天使の浮島
以前別の筆名で大学の部誌で発表したものに修正を加えたものです。
盛大な墜落音。部屋の食器がカタカタと揺れた。
「……ああ、また落ちたのね」
ひよこのようなふわふわの毛が庭の緑の間に見えて、リシュは呆れた声と視線で彼を迎えにいった。ティーセットとお菓子を持って。
「……てへ」
「いい歳した大人がてへとか言ってんじゃないわよ鬱陶しい。そんなやっちゃった、みたいな可愛い振りしてもその動作してるのが二十歳超えた殿方ってだけでウザいわ」
「ひ、ひどい……」
しくしくと泣き真似をしていた墜落者だが、リシュが庭に置かれた小さなテーブルにティーセットを準備しだすと其れを止めた。
「いらっしゃいませ、テト。席へどうぞ」
優雅な動作でリシュが招くと、テトは顔中を笑顔にしていそいそと小さな椅子に座るのだった。
「今日は焼き菓子だね。僕、これ好きだよ」
「そう、よかったわ」
二人だけのお茶会。
これが習慣になったのは何時からだったろうか。
有翼の天使が住む『天空』と、人が住む大地の間。ここはいくつかある人工的に作られた空の浮島の一つだ。
ここにはリシュしか住んでいない。リシュのために作られた小さな小さな浮島だった。
ずっと一人だった。
眼下に広がる世界を眺めながら、自分のために自分の手で入れたお茶を飲んでいたリシュの目の前に、ある日一人の天使が降ってきた。
それが、二人の出会い。
「普通天使が落ちてきたなんて言ったらどんなロマンティックな事かと思うでしょうにね。昼寝してて雲から落ちたなんてこんなボケボケ天使を知ったら、下界のお嬢さんがたが怒るわよ。夢を壊すなって」
くるくるとティースプーンを回すリシュに、テトは4つ目の砂糖をアールグレイの紅茶の中に入れながら笑った。
「平気だよ。下界までだと、たどり着く前に翼で飛ぶから。このくらいの高さだと逆に翼が使えないんだよねぇ。ほら、猫も50センチくらいの高さだと足から着地できないでしょ?」
「猫は飼ったことないからわからないわ」
すげなく切り返されてしょぼんとする。リシュはその情けない様子に楽しそうに笑う。
「お菓子貰うね。おいしそうだ」
リシュは、焼き菓子を食べるテトの様子を真剣な顔で注視する。
「ん、美味しい。また腕を上げたね」
その言葉にほっとしたように頬を緩ませた。
「初めは硬いわ焦げてるわ砂糖と塩の分量比逆にしてるわ、大変だったもんなぁ」
リシュの目に剣呑な光が宿り、テーブルの下で思い切りテトの足を蹴りつける。涙目で痛みを訴えてくるが、自業自得だとリシュはそ知らぬ顔でミルクティーを一口。
そのリシュの目に、ふと懐古の色が浮かんだ。
「……そうね、初めは食べられたものじゃなかったわね」
真っ黒で、石みたいに固くて、海の水より塩辛くて。
それでも他に食べるものがないから必死で食べた。水みたいな(時には渋すぎる)紅茶だって、一滴だって残さなかった。残せなかった。
豪華な料理を作ってくれる料理人も、美味しいお茶を入れてくれるメイドも居ないから。そして、定期的に与えられる食糧は、けして多くは無かったから。
革命によって王制から共和制に取って代わり、王女だったリシュは罪人となった。仕方ないとリシュは思う。彼女の父はいい王だったとは言えないから。それを諫められなかったリシュの罪は、王族としても娘としても重い。
この浮島へ終身の流刑にされたときも、処刑されないだけいいと自分に言い聞かせた。喩えそれが、供の一人も許されない、今まで王女として生きてきた少女にとっては野垂れ死にを期待されているに等しい処遇だったとしても。
ずっとずっと、たった独りで下界を眺め続けた。王が居なくなり、緑が増えていく地上を。
テトが落ちてくる日までは。
「今はレパートリーも増えたよね。昔はクッキーしか出来なくて、石からお菓子への変遷が分かりやすくてそれはそれで面白かったけど」
「……あなた喧嘩売ってる?」
冷気を放つ笑顔に、テトは冷や汗をかきながらものすごい勢いで首を横に振ったのだった。
他愛無い会話は流れる時間が早かった。
ティーセットは片付けられ、テトは大きな白い翼を広げる。
「……もう、落ちるんじゃないわよ」
「気をつけるよ。じゃぁ、またね」
毎回繰り返されるやり取り。
リシュはわかっている。広大な空で、小さな小さなリシュのいる浮島に落ちる確率がいかばかりであるのか。
テトもまたわかっている。罪人という立場にある彼女が、孤独故の小さな願いすら飲み込んで、憎まれ口を叩いている事を。
一度目は偶然。二度目は神様の気まぐれ。三度目は必然。
おとぼけ天使はまたこの島に落ちて、落ちぶれた王女は彼のために紅茶を淹れるだろう。
それが、彼らの日常。