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第十六章

「ん……んあぁ~」

 通常時の五割り増しで重たいまぶたをやっとこさ開いて現在時刻を確認すると、気付いたら日付が変わっていました、まる。

 一番新しい記憶では、確か涼華からファールをとられて自室での謹慎を言いつけられて……ああ、そうだ。それで不貞寝をしたんだった。いけないいけない。

「ああ、寝すぎて瞼が重いなー」

 思いのほか棒読みになったのは気のせい。

「あー、立葉ちゃんが記憶の改ざんをしてる」

 涼華も面白い寝言を言うなあ。

 いつの間にか隣で寝ていた涼華はやや重そうな瞼を開いて大きく伸びをすると、やたらとふんわりしている癖に保温性は抜群という、わざわざ宿泊先まで運ばせる程お気に入りの布団を両手で鼻の少し上あたりまで引き上げた。

「立葉ちゃん、昨日は久しぶりにごうきゅ「あああぁぁぁぁぁ―――――――!」」

 僕はなんとか涼華の放送禁止発言に修正をかける事に成功。

危ない危ない危ない危ない。

とにかく理由は判らないけれど、理由は判らないけれど(ここ重要)! 昨日の事に関する話題は僕のあいでんててーを崩壊させかねない恐れがありまするので兎に角タブーなのであります。

なんとかその場を誤魔化すために、僕は背中を伝う汗を意識しながらも、笑顔で涼華に向かってよくテレビで偉い人たちが苦し紛れに言う魔法の言葉を放った。

「記憶にございません」

 ああ。なんだか、これからはテレビの向こう側の偉い人たちの事を生暖かい目で見守る事が出来そうだ。だってこれ、あまりの冷や汗に下着が肌にぴったりくっつくんだもん。


 涼華の発言にいちいちピー音を入れながら風前の灯のあいでんててーを必死に守りつつ食堂に行くと、おいしそうな匂いを放つブランチと嫌な笑顔を放つ二人組みに出合った。

「……………」

「モグモグモグモグ」

「……………」ニコニコ。

「……………」ニヤニヤ。

 これまた僕に対するあてつけのように全ての料理が一つのテーブルの上に並べられていたので、当たり前のように僕と涼華と従業員のお姉さん二人の計四人は向かい合って座る形になった。

右隣で某掃除機のような勢いで料理を口に運んでいる涼華はともかく、対面の二人の視線がまたしても僕の冷や汗を誘う。

 昨日何があったのか僕は本当にこれっぽっちも記憶が無いのだけれど! 笑顔と言うにはいやらしさが過剰気味の顔はまあ百歩譲れるとしても、その生暖かい目だけはどうにも耐え難い。

 何も言わない口とは逆に『何も言わなくていいのよ、ちゃんと判ってるから』と語りかけてくる視線はじりじりと僕の精神ゲージを削っていく。目は口ほどにものを言うなんて言葉があるけれど、この二人は目が全てを物語っている。これからさき声が出せなくなっても全く困らないに違いない。

 正直今すぐにでも部屋に逃げて布団という殻の中に篭りたいのだけれど、そんな魂胆はとっくに看破されたようで、席についてからはずっと涼華が僕の足を地面に縫い付けている。とかげの尻尾みたいに切り離してもまた生えてくればいいんだけど、あいにく爬虫類に身をやつす覚悟はまだないのでとりあえず目の前のクロワッサンの群れをひたすら口に放り込むことで「んぐ……ごふごふっ」危うく窒息死するところだった。

「……………」(あらら)

「……………」(きっと照れちゃってるのね)

 従業員のお姉さんズは僕の行動を独自に解釈、もとい勘違いしたようで、その視線は明確な言葉をまとって僕に突き刺さる。もうこの二人に関しては、台詞の文とかいらないんじゃないだろうか。

 出来ることなら、涼華が見ていなければ実体化させた心のナイフでご退場いただきたいんだけど、あいにくと涼華は僕の右足を踏んで離さないのでそんなことは出来ない。昨日のあれでファールをもらったくらいなんだから、確実にカードがでる。レッドカードなんか出ちゃった日には負傷退場の二人を入れて計三人の退場者が出ることになる。

 基本的に、ヒモの僕が涼華に逆らえる場面なんてないのだ。

 僕がまず何においてもすべきなのは、現実逃避だ。

 

 あれれ、そう言えば。

 アニメか何かの影響を疑ってしまうほどに山盛りになっていたクロワッサン群が半分ほど僕の胃袋に消えたところで(ちなみに涼華はトースト派)寝すぎて多少ぎこちない首のストレッチを兼ねて食堂内を見回す。クロワッサンの山を作成した張本人の従業員ズも当たり前のようにトーストを食べているのだけれど、もうこの二人に関しては突っ込んだら負けるのは目に見えている。

 それよりも、僕の記憶ではペンションにはあと二人、傷心OLと自称大学生のヒッキーがいたはずなんだけど、目覚めてからまだ一度も姿を見ていない。本当に生きているんだろうか。

「あの二人はトレイ持って上にあがっていちゃったから、部屋で食べてるんじゃないかしら」

「昨日の夜からそんな感じだったもんねぇ」

「ああ。どうも、ありがとうございます」

 もう、なんて言ったらいいのかな――この二人ならこれ位の事は平気な顔でやってもおかしくないよね。本当に、このお姉さんズはなんでこんなペンションでバイトなんてしているんだろう? スペックだけで見たら、どこかの会社の社長秘書とか意外性で女スパイにくの一なんてのも……やれそうだから手に負えない。故オーナーに何か弱みでも握られていたのだろうか。

 この二人の事については考えれば考えるほど泥沼に陥ってしまう可能性があるのでとりあえずはゴミ箱に放るとして、どうやらOLさんとヒッキーは存命らしい。正直自殺でもしているんじゃないかと思っていたのだけれど、もともと根性が捻じ曲がっているだけにゴキブリのようにしぶとく生き延びているのだろう、あれって頭部を切り離されても一週間は生きているらしいし、しかも死因は餓死だとか。

 部屋に引き篭もってしまった二人はどうしようもないとして、不審と言えば、目の前の二人がまさにそうだろう。

 大学の冬季休暇を利用してペンションを利用しているだけのただの女子大生。記号にしてしまえば平凡の域を少しもはみ出すことのない二人だけれど――さすがにこの状況は逸脱が過ぎるのではないだろうか。

 一人死んで二人死んで、また一人死んで。

 この状況で平然とブランチを楽しめる女子大生は平凡なのだろうか。

 度重なる非日常との邂逅に精神状態が振り切れて平常に戻ってしまった、とかならまだ判りやすいのだけれど、観察してみると目の前の二人はどうもそういった状態とは違って見える。

 あれだけ人が死んだのにも関わらず、ましてやその中の一人は片方と恋仲。

 誰が危険なのかを考えると、この二人が一番危険なのかもしれない。

 ――と珍しく脳を稼動させながら満腹感やら照れやらをなんとか誤魔化そうとはしてみたけれど、相変わらずお姉さんズの視線は痛いし、胃の中では死にかけのクロワッサンが最後の力を振り絞って脱出を試みているし、いつの間にかついていたテレビによると今日明日は吹雪きそうだし、それを見た涼華は食後の紅茶を飲みつつ嬉しそうに鼻歌を歌いながら僕の右足を踵でぐりぐりと抉るし…………。

 僕の味方はいったいどこにいるのだろう。

「う…………うぅぅ」未だに胃が重い。

時は変わって翌日の午前七時……とか簡単に時間を進められたりしたら僕としてはこの上なく幸せなのだけれど、あいにくと僕の都合は完全に無視されるようで、頭を動かして探し当てた時計が表示している時間はどう見てもまだブランチを終えてから一時間ほどしかたっていない。

なんとかクロワッサンの群れの逃亡を阻止する事は出来たけれど、奴等が僕の胃に与えたダメージは計り知れないものがあった。これでは夕飯は満足にとれないだろう。

結局犯人を突き止めるには至っていない訳だけど、あのクロワッサンの山を気付いた人間には恋でもないのに切なげにきゅんきゅんいっている胃に代わっていつか罰を与えないといけない。

寝起きのぼんやりと靄のかかった思考が徐々にクリアなものになってくると、現在に至るまでの経緯が脳内で再生される。とかちょっと小難しげに言ってみたけれど、ようは食べ過ぎて苦しくなって部屋に戻ってベッドで寝ただけだったり。

「んん~。なんだかなあ」

 涼華にファールをもらって以来、どうにも調子が戻らない。そんな柄じゃないのは判るけれど、昔の事なんかを思い出してしまったから、おセンチな気分にでもなってしまったのだろうか。

「これだから思春期は……」

 と自嘲気味につぶやいてみたものの、口から外に出た途端に霧散してしまった。

 目に映る全ての景色が左から右に流れ顔が柔らかいものに覆われる。視界は黒で満たされた。シーツの擦れる音を足のすぐ近くに感じ、膝から下をぱたぱたと動かす事でそれを拒む。「寝返りねがえり」口から出た言葉はいつもよりくぐもっていたけれど息苦しくはない。

 ぱたぱたぱたぱたぱた。

「もがー」

 頭の整理をしなくちゃいけない。

 何でここにいるんだっけ。

 ここに来る前に宿泊していた旅館から一番近いのがこのペンションだったから。

 なんでペンションやら旅館じゃないとダメなんだっけ。

 殺人事件が起きやすそうだから。

 なんで殺人事件。

 涼華は探偵の旅行と殺人事件について前に延々と語っていた事があった気がする。

 なんで探偵。

 涼華がなりたいものだから。

 ぱた……ぱた?

 戻りすぎた戻りすぎた。動かない上半身の代わりに右足で左足のふくらはぎを抓った。手加減ならぬ足加減をしたはずなのに結構痛い。必要最低限の運動以外を放棄している上半身といい、今日はどうにも全身が反抗期の模様。原因は恐らく胃で暴れるクロワッサンの群れ。

 たしか、最初このペンションに来た時は十人はいたはず。

 僕に涼華に、オーナーさんに不倫カップルの二人にムッツリ氏に自称大学四回生のヒッキーに自称商社勤めの傷心OLに、従業員のお姉さん二人。

 最初にムッツリ氏がV字で殺されてて中身はスパゲッティみたいになってて、次は不倫カップルの二人が殺されててオッサンは首が胴体から切り離されてて不倫相手の方は多分自殺で、最後にオーナーさんがぐっちゃぐちゃの惨殺死体。

 最初は十人いて、四人殺されて、今は六人。

 二人以上の殺人者がこのペンションの中にはまだいる。

 今だにペンションを外界と隔離するべく吹き続けている吹雪は明後日までは止みそうにない。

 ヒッキーと傷心OLは引き籠っているだろうし、従業員の二人は一緒にいるだろう。涼華はきっと探偵ごっこをしている。

 今の所はかろうじて膠着状態を保てているけれど、張り詰められた緊張の糸は見るまでもなく擦り切れていて、少しでも風が吹こうものなら簡単に切れてしまうだろう。

 幸いなのかどうかの判別はつかないけれど、今のところ風は吹いていない。

 右手でベッドのマットを抵抗の先まで押すとベッドの上で体が自転を開始して、視界の右端から天井が現れる。

 職務怠慢な左手をどうにかけしかけて顔まで持っていくと、気づかないうちに唇は弧を描いていた。視線を動かしてみても涼華はいない。どこにいるのかは判らないけれど、何をしているのかは判る。

 脆弱な糸を断ち切る、ナイフに代わる最後の鍵を探しにいったのだろう。

「ふふ…………ふふふふふ」ひゅ~。

 漏れた笑いが音を奏でる。

 最初に壊れるのは誰だろう。

 自分の殻に篭ってしまった人間が壊れるのが早いか、この期に及んでも体外的な仮面を被り続けている人間が壊れるのが早いか。

 最後の糸が切れた後のことを考えると、自分の奥底から形容しがたい感情がふつふつと湧きあがってくるのを感じる。

 何かを見て、壊したい、と思う感情は決して忌避されるべきものではない。が、その状況で実際に壊してしまえる人間はほとんどいない。

 誰かを見て衝動的に殺したいと思うことはあっても、実際に殺してしまう人間はほとんどいない。

 しかし、どんな場合においても例外は存在する。

 今にも壊れそうな人間を前に、平気で最後のひと押しをすることが出来る人間はいる。

 体にまとわりついている布団を払い、勢い良く足を上げる。

「よい、しょっと」

 振り上げた足の反動で横たわっていた体はようやっと直立の姿勢をとる。

「うむ」文句なしの十点ですな。

 ではではでは、レッドカードに怯えて大人しくしていた僕ではありますが、涼華ちゃんも動き出したことだし、少しも心温まらないハートウォーミング殺人事件(ペンション名、やっと思い出した)閉幕にむけて動き出しますか。

「いってきます」

 ドアがぱたん、と乾いた音を立てる前に、誰もいない部屋に向かってつぶやいた。

次は夜に更新します

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