘れたの?八月に予選があるから『S市に家があるならお前見に来いよ』って言ったの。―――だから来たの」
「でも、お前俺の事避けてたよな?―――ずっと」
「あれ?」
ニンマリと意地の悪い表情で、万里は口元を緩ませた。
「ちょっとでも気にしてたの?私のこと」
「そりゃあ……あれだけうるさかったのに、急にパッタリ近寄って来なくなれば」
「私、大野のこと好きなんだよね」
突然の告白に、一瞬思考が停止しかけた。
「は?」
万里は疾風の戸惑いなど全く気に留めていないかのように、サラリと言葉を続けた。世間話でもしているかのような口調だ。
「―――と、言う事にこの間気が付いてさ。それこそポニー少年団を『まだ続けるのか?』って大野に聞かれた時にね」
疾風はポカンと口を開けたまま、人指し指を万里に向けた。
「お前……ナニ言ってんの?」
疾風の動揺を気に掛ける様子も無く、万里は続けた。
「好きな人と一緒にいたいからって、まとわり付いてその人のやりたいコトや夢を邪魔したらイカンな!ってコトに気が付いたの。それこそ『好きかも!』って気付いたのと同時にビビビっとね。これってもしかして天啓?神様の啓示?とかって言うヤツなのかな?」
それは違う、と思った。大それ過ぎた解釈に、自然と目を眇めてしまう。
しかし疾風の冷たい視線をものともせず、まくし立てる万里は止まらない。
「で、せめて八月の予選までは大野の邪魔はしないようにしよう!……と、考え直してね。だから大野が見抜いていた通り、よこしまな『いい加減な気持ち』で始めた少年団は止めて『学生の本分』の勉強を頑張ろうと思ってさ」
それ以来、人まねの習い事ではなく自分のやりたいことについてじっくり考えた万里は、好きだったピアノの練習を再会することにしたのだと言う。四歳から続けていたレッスンをこちらに引っ越す前に中断してしまったそうだ。
「はぁ……」
相槌をも言えない、間抜けな溜息が漏れる。
何というか―――万里の考えや行動が飛躍し過ぎてて頭が追い付かない。そんな風に考えているなんて、疾風にはちっとも分からなかった。疾風の真っ当な想像の範囲では収まりきらない思考回路だ。万里の説明を聞いて、気が抜けると同時にムクムクと腹立たしさが湧き上がって来る。
それならそうと、前もって言えば良いではないか。知らん振りで無視していたくせに、満面の笑顔で、しかも疾風が大仕事を終えてホッとした途端現れるなんて―――なんてヤツだ!
しかも磨き上げたばかりのサラブレッドみたいにピカピカに装って。万里はまさしく都会育ちらしく、この場の空気に馴染んでいる。そんな恰好でおかしなことばかり口走るから……胸の動悸がさっきからずっと、まるでおさまりそうもない。
「夢に向かって頑張ってる大野にしたら大したことのない一歩かもしれないけど。私は大野のお陰で少し前向きになれたなぁって思うから……帰ったらまた、通学路一緒に帰っても良い?」
けれどもニコニコ満面の笑みを浮かべる万里の顔を見ていたら―――なぜかもう、怒る気持ちは失せてしまっていた。ジッとこちらの言葉を待つ万里は、まるであの日つぶらな瞳でこちらの挙動を伺っていたエゾ鹿のようだ。
「俺、は―――」
プルルル……プルルル……!その時呼び出し音が、返答に迷う疾風の切っ先を逸らした。
「あ!ゴメン。私だ」
斜め掛けした華奢な薄い鞄からピンク色の携帯を取り出し、万里は横を向いてそれを耳にあてる。「うん、うん……大丈夫!うん、今行くね」その場にいない相手にしっかりと頷きを返してから、クルリと彼女は疾風を振り返った。
「あのね、もう行かなきゃ。マ……お母さんが帰るって言うの」
「そうか」
「じゃあ、またね!」
「飯田!あのさ……」
手を上げて踵を返そうとする万里を、思わず呼び止めてしまう。
「なぁに?」
キョトンと首を傾げる瞳に見つめられると、言おうとした言葉が霧散してしまう。
「いや……その。また学校で、な」
するとみるみる内に生き生きと瞳を輝かせて、目の前の万里はピカピカした笑顔を取り戻した。
「うん!また帰り道でね!」
そう大きく頷いて彼女は手を振る。
それから背を向けて小走りに進んでは立ち止まり、振り返ってピョンピョン跳ねながら両手をブンブン振り……それを数度繰り返して、小さくなっていった。元気良く走り去る後ろ姿を見守っていた疾風は―――ポツリと呟いた。
「『好き』ってなんだよ……」
返事を要求するでなく、言いっ放しで逃げて行くその細い体を見送りながら疾風は思った。
なんてじゃじゃ馬だ……!いや、牧場で管理されている馬って言うより、やはりむしろ野生のエゾ鹿だろうか?勝手に牧場に踏み込んで来て草を食み、見つかるやいなやピョンピョン跳ねて去っていく様子がソックリだと思う。
思わず溜息が漏れる。
だが不思議なことに、ポッと温かい灯が胸にともっているような感覚が残っていた。それが彼女の告白に対する返事だとは―――疾風自身もまだ気が付いていないらしい。
【跨線橋の鹿・完】