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第十七章

 とりあえず自室を後にした僕は、単にペンション内を徘徊するのも面白みにかけるということで、誰にも遭遇してはいけない、という自分ルールを設定した。

 目標は、涼華の脳内からはとうに消えてしまっているであろう証拠品の数々。

 まずは三階から、といきたいところだけれど……「はい巻き戻しー」……不穏な音をたてながら脳内のビデオテープをまき戻すと(地上波デジタルなんぞには対応しておりませぬ)ちょうど必要としていたあたりの記憶が再生される。

 ――しばらくお待ちください。

「うむうむ」

 顎に手をあて、何度かそれっぽく頷いた後、階段を下りて二階へと向かった。

 一人の時の方が面白い人って結構いるよね。

 こういった捜し物の時は、出発がS館の三階なのだから上の部屋から順に物色もとい証拠の散策に乗り出すべきなんだろうけど、先ほどの脳内再生で出てきた順番に巡ろうと思い立ったが吉日という言葉もあるのでそれを拝借する次第で……って何が言いたかったんだっけ。とりあえず二回へゴー。

 S館二階の奥にある部屋は現在自称大学生が現代病にかかって篭城しているので放置。閉じられた部屋のドアから立ち込める臭気を鼻を摘むことで何とか堪えて「おじゃましまーす」当然返事はない。

 抽象画としてさえ表現することが難しい室内の肉片の散らかりようは無視するとして、すっかり乾いてしまった元血溜りの上を上体を屈めながらゆっくりと散歩した。

 さすがに、乾いているとはいえ、不倫の末に殺されたような人間の血で涼華から貰った服を汚すことはしたくない。したくないし、怒られそうで怖い。

「うっ……」やばばばばっばば。

 この部屋の惨状に胃の中でしぶとく生き残っている羊の大群が最期の力を振り絞って暴れ出した。牧羊犬。いや、最悪牧羊豚でもいいから、誰か何とかして。

 ここで吐いたらあのOLと同類ここで吐いたらあのOLと同類ここで吐いたらあのOLと同類ここで吐いたらあのOLと同類…………立葉は魔法の呪文で羊の大群を撃破した! レベルアップまで経験値はあと三百ほど残っている。

 それにしても、僕が殺人鬼を職業にしてた頃だって、ここまで酷い殺し方はしなかったっていうのに……痴情の縺れは本当に怖い。涼華はもっと怖い。

 さすがにこの光景を長時間直視するのは体(主に胃だけど)に悪いからどうにかしなきゃいけないんだけど……。国民的アイドルの青い自称ネコ型ロボットみたいにチート気味な道具なんかもっていないし。せいぜいが叩いてもビスケットの増えない二――三次元ポケットくらいしかない。

 思考が別次元に飛んでいってしまったものだから、一時的に制御下を離れた眼球は、瞼を閉じることで羊の暴動を未然に食い止めた。司令塔不在の方が実力を発揮できるのではなかろうか。

 視覚からの情報がシャットダウンされたことによって脳はようやっと思考の脱線から本筋へと復帰。VHSレコーダーを起動させて現在位置と記憶を照合させる。人体の司令塔だけあって、この器官は用法用量さえ間違えなければ非常に役に立つ。

 役には立つんだけど……残念なお知らせもあったりする。

 完全に僕の記憶違いということになるのだけれど、この部屋に僕が捜しているものは、あるにはあると思う。でも、僕はまだそれを一度も目にしたことがない。

「はぁ…………うっ」っぷ。

 必要かもしれない。

 遠足のしおりに度々登場する例のあれ。

エチケット袋が。



 ようやく捜し物を見つけてS館を後にする頃には、口の中がレモン味になっていた。

 一応言っておくけれど、口から外には出ていない。

 もう一度言っておくけれど、口から外には出していない。

 完全に暴動は制圧されたのだけれど、死闘の結果、僕の体力はほぼゼロと胃って……言っていい。背中には未だに嫌な汗が伝っている。

 気力の極端な減少に足音すらたたない。

 階段を通過してN館に入ると、何も考えずに一番手前のドアを開けて部屋に入る。もしかしたら奥の部屋かもしれない。

 どっちでもいいや。

 部屋の中央、ベッドの手前に転がっている肉片の脇に無造作に放っておかれた電子機器二つを、先ほどの部屋で捜しあてた物と一緒にポケットの中に突っ込む。

 目の前と右手にある二つの選択肢に心が揺れる。

 片方は心地よいけれど、汚い。

 もう片方は多少窮屈だろうけれど、汚くはない。

 途絶えかけようとしている意識の中、やっぱり汚いのは嫌だったので、僕は右手にある押入れの戸を開けると(ブランケットを毛布と呼んでしまう現象。お察し下さい)そこに飛び込んだ。

 向こう側の音と映像が見やすいように、少しだけ戸を開けておくのも忘れない。

 ちょっと……休憩。


 僅かな間途絶えていた意識は、部屋のドアの開く音によって水面へと浮上した。

 足音は聞こえないけれど、侵入者の気配は消えていない。

 戸の隙間からそっとV字さんを見つめる。

 死体を影が覆う。

 影には首がなかった。

 侵入者は長髪の女性だ。従業員の片割れとヒッキーの可能性が消える。

 影が消えた。

ぺたん、ぺたんぺたん。

 何を思ったのか、侵入者は足音を消すのをやめ、部屋の中を歩き回りだした。

 足音からして、従業員のお姉さんはないだろう。あの人は性格からして出会ったことのないタイプというのもあるし、それが理由なのかは判らないけれど、独特の歩き方をする。

 ぺったんぺったん。

 だんだんと押入れから遠ざかっていく気配に、僕は頭を少し壁に寄せ、さっきよりものりだした形で室内の様子を覗こうとして――――

 戸越しに目が合った。

「――ッツ――!」

 目が合うと言うよりは眼球が合った。

 互いに戸の向こう側を見ようと乗り出していたもんだから、眼球どうしの距離は優に三センチは切っていた。

 声を上げるのは我慢したのではなく、声をあげることができなかった。あまりの恐怖に、僕はいつのまにか見開いていた目を閉じてしまっていた。

 全身がかあっと熱くなり、一瞬にして毛穴が開く。頭の中では血管が暴れくるっていて、耳からはその中を通る血液の音がきこえる。

 全身を這い回る恐怖にようやっと慣れた頃、僕はもう一度瞼を開いた。

 二度目の接触は、一度目ほどの恐怖は感じなかったものの、それでも口を開くことは出来なかった。

 心なしか膀胱が緩んだ気がする。危うくOLさんの仲間になるところだった。

 唯一の救いは(そのおかげでこんな事態になった可能性も否めないけれど)「立葉ちゃん、お昼寝?」戸の向こうの侵入者が涼華だったことだろうか。

「ん、ちょっと気分が悪くなって……」

 涼華のお陰で、オーナーさんの部屋でのムカつきは完全にどこかへ消え去った。

 その代わり、尿意が襲ってきたけど……。

 僕が膀胱の具合に気を取られていす隙に、涼華の目は僕から見て左斜め上を向いていた。どうやら思案中らしい。そのまま左右になんどか揺れる。

 左にいってー、右にいってー。中央でストップ。再び目が合う。

「立葉ちゃん、立葉ちゃん」理由は判らないけれど、涼華は僕に呼びかける時に名前を何回か繰り返すことが多い。何の影響だろう。

 いよいよ窮地に追い立たされつつある膀胱を自制しつつ、僕は目で続きを促した。戸越しに会話をしているからか、目が会話しているような錯覚をうける。日本中を捜したら、喋る眼球のオヤジくらいはいそうな気がする。

「捜しものが終わったら、お部屋に戻って作戦会議をしましょう!」涼華がどうして僕が捜し物をしていることを知っているのかなんて、今更気にならない。僕はだまって目で頷いた。「それじゃあ、後でねー」ストン、と子気味の良い戸の閉まる音をバックに、涼華はその場を去った。

 涼華が部屋を去り、ようやっとトイレ休憩かとインターチェンジ目前の中学生みたいなことを考えてほっとしていたら、どういう訳か、再び誰かが室内に侵入してきた。

 ぺたっ、というよりはべったりという感じの足音が室内に響く。間違いなく涼華ではない。というより、こんな陰気な足音を立てそうな人はOLさんくらいしか心当たりがない。

 初日こそオフィスレディーの様相が窺えた彼女だけれど、いまではすっかりダークサイドに堕ちてしまっている。その顔面も、化粧のけの字がないのはともかく、ここ数日で肉が落ち、今ではすっかり骨ばってしまっている。

 何をしに来たのだろう。

 自分で制作した元恋人の死体を目の前に、彼女は何を思ったのか、故ムッツリ氏の腕を掴むと、そのまま引きずってドアを目指した。三途の川越しの会話では物足りず、生前の器にムッツリ氏の霊でも降ろすつもりだろうか。本当にやりそうで怖い。

 ずっ、ずっ、ずっ。とムッツリ氏の死体は背面を床に擦りつけながらゆっくりと進んでいく。顔面を傷つけまいとするOLさんなりの配慮なのだろうか。お菓子の家を目指す兄妹の童話のよろしく、裂かれた腹部から乾ききった肉がぼろぼろこぼれていくのがシュールだ。なんの為の道しるべかは考えたくもない。というかあれ、階段を上がろうとしたら下半身が分離するんじゃないだろうか。

 ギイィ、とドアが空気を読んでどんよりした音を立てる。

 備えあれば憂いなし。昔の人の言ったことに従って、僕はOLさんが部屋を去った後もしばらく押しいれの中で息をひそめていた。ただでさえ万全とは言いがたいコンディションなのに、あれ程の負のオーラまみれの人間とは相対したくない。

 ポケットの中で踏ん張って、外目にも自己主張激しい捜し物たちを一瞥する。

 涼華も作戦会議なるものをするとか言っていたし、ここは危険がないと判った以上は早めに会議室になるであろう自室へと撤退した法が良いだろう。なんとなく、この部屋のトイレは借りたくないしね。

 スッと戸を開いて左右を確認して安全なことを確かめると、そのまま立ち上がって「あぐぅ」つむじのあたりを、押しいれを上下に二分する中板にこすりつけた。単にぶつけるよりもずっと痛い。頭皮が削れているんじゃなかろうか。大丈夫かな、これ。

 すっと外出しようと思ったのに、思わぬアクシデントによって頭を抑えながらずるずると這い出るという、なんともホラーな感じになってしまった。

 摩り下ろされた頭皮の心配をするのも零れたミルクを悲しんでもという風になってしまうので、仕方なくも僕はV字さんの部屋を後にした。

 音がたたないようにそっと後ろ手でドアをしめ、廊下を見渡して見るものの、すっかり人間の数が少なくなってしまったためかそこはしんと静まり返っていた。右隣りにある従業員二人の部屋に近づいて、ドアに耳をあてて中の様子を探ろうとしてみたものの、このペンションのドアは寒気を遮断するためなのか思いのほか厚いようで、単語の区別などつかないか細い音が聞こえるだけだった。

嬌声は通るくせに普段の会話は聞こえないなんて、ずいぶんとえり好みの激しいドアだ。

オーナーに似たに違いない。

捜し物も無事に見つかったことだし、これ以上長居する必要はない。僕は足早に三階の自室を目指した。


特技というものは誰にでもあるもので、それは僕にしたって例外ではない。

足音をたてないように階段を駆け上がって(これがなかなかやってみると難しい)S館の三階に着くと、会議室とでかでかと書かれたA4の紙が自室のドアに張ってあるのが見えた。

別に、このフロアに侵入する人間はいないだろうけど……自ら「作戦会議やってますよー」と宣言するのはどうなんだろう、自称探偵として。

それじゃあ、作戦会議してきます。

続きはまた明日

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