メロスの悪魔
わたしは暗闇の中に沈んでいた。全身が痛みに軋んだ。悲鳴を上げようとしたが声が出なかった。撃たれた。そこまでは覚えている。それから? ああガードレールを越えて崖下まで落ちたのか。
「あ、あう……うく」
指一本すら動かせなかった。しかしそれは怪我のせいではなかった。この身を静かに侵していくのは絶望という致死毒だった。メロスの悪魔はわたしの心の奥に随分前から潜んでいた。そして不意に顔を覗かせてはわたしを引き込もうと誘った。何度追っ払っても悪魔はしつこくつきまとい、わたしが弱るのをずっと狙っていた。悪魔との戦いはこれまでだってずっと薄氷の勝利だった。勝てるわけがない。もういいんだ、好きにしたらいい。このまま身を任せていればいずれ悪魔はわたしの魂を手に入れるだろう。そうすれば全ておしまい。死後の世界なんてない。待っているのは穏やかな“無”だ。已んぬる哉。もう誰も、何も、知ったこっちゃない。この世界には悲しいことばかり。いつも誰かのために必死になってそれでわたしに何の得があったっていうの? もう赦してよ。誰か、もういいよ……って言ってよ。
『誰が言ってやるもんですか!』
……これって誰の声だったっけ?