間章一
薄暗い部屋の中には何台かモニターが設置されていた。
モニター越しに見える映像には今のところ何も変化はない。
各部屋のドア付近。ラウンジ。食堂。
そのそれぞれを、二つから三つの視点でモニター越しに監視することが出来る。
それを見つめる眼球は二つ。
左手に持った無線機を左耳にあて、右耳には盗聴器と呼ばれるものの受信機が差し込まれている。
その人物は全身をすっぽりと毛布で覆い、モニターの前に膝をたてて座り込み、時折囁くような声の聞こえる無線機の音に集中しながら、機を窺っていた。
モニターに映し出される映像には未だに変化はない。
右手に持った、もう一つの受信機の音量のつまみを爪が擦る音だけが零れた端から消えていく。
モニターを見つめる眼球に帳が落ちることはない。
一分、二分、三分と時間が緩やかに流れ、眼球に血管がうっすらと浮かび上がる頃、無線機からいままでよりもはっきりとした声が耳に流れた。
「到着」
モニターの一つから映し出される映像に、姿を視認出来ないほどの速さで影がよぎった。
それを見つめる眼球はせり出した帳に細められる。
右手の指先が受信機を一定の間隔で揺れることなく叩く。
トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン。
十、九、八、七――極めて正確なカウントダウンが開始される――六、五、四、三、二――――一、
零。
「開始」
たったの一言が、無線機のマイクを通る。
一秒後、ある部屋のドアを映した三台のモニター上を、影がよぎった。
先ほどと違う点は二つ。
右耳につないだ受信機から流れてくるコンコン、という乾いた音。
もう一つは、忽然とドアの前に姿を現した少し小さめの紙袋。
三秒ほど経つと、ドアがゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、ショートカットの女性が一人。受信機からは、部屋の中でテレビでもついているのだろうか、がやがやと騒々しい音が聞こえる。
ショートカットの女性はドアの外に誰もいないことに対する不審感を表情にだしたが、次の瞬間に、自分の足元にある紙袋に目をやった。
ゆっくりとかがみ込み、紙袋を左手に取る。
中に入っているのは、血まみれのリングと黒い携帯電話そして――
モニターに映っている女性は始めにリングを手に取り、その表情を強張らせる。
彼女は紙袋を床に置くと、そのリングを左手に強く握り締めた。
彼女はまだ立ち上がることが出来ない。
しばらく爪が皮膚に食い込むほどに握り締めた左手を見つめると、彼女は再び紙袋の中を漁った。
次に、これは血のついていない携帯電話を取り出すと、二つ折りにされているそれをゆっくりと開いた。
待ち受け画面に設定されている画像を見た瞬間、左手の爪は皮膚を食い破った。
瞳孔がゆっくりと開く。
右手に持った携帯電話が軋んだ音をたてる。
口がぎゅっと結ばれる。
大きく開いた目で、もう一度その画像を見た。
右手は次第に震え始めた。
部屋の奥から、彼女を呼ぶ間延びした声が聞こえる。
携帯電話の待ち受け画面に映っている二人のうちの一人が彼女を呼ぶ。
余りの負荷に、携帯電話の電池パックのカバーが外れる。
シールとして様々なところに張ることに出来る写真が、カバーの裏に貼り付けられていた。
待ち受け画面同様に、そこには彼女のよく知る二人が映っていた。
彼女が愛した、彼女が殺した男と、彼女が愛した女。
彼女は俯き、顎のラインで切りそろえた髪がさらさらと揺れる。
次に顔を上げた時、そこには表情と呼べるものは無かった。
そして――――彼女は最後に紙袋の中に残っていた、グリップの大きな片刃の大きなナイフを手に取った。
後ろから声がかかる。よく知っていた声が。
彼女はゆっくりと振り返り、背中にナイフを隠すと、笑顔で部屋の中へと戻っていった。
ドアが、ゆっくりと、閉じる。
モニターは、再び何も変化の無い状態に戻った。が、
十秒後、ドアの下から赤い液体が廊下へと染み出した。
モニターの前にいる人物は、一連の映像を見終わると、右耳に差し込まれた受信機を外し、それを無造作に放ると、代わりに右手にもっていた受信機を右耳に差し込んだ。
それまで一度もモニター以外に向けられることの無かった眼球は、初めて黒い帳に包まれた。五秒後、再びモニターに向いた眼球には僅かな愉悦を纏っていた。
時刻はもうじき丑三つ時になろうかという頃。
受信機からはまだ何の音も流れてこない。
「順調?」
「順調」
無線から聞こえる現状に関する問いに簡潔に答える。
やり取りが終了し、無音になったはずの無線機から、どことなく浮かれた空気が漂う。
空いた右手で、不要になったいくつかのモニターの電源を落とす。
稼動しているモニターを過ぎる影は、徐々にその速度をあげている。
一つ上の階のモニターを眺めると、右手が今度は膝を性格に叩いた。
コン、コン、コン、コン、コン。
今度のカウントは先ほどよりもいくらか短い。
五、四、三、二、一、
零。
ドンドン!
先ほどとは打って変わり、受信機からはドアを強く叩く音が流れてくる。
モニターに人影は映らない。
受信機から音が流れた時には、既に紙袋が置いてあった。
今度は余り間を置かずに部屋から長い髪を乱した女性が現れた。
視線は上下左右へ目まぐるしく動いていて、一箇所に止まることはない。
半開きの口元からは言葉のようなものが零れ落ちている。
定まらない視線の中、どうやってそれを視認したのか、その女性は顔を俯けると紙袋を視界の中に収めた。
口から呪詛にも似た言葉だけが淡々と床に落ちる中、彼女はしゃがみ込むと紙袋を手に取った。
中身は三つ。一つは先ほど同様に携帯電話、次いで今では珍しいテープレコーダー。
レコーダーから伸びるイヤホンを耳につけ、再生ボタンを押すと、彼女の表情は驚愕で彩られた。
右手に携帯電話を取り、通話とメールの履歴を表示させる。
半開きだった口は次第に開き、声帯の震えが治まる。
レコーダーから流れてくるのは、ここ何日かで見知った男の声。
何故か彼女の元恋人の携帯電話に着信やメールの履歴が残っている男の声。
嗤っている。
うわ言ように要領を得ない言葉を紡ぎながらも、その男ははっきりと嗤っていた。
だからあの女はやめとけって言ったのに。
ぜったいあいつは頭がおかしい。
ストーカーどころか、ただの殺人鬼じゃないか。
あんな女と遊んで死ぬなんて、本当に馬鹿な奴だ。
ねえ、そうだろう?
モニターの前でその光景を淡々と見つめる人物が用意したレコーダーには、ある男の独り言が録音されていた。
モニターに映る彼女は気づいていない。
あまりにも受け入れがたいテープに録音されたうわ言に気を取られて、気づいていない。
通話履歴もメールの履歴も、その男の名前が登場しているのは彼女とその恋人がその男と会った頃。
ここ何日か分しかないことに。
彼女は気づけない。
第三者の作為に気づけない。
だから、彼女は紙袋の底にある両刃のナイフを取って部屋の中へと引き上げた。
三十分後、モニターの前には二つの影があった。
一つの毛布に包まって膝をたてて座る、二つの影があった。
受信機のジャックに差したイヤホンを二人で一つずつ相手に近い耳に付け、モニターを凝視している。
ぎいぃ。
中から出てきた人物の心情を汲み取ったかのように、そのドアは重厚な音をあげて開いた。
中から出てきたのは先ほどの女性。
しかし、先ほどまでの面影はどこにも残っていない。
シャワーを浴びてドライヤーでブロウしたのか、先ほどまでは乱れ放題だった髪はしっとりとまとまり、毛先はゆるく跳ねている。
一箇所に止まることを知らなかった眼球は落ち着きを取り戻し、睫毛は上を向き、化粧のせいか先ほどよりも目が大きくなっている。
服装は真っ白なワンピース。
そして、右手に両刃のナイフ。
鼻歌を歌いながら、彼女は歩き出す。
――五分後、
彼女は真っ赤なワンピースを身に纏い、揚々と自室へと戻った。
スキップをしていたせいだろうか、右手に持ったナイフから滴り落ちる血は、とある男の部屋から彼女の部屋まで、ところどころ間隔を空けながら床を汚していた。
モニターの前でそれを見つめていた四つの眼球は、妖しく上弦を描いた。




