ラ・エクスプレシオン
「やっぱりここにいた」
方々駆け巡った末に出た言葉だ。そいつはすっかり人気もなくなった夕方の美術室にいた。
窓から射す西日で輪郭もぼやける黄昏時だが、そいつの姿ははっきりわかった。
相変わらず絵を描いている。
「先に帰っててくれても良かったのに」
素っ気ない返事をききながして、茜色の教室に踏み込んだ。
「『茜さす』みたいだな」
「気持ち悪いな」
「今日はまたなに描いンの?」
キャンパスは狂ったように跳ね散らかした絵の具に占領されていた。隅から隅まで茶や緑の地味な色で埋め尽くされている。
「何度も言ってるだろ。ぼくは描いてるんじゃなくて、表現してるんだ」
「はいはい、表現ね。で、なにを表現してンの?」
「ポロックの『秋のリズム』って知ってる?」
バカにすんな。
「知ってるよ」
むしろお前にそれを教えたのはおれだろうがと言いたいところだ。
「まぁ、そういう感じのものをかな」
ぼんやりとキャンパスを見つめたままコッチを向きもしないし、かなり曖昧な返事だった。こいつはこういうやつだ。
「で、完成したの?」
「うん」
「じゃ、かえろ」
おれが言い終わらないくらいのうちにそいつは帰り支度を始めていた。
「ぼくはやっぱりピカソが好きだな。特に晩年の『アヴィニョンの娘』とか」
「ふーん。おれはピカソなら『鳥籠』がいちばん好きだけどな」
陽もだいぶ落ちて街灯がちらほら灯りはじめた。駅までの坂道を下りつつ、そいつはいきなり芸術談義をはじめた。いつものことだ。
「だって、きみはピカソ自体がそんなに好きじゃないじゃないか」
どうも不満げな声だが、ごもっともだ。
「別に嫌いなわけじゃないけどな。シュルレアリスム以降の絵がそんなに得意じゃないだけだよ」
「ゴッホは好きなくせに」
「モディリアーニも好きだぞ。いちばん好きなのはベラスケスだけどな」
「どこの国の人?」
こいつは描くのは好きなくせに知識はない。おれと話し以外から情報を求めようとしない。
「スペイン。フェリペ二世とか描いた人。」
興味なさげに頷くだけのそいつ。古典芸術に関する関心は薄いのが残念だ。
「まぁ、でも時代はルネッサンスがいちばん好きかな。それこそ今も続いてる芸術の直接の先祖って感じだし」
「……ルネッサンスってらなんか良いイメージないな。ラファエロとかミケランジェロでしょ?」
「まったくなに言ってんだよ。ミケランジェロはアメリカ建国の遠因にもなったんだぞ。近代美術だって中心地はニューヨークだろ」
まぁ、だからこそおれはあんまりMoMA型美術館とかあんまり好きじゃないんだけどな。
「アメリカってカトリックから逃げたプロテスタントが作ったんでしょ? それのどこにミケランジェロが入るのさ?」
「じゃあお前、プロテスタントがなんでできたかわかるよな?」
「さすがにわかるよ。ルターの宗教改革でしょ? で、そのきっかけが免罪符」
納得いく答えに頷くおれ。だけどあともう2、3足りないな。
「じゃ、なんでルターの宗教改革の時には免罪符が発布されたか知ってるか?」
「……わかんない」
「そもそもの背景から説明すると、当時の芸術家っていうのは職人なんだ。当然パトロンが必要になってくる。で、ミケランジェロやラファエロとかの当時から有名な屋連中は、だいたい教会のお抱えだったんだ。当然ヴァチカン宮殿にはもっとたくさんの画家の絵が飾られている」
今度はそいつも興味を示したようで、耳を傾けてくれている。そうであればおれも俄然饒舌になる。
「ちなみに免罪符ってのは、11世紀の十字軍遠征からやってるんだ。それから教会が金を必要とするとちょいちょい発布するようになったんだ」
「つまり、宗教改革前に、教会にお金が必要になるような事があったってこと?」
「そ。それがサン・ピエトロ大聖堂の大改築。まぁ、厳密に言えばミケランジェロが関わりだしたのは改革あとだったかな?」
「じゃあアメリカ建国の遠因じゃないじゃん。ミケランジェロ」
「まぁ聞けって。大改築前の法王がユリウス二世って言うんだけど、この人がルネッサンス時代の最大のパトロンなんだ。システィーナ礼拝堂の天井画もこのとき描かれたもんだし、ラオコーン群像がヴァチカンに購入されたのもこの人の時。まぁ、この人が金を使いまくったんだよ。次のレオ十世やクレメンス七世の時は火の車さ。でも法王たちは芸術を求めたのさ、レオ十世は大改築。クレメンス七世は礼拝堂の壁画とかね」
まぁ、他にも神聖ローマ帝国の侵略とか権威失墜とかあるんだろうけど、ミケランジェロが関わってないから今は良いか。
「ふーん。とりあえず芸術によってお金がなくなって、免罪符を発布。そのせいでルターの宗教改革っていうのはわかったけど……それだと芸術がアメリカを作ったになるんじゃないの?」
「まぁ、その中で特に有名なのはミケランジェロだろ? 海外ではラファエロのほうが評価高いらしいけど」
「……でも、やっぱりぼくはルネッサンスは好きになれないや。お金が関わってくるとなんでも変になっちゃうね。なんだから純粋な芸術や表現って感じがしないよ」
そいつがそう言い切ったところで駅に着いた。つまり今日の話はここで終わりというわけだ。
「じゃあね」
「おう。またな」
おれはそいつが駅の階段を上っていくのを見送りながら、さっきは飲み込んだ言葉を吐き出した。
「今のほうがよっぽど芸術は売り物にされてるよ。アメリカの芸術なんか、最初っから値札が付いてるようなもんだ。