第八章
『ぎぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁああああ!』
翌日、僕と涼華の濁点の多い悲鳴がペンション内に響き渡ったのは午前九時前。
発情期を迎えた涼華とのぶつかり稽古に日付変更寸前まで明け暮れていた僕たちは、疲れに身を任せたは良いが、目覚まし時計より大きい胃からのエマージェンシーコールに揃って午前中に目を覚ましてしまった。
体に残る気だるさに溺れてそのまま二度寝をしても良かったのだけれど、僕より涼華の方が重度の空腹だったため、何とか脳を起動させて、朝食を作ってもらおうと二人でオーナーさんの部屋を訪ねた。
いくらノックをしても出てこないパブロフ犬に、まさかとは思いつつドアノブを捻り、それが簡単に開いた時、僕と涼華はこのペンションに来てから初めて冷や汗をかいた。
恐る恐る開いたドアの向こうには、己の血で部屋を真っ赤にデコレートしたオーナーさんのバラバラ死体があった。
ぎゅごごごごご、と一際大きくなった胃に呼応するように、僕らは思わず悲鳴を上げた。
参考までに言うと、僕も涼華も料理は全く作る事が出来ない。
殺人事件以外で僕たちが唯一楽しみにしていた、三大欲求の一つが当分の間満たされないことが決定した。
「回想……おわ」り
隣では涼華が呆然とした表情で、間違えて僕の台詞を言っていた。しかも最後まで言えてない。しばらくは省エネモードでいかないと本気と書いてマジでヤバい。
床に座り込んだまま脱力している僕たちに、生き残りの皆様がゆっくりと近づいてきた。
「そんな」「肉食獣じゃ」「ないんだから」「食べないで」「すよ」省エネモードの影響か、なんとかお互いが生き残れつつ探偵として最低限の役目を果たすべく僕たちは互いに台詞を分け合った。
ぎいいぃぃぃぃぃ。
腹の音も入れたら、四人で分け合ったのかもしれない。二人だけ『お腹すいた』しか言わない裏切り者がいる。……誰か、食べ物下さい。
死体よりも目だった探偵は僕たちが始めてじゃないだろうか。
皆さんあちらの元オーナーの肉塊よりも、目の前で行き倒れかけている美少女(涼華)の方が気にかかったのだろう、見るからに優しそう(ネコそう)な従業員Bのお姉さんがすぐ後ろに従業員Bの(タチの)お姉さんを従え、他の二人僕たちの間にある堀を土嚢で埋めながら僕たちに近づいてきた。
僕と涼華は最後のチャンスを逃すまいと、胃から声を出した。
「お姉さ」「ん」「僕たち」「に」「何」「か」「食べる物」「を」「下さい」「な」僕の方が二倍以上も台詞が多いのは、涼華の空腹具合の深刻さとヒモという立場を加味した結果によるものである。
僕と涼華の最後の力の振り絞ったお願いが届いたのか、ネコのお姉さんはぽんと手を叩くと「あら大変。今何か食べるものもって来るわね」と笑顔で言い(この時、僕と涼華は確かに天使を見た)タチのお姉さんを連れて階段を下りていった。
体感時間にして十分程後、
『ガツガツガツガツガツ!』
実際にそんな音を立てながら、僕と涼華は目の前に並べられた、またしても中華料理の満漢全席を咀嚼していた。マナー、何それどこの偉人?
鷲宮家では日常茶飯事の光景も、常識からは少々異常に逸脱しているらしく、失禁さんとヒッキーはそんな僕たちを先ほどより一メートルほどの間を開けて見つめていた。これ、見物料とれるんじゃなかろうか。
唯一僕たちの食事風景を微笑みまじりで見つめているのは、天使ことネコのお姉さん。ふんわりとした髪と優しげな笑顔は正確にも反映されているようで、それは、元々は冷めていたのであろう料理がレンジでは再現出来ない、まさに出来たての風味を五感に訴えてくる事からも窺える。僕は料理についえ疎いどころか、電子レンジさえ満足に使えない始末なのだ(一度ゆで卵を作ろうとして壊した事がある)いろいろと伝えたい事はあるが「うご。ががが」「はい、お水」「んぐっ、んぐっ」ぷはー。と言った具合に、喉に詰まらせる程美味しいと言う事だけで十分だろう。
タチのお姉さんはと言うと、僕たちの真後ろに控えていて、時折物珍しげに「うりうり」と僕たちの脇腹を指で突いて遊んでいた。食事中に脇腹を突いてくるあたり、どうにもS気が強いらしく、ネコのお姉さんの今夜ついて想いを巡らせると「嘘嘘嘘嘘嘘!!」僕の首筋に涼華の伸びた爪が食い込み、危うく鵜になりかけた。実は僕たちの脳は糸電話式に繋がっているのではないだろうか、ヒモだけに。
死体と呼ぶには語弊のある、肉片の散らばった部屋の前での満漢全席というかなりシュールな光景は、たっぷり三十分程続いた。
「うーむ。涼華、これは……」ずずずず。
「頭部が無かったらオーナーさんかも区別出来ないレベルの惨殺死体ですな」ごくり。
僕たちは食後の烏龍茶を片手に、オーナーさんの散らばった死体を観察した。今回は失禁さんも学習したようで、部屋の入って右にあるトイレで、昨日の夕飯を下水にいる魚の餌にする作業に勤しんでいた。
ネコのお姉さんは顔面を蒼白にしながら、こちらも顔面の筋肉を引きつらせているタチのお姉さんに支えられて何とか立てている状態だ。時折痙攣する腹部に僕は嫌な予感がしたけれど、なんとかこらえている様子。さすが天使。どこぞの反芻OLにも見習ってもらいたいものだ。あ、トイレのドアの下から黄色い液体が。
余程の恨みをもって犯行に至ったのだろう。オーナーさんの首から下は、ミキサーにでもかけられたのではないかと思うほどにぐちゃぐちゃになっていて、死体が誰の物か判る唯一の材料であるオーナーさんの頭部ですら、後頭部が切り開かれて皺の少ない味噌が掻き混ぜられている。
もう完全に痴情コングロマリットだ。
そうなってくると、犯人はあまり考えなくて済む。というか探すまでもない。問題をあげるとするならば、
早すぎる。
少なく見積もっても、このペンションを密室にしている豪雪は、後三日は続く。けれど、このペースで次々と殺人事件が起きてしまっては、三日後に生き残っているのは僕と涼華の二人だけになってしまいかねない。それは非常に困る。はっきり言って無駄足になってしまう。それだけは避けたい。
少なくとも、今日だけでも、事件が起きるのを防がなくては。
昨日一日部屋に籠もっていた罰なのだろうか。
なんとかせねば。
僕は、内心の焦りなど微塵も表に出さず、その場でくるりと回ると全員へと向き直った。
「みなさん、ここは一旦お開きにして、一時間後にラウンジに集合しましょう。くれぐれも、それまでは自室から出ないようにお願いします」
僕一人ではどうにもならないだろうから、ここは一つ、涼華に指示を仰ごうじゃないか。
「それじゃあ涼華、部屋で作戦会議でもしよっか」
全員が出払った後、念のため僕は涼華の耳に口を近づけるとそう囁いた。
涼華はくすぐったがって身を捩りながら器用に首を縦に振った。
そろそろ探偵さんの出番が来たって、誰も文句は言わないだろう。
続きは夜か明日にでもあげます。