フェイ
「じゃ、そろそろ行こっかね?」
フェイは飛び降りるように椅子を立った。診察室で最後の検査。これから向かうのは手術室。
「フェイ……」
「もぉ。その哀れむような目、やめてよね」
どんな言葉をかけていいのか思い浮かばないわたしにフェイが絡んだ。
「あ、哀れむだなんて……」
「いいから笑っててよ。せっかくテンション上げてるのが下がっちゃう」
「笑えないよ」
「出来ない先生ねぇ、アリスは」
「……………」
フェイは覚えたばかりのわたしの名をなれなれしく呼び、演技がかったため息をつく。彼女の言う通りわたしは医者として未熟だ。死に向き合った経験がわたしには少なすぎるのだ。わたしは助けを求めてノーマに視線を逃がした。するとノーマまで憫笑とも呆れともつかない小さなため息をついた。
「フェイ」
「なに、ノーマ?」
「今となっては特に言っとくこともないんだけど」
「ん~あたしもかな」
「まぁとにかくありがとう、かな。人類に代わってお礼を言わせてもらうわ」
「どってことないわ。次時代の受験生があたしの名前を覚えるって考えると結構愉快よ」
「あ、それわたしも~」
この期に及んで普段と変わらぬ能天気な会話を交わす二人。わたしにはとても出来ない芸当だ。
「バイバイ、フェイ。すぐに追っかけるわ」
「バイバイ、ノーマ。やだ、ついてこないで」
ノーマは微笑み小さく手を振った。フェイは舌を出して応えた。
「ねぇアリス」
フェイは再びわたしに向き直り、口を開く。
「……うん」
「何も言えないなら何も言わなくてもいい。その代わりこれからあたしが言うことに全部頷いて」
「えっ?」
「え? じゃない。『うん』か『はい』で答えるの」
「じゃ……うん」
「あたしの身体は弟の傍に埋めて」
「うん」
「お盆とお正月にはお線香を供えて」
「うん」
「あたしを忘れないで」
「……うん」
「あたしの前じゃ泣かないで」
「う……ん……」
「でも、あたしがいなくなったらたくさん泣いて」
「う……うん……くぅ」
鼻の奥がずきんと痛んだ。
「このくらいで赦してあげようかな」
「うん……」
「あ、そうだ! 最後にもう一つ」
「ジャックをちょうだい?」
「う……え、やだ!」
「あはは、惜しかった」
「ばか……」
「恋が出来なかったことがあたしの人生の唯一の失敗ね。アリスがうらやましいわ」
「わたしも~」
「姉さんは入ってこなくっていいの!」
「ちぇ」
「じゃ、行きますか」
フェイはぽんとノーマの肩を叩いた。
「手術、痛くしないでよ? それと出来るだけ傷は目立たないようにして」
「はいはい。痛みを感じる間もなく一息に!」
ぶすりとメスを突き刺すジェスチャーのノーマ。
「おいこらぁ!」
「フェイ……」
「そうだアリス、最後のお願いよ。月並みなことを言うけど」
「うん」
「絶対に諦めるな」
「ネガティブ少女フェイとは思えないポジティブな言葉ね」
「うるさいなぁ、今はアリスと話してんの!」
「あらごめんなさい」
「これは9回裏2アウト満塁からの攻撃よ」
「え、野球?」
「そうよ。野球のルールくらい分かるでしょ?」
「ええ、まぁ」
「あたしも、ノーマも、優作も、捨て身で塁に出たんだからね。必ずあんたが打って返すの」
「うん」
「とはいえ。アウトになってもあたしは怒んない。勝負は時の運だから。ただし見逃し三振だけは赦さない。もう一度言うわよ。自分から諦めたら絶対に承知しない」
「……はい」
フェイが手を差し出してわたしはそれを握り返した。そしてフェイはノーマと一緒に手術室へと向かった。