メジャー
アンプルからシリンジに吸い上げた薬液を指で弾いて攪拌する。
「…………」
波はわたしの白衣にくるまり、ぼんやりとわたしを見ていた。寒いのか、少し震えている。
「はい、腕を出して」
細い手首を引くと波は力なく腕を伸ばす。
「我慢してね……あなたのためだから」
話しかけてはいるが返事は期待していない。ほんの数時間前まで|集中治療室(ICU)にいたのだ。意識はまだ混濁状態にある。
「や………」
静脈に針が沈み込む瞬間だけ小さな身体がこわばった。プランジャを押し込むと優作の抗体が波の中へと静かに溶け込んでいく。抗体の副作用で波はまたすぐに眠ってしまうだろう。
わたしたちは先刻の白樺林から少し離れた岩屋に逃げ込んでいた。もちろん快適ではないが風ぐらいは防げるだろう。本当はもっと遠くへ逃れたほうがいいのは分かってる。けれど足元のおぼつかない波を抱えて移動することには限度があった。体力はすでに限界だった。このちっぽけな身体が苛立たしかった。こんなとき優作がいてくれたらわたしたち二人を軽々と抱えどんな遠くへでも運んでくれるだろう。全身に寂しさと不安の毒が回りだす。わたしは首を振ってその空想を打ち消した。
――わたしはノーマの意志に従い、診療所を後にしてセンターへ向かった。わたしはそこで波の治療と抗体の研究を行うはずだった。しかしそうはならなかった。ノーマの不安は的中した。波との久々の対面とメジャーによるセンターの襲撃はほとんど同時刻だった。医療複合体の目的はもちろん抗体だった。最初は黙殺していたくせに成果が上がりだした途端に手のひらを返して接触してきた。人類の天敵であるDOTESの治療法は莫大な利益を生む。いや世界を支配することすら可能だろう。だがノーマは応じなかった。彼女はそんな世界を望みはしなかった。ノーマに撥ねつけられたメジャーは次第に手段を選ばなくなっていった。実はわたしたちが隠れ住んだあの診療所も武装集団の襲撃を受けたことがあった。でもあのときは優作がいてくれた。
センターを襲撃したのは診療所を襲った連中とは比べ物にならない本格的な武装集団だった。戦闘のプロの前に非武装の研究者たちは次々と倒れされていった。男たちは一直線にある場所を目指していた。もちろん波が治療を受けているICUだ。センターでの波の主治医だった中老の女性研究者はわたしに波を連れて逃げるように言った。彼女を撃ち倒す小銃の響きを背にわたしたちは裏口から抜け出した。