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第十四章

 情けない事に、僕は何とかトイレを済ませる事の出来たものの、落ち着くまでに時間がかかりそうな状態で、涼華が最後に従業員のお姉さんの部屋を見回っている間部屋で待機しているように言いつけられた。

 端的に言うと、怒られたショックがまだ抜けずにベッドの中でずびずびやっていた。

 本当にもう…………ひっく。自分が……ずび。

「ううううぅぅぅぅ」

 私の頃のように、僕は延々と泣き続けた。

 涼華に見捨てられるかもしれない。それだけで、僕は簡単に壊れた。

 僕を指して青銅一生涯とか言っていた誰かが前に言っていた「依存」と言う言葉はまさにこれなのかもしれない。

「ひっ、ひっく……ずびっ。うええぇぇぇ」

 とにかく、少しの間、僕は使い物にならなそうなので、その間「私」に語り部を代わってもらおうと思う。

 それじゃあ僕は、もうちょっとずびずびしているので、回想をどうぞ。

「うえぇぇぇぇぇん!」


 僕ではなく私。

 私の名前は杜若涼華。

 私はずっと男になりたかった。

 夏に球児を見ては胸が熱くなり、少年誌の熱血と名の付くような物語を読んでは目頭が熱くなり涙が零れ落ちた。

 友情、努力、根性、どれも素晴らしい言葉だと思う。

 そんな物語を紐解いては常に思う事があった。

 どうして私は女の体に生まれてしまったのだろう。

 あの球児達のように、土にまみれながらも何かの為に努力をしたかった。

 あの物語のように、悪と戦いたかった。

 どうして、何がいけないのだろう。どこで間違ったのだろう。私の体は私の望んでいたものとはかけ離れている。背も低いし運動だってそこそこも出来る訳ではない。彼らのように引き締まった肉体がある訳でもなく、同姓と比べても貧相な体つき。短く切りそろえられた髪を指して「男女」と呼ぶ輩さえいた。

 どうしようもなく間違ってしまった私には、この世界は苦痛でしかなかった。上っ面の友情しか育めず、努力をしようにも、根性をみせたところで自分の限界は超えられない。

 どう足掻いたところで、女の子の枠を出る事が出来ない。

 歯がゆかった。毎日を無駄に過ごしているようで、全ての人に申し訳がなかった。

 だからだろうか、気づくと、私は本の中に逃げていた。

 本の中には私の望むものが沢山あった。自分には出来ない事だったが、自分に想像出来ない事は一つも無かった。

 私が最後に私であった数ヶ月間、私は学校へも行かずに、ひたすら自室に篭り、物語の世界へ出かけていた。

 時に私は悪を滅ぼす正義の味方で、時に私は大泥棒で、時に私はFBIに成りすました某国諜報機関のスパイだった。どれもこれも、私を現実の世界から引き離すのには十分な物語だった。私の様子に見かねた父は何度か私を医者に診せたが、それこそ現実の世界での出来事など、どうでもよかった。

 そんな状態がしばらく続くと、私は次第に現実と空想の違いが判らなくなっていた。いや私は、両者の間にある壁を少しずつ削っていったのだ。

 ある時、これが偶然なのか必然なのかは判らないが、私はある殺人鬼が主人公の小説を手に取った。読み始めてすぐに、私は圧倒された。その男の殺人には、意味もなく理由もなかった。ただ、殺す。誰かに頼まれたから殺すのではなく、自分の為にではなく、ただ、何となく殺す。そして彼は最後にこう嘯いた。

『十人殺せば殺人鬼でも、一万人殺せば英雄だろ?』

 私はその時、確かに現実と空想の壁が壊れる音を聞いた。

 あるいはそれは、私の物語が始まった音だったのかもしれない。

 長いプロローグの間、私はひたすら待った。目前に降りた幕が開く時を今か今かと待ち侘びた。

 そして、それは起きた。

 「出て行け」と「お前はもう、この家にはいなくていい」と、どれほど私がその言葉を待ち侘びたかも知らない父がある晩私にそう言った。彼の顔は血管が切れてしまいそうな程に真っ赤だった。母もウサギのように真っ赤な目をして同じような事を喚いた。

 私の親だったモノはその夜、延々と私に恨み言をぶつけた。

 こんなはずじゃなかった。

 小さい頃はいい子だったのに。

 自室に篭ってくだらない本ばかり読むようになって。

 どこで育て方を間違えたのか。

 お前の教育が悪い。

 毎晩遅くまで呑んでいるあなたに言われたくない。

 学校にも行っていないそうじゃないか。

 近所の人達にも噂されているのよ。

 今からでも遅くない。

 ちゃんと学校に行きなさい。

 じゃないと、

 社会に出てから困るのはあなたよ(お前だぞ)。


 笑えた。

 胃がひっくりかえりそうになる程、笑えた。

 世間体。

 その単語が、私を説得しようとする両親の眼にたびたびチラついたからだ。

 彼らが本当に心配しているのは私ではない。私を通して自分達を見つめる世間の目を恐れているだけだ。

 どの時点をもって私が私でなくなったのか、その問に関する答えがあるならば、涼華に名前をもらうより早く、この瞬間に、私は私ではなくなったのだろう。

 覚醒したとか視点が変わったとかそんな言葉はしっくりこない。もっと、もっともっと単純な事。そう、私はなるべくして、殺人鬼になった。

『名前をお返しします』

 そんな、どこまでも中学生臭い一文の入った便箋を、お気に入りだった桜色の封筒に入れて私は家を出た。

 別にどこか寝泊まりする場所に当てがあった訳じゃない。ただ、最後の良心なのか、親に迷惑をかけることだけは避けたかったのかもしれない。

 十四年間閉じ込められた鳥籠から、私はようやっと脱出できた。

 最初に人を殺したのはいつの事だっただろう。浮浪者だったかもしれないし、しがないサラリーマンだったかもしれない。男性だったかもしれないし、女性だったかもしれない。

 ただ一つ言えるのは、最初の被害者は私の基準での悪人だった。

 英雄になろうと心に決めているだけあってか、私は何の罪も無い人を殺そうとは思わなかった。自分のやっている事が紛れもない犯罪行為であっても、犯罪行為であるからこそ、分別は必要だと思った。

 グリップの大きな殺傷力の高そうなナイフ。銃刀法について詳しく知っている訳ではないが、間違いなく違反はしているであろう物。売っている所には売っているもので、携帯電話で情報を集めると、刃物を専門に扱っている店の場所はすぐに判った。

 殺した相手の容姿については覚えていないものの、殺し方ははっきりと覚えている。

 最初に首筋に刃を立てた。軽い抵抗の後に首筋に半ばまで入ったナイフを引き抜くと、そこを抑えてのたうちまわる相手の両足を次々刺し、両手を刺すことで完全に体の自由を奪った。最初の一撃で悲鳴を、二撃目で逃走の自由を、三撃目で抵抗する手の自由を奪った。

 初めての殺人にも関わらず、その手口は至って鮮やかで、翌日のニュースを賑わす事になるとは欠片も思っていなかった私は、こう思わずにはいられなかった。

 人を殺すのは、こんなにも簡単な事なのか、

 と。

 最後に胸を一突きして、私はその場を後にした。

 その日から涼華に会うまでの三ヶ月間、私は不定期にたくさんの人間を殺して回った。

 携帯電話を捨て、住所や名前など、身元を判別できる物も捨て、同年代の少女のものにしてはずいぶんと中身の豊かな財布とナイフだけを持ち、私は殺人に勤しんだ。

 携帯電話がなくとも、殺人の対象を探すことはたやすかった。

 人の口に戸は立てられないという諺の通り、町を歩いているだけで、悪い噂は自然と耳に入ってくる。

 そうして対象を決めた後は、家を探し行動パターンを把握し、機が来たら人気のない所で殺すだけ。

 殺人鬼になってから一月もしないうちに、私はナイフを自分の体の一部のように扱うことが出来ていた。

 探して調べて殺す、ただそれだけ。

 特に無駄遣いをするわけでもなく今まで貯めてきたお金は、一週間やそこらで使い切ってしまえるような額ではなかったので、それも連続殺人の頻度に拍車をかけた。

 しかし、当然のように殺人鬼の身でお金を稼ぐ術などある訳もなく、かといって死体からお金を巻き上げるのもはばかられたので、それなりにあった貯金は少しずつゼロに近づいていった。

 最初は三着ほどの服を定期的にコインランドリーで洗濯しながら着まわしていたのに、いつの間にか着替える頻度が減ってきた。

 ニュースや雑誌を見たところ、見当違いの目撃証言もあってか、犯人は男性というのが大方の見解らしく、一介の家出少女にしか見えない私が捜査線に浮かび上がる事は当分ないだろうが、お財布事情も考慮して、極力大勢の人間の集う場所には行かない方がいいかもしれない。

 私は次に公衆浴場を利用する機会を減らした。

 それら二つを控えた事によって、貯金の減少はある程度治まった。

 ある程度は治まったものの、それでも生きていくためにお金は少しずつ減っていく。

 半年はなんとかなるだろうと思っていた私の予想に反して、その半分の期間、三ヶ月で私の貯金は底をついた。

 そして世間を賑わしていた殺人鬼は、その出現同様に唐突に姿を消した。


 貯金が底をついてから四日ほど、私は公園にある水道から得られる水だけで何とか命を繋ぎとめた。

 最初の一日目こそなんとか空腹にも耐えられたが、二日目に入ると胃の内側から爪を立てられているような強烈な飢餓が襲ってきた。

 三日目に入ると、次第に胃は鳴らなくなり、思うように体に力が入らなくなった。

 全身を強烈な飢餓が襲う中、朦朧とした意識でも私の体は次の被害者を探していた。

 夜の闇の中、どことも知れない住宅街を練り歩き、右手は隠し持っていたナイフに触れながら、次第に夜のそれとは違う闇に視界を奪われながらも私は歩き続けた。

 途絶えようとする意識を、自らの手にナイフを刺す事で保ちながら必死に探し続けた。

 英雄になろうとした殺人鬼。

 小説と現実を比較しても意味は無い事を知りながらも、私と彼は何が違っているのかを考えた。

 世間を賑わしている殺人鬼、それはどちらにも共通する項目だ。

 本の中で起きているのか、現実に起きているのか、違いはそれだけのように思える。

 それなのに、彼はどうして私のようにひもじい思いをする事がないのだろう。

 どうして私には生きていくだけのお金すらないのだろう。

 性別が違うのか。

 気づくと視界にあったはずの住宅街は消え、目の前には果てしなく広がる夜空があった。

 耳元なのかずいぶんと離れたところなのかは判らないが、車のエンジンの音が聞こえた。

 ああ、そういうことか。

 足音が聞こえる。警察かもしれない。

 殺人鬼であるはずの彼には、確かパートナーがいた。

 夜空は消えて視界には黒い帳が下りた。

 私は孤独な殺人鬼だった。

 世間から忌避される存在である殺人鬼は孤独でなくてはいけない。

 なのに、彼は一人ではなかった。

 簡単な事だ。

 

 殺人鬼にしろ英雄にしろ、たった一人でなれる訳がなかったのだ。

 だから、私は言った。

 目の前にいるかもしれない誰かに言った。

 殺人鬼とは言え、英雄志望なのだ。そのくらいの奇跡があっても良いだろう。

 もしも奇跡が起きたら、女の殺人鬼ではダメだったから、今度は男の殺人鬼になろう。

「ボクを、養ってください」

 あれだけ世界名作劇場を見て涙を流したのに、空からお迎えの天使は来なかった。

 やはり、この世には神も仏もあったもんじゃない。

 でも、ちょっとだけ、いい匂いがした。

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