第十三章
続いて、失禁OLさんの部屋に突撃晩ご飯。
「おじゃましまーす」ノブを回してそっと部屋に侵入。
「…………」ヒッキーの部屋での経験を生かして、涼華の目はすでに僕の手が塞いでいた。失禁さんの部屋は、汚物的な意味で涼華には見せられなさそうな気がしたのです。不倫カップルの部屋の前とか、凄い事になってるからね。
昨日までは部屋の鍵を開けっ放しだったのに、今日はちゃんと僕らがお願いしたとおり施錠されていたのにはちょっぴり感激した。犬の躾を喜ばしく思う飼い主の気持ちに似ているかもしれない。泥棒猫を殺す犬、なかなかに優秀だ。
「…………………」
これまた嫌な学習のお陰で、僕はうめき声を抑えることに成功した。この人たちといると、嫌な特技が増えそうだ。吹雪が止む頃には、何事にも動じなくなりそう。
ヒッキーが一つ次元を下げたお相手と二人の世界に浸っていたように、失禁さんは、対岸、彼岸にお相手、冷たくなった元恋人のムッツリ氏と二人だけの世界に浸かっていた。愛は三途の川をも越えてしまう模様、悲しいのは、そこまでしても、一方通行な事だろうか。悔やまれると言うか、見るに堪えない。
失禁さんの口から漏れる音はお相手に合わせて――彼岸語とでも言うのだろうか――変更されていて、とても言語と言えるようなものではなかった。
人間って脆いなぁ。本当に、心の底から、そう思う。自分でした事の後始末も出来ないで、容易に自分の殻に閉じこもって、現実逃避をしてしまう。
理解は出来た。過去形。
僕がまだ私だった頃なら、多少は理解出来たのだろう。
でも、私は僕になってしまったから、もうそれがどんな心情によるものなのか、微塵も理解が出来ない。少しも理解したいと思わない。ええ、本当に。
僕に目隠しをされている涼華は、さすがにお嬢様だけあって語学には精通しているのか、失禁さんの口から漏れる彼岸語も理解出来る様子。器用に独力で耳をふくつかせながら、翻訳に励んでいた。聞けば教えてくれそうなものだけど、気持ちのいい内容ではないだろうから、聞かないでおくことにしよう。立葉危うきに近寄らずってね。
失禁さんの余りの見苦しさにいっその事殺してあげようかと思って、涼華の目を覆っていた手に暇を出して胸に手を当てるも、心のナイフは本日臨時休業だったのであえなく断念。何でも持病の腰痛が悪化したらしい。サボり癖は僕の影響だろうか。
ぐぅぅぅぅぅ。
胃壁を掻き毟るストレスに身を任せて太ももに手を這わせると「おじゃましましたー」涼華に背中を押されながら退出を余儀なくされた。
「立葉、あれはファールだよ。思春期じゃないんだから、ムカついたからって殺そうとしたらいけませんっ」
部屋の外に出るなり、僕はふくれっ面の涼華からファールを言い渡された。
あっっっぶねぇぇぇぇ!
それこそ誰かさんの事を笑えないくらいに、僕は失禁しそうになった。語り部が失禁って、なんだか斬新。
僕と涼華の間のいくつかの取り決めの中にファール制度がある。バスケットボールではなくてサッカーボール方式のもので、ファールはいくら貰っても問題はないのだけれど、イエローカードを貰ったり、試合中(期間は涼華の独断で決まる)にそれが二つ累積したり、最悪デッドカード……じゃなくて、レッドカードを貰うと――え、ちょっと漏れた?――どこからとは言わないけれど、退場をくらってしまう。
僕はパンツの心配をそこそこに(パンツカーディガンスタイルじゃなくて良かった。変態良くない、うん)床に膝をつくと、勢いに任せて上体を床に打ち付けた。
「ごめんなさい」ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。もうしません絶対しません。
床と額のスキンシップなんぞを楽しむ余裕なんて全くない。下手な事をしたらこの場でイエロー、最悪レッドが出る。サッカーの試合を観るのは割りと好きだけど、唯一納得いかないのがファールをとられた選手の態度だ。あんな腕を後ろで組んで威嚇に近い抗議をしたり、ましてや審判を怒鳴りつけるなど、本当に彼らはレッドカードが怖くはないのだろうか。僕なら、この通り、ファールでさえ貰った瞬間に土下座なのに。
「反省しましたか」
頭上からかけられる偉そうな(嘘ですごめんなさい)声に、全身の毛穴が開く。これ、髪の毛抜けるんじゃないだろうか。
「はい」ああ、そうだ。ウィッグを接着剤で頭皮と合体させれば問題ない。
「よろしい」
存外怒っていないのか、直ぐに出た許しの言葉に、僕は顔を上げた。
手。
「にこにこにこにこにこにこにこにこにこにこ」再び毛穴が総開きになり髪が頭部からの脱出を図る。
………………割と怒っていらっしゃる。
ゲームならここで間違いなく選択肢が出ているところだ。間違えたらバッドエンド一直線。けれど現実は僕に厳しい。選択肢なんてものは目をこらしても一つも見えてこない。と言うか涼華の手の指は僕の眼球に触れるか触れないかの距離にあるためにあったとしても選択肢が見えない。立葉ちゃん絶対絶命。
急いで脳内の林檎の電源を入れて狐さんとぐるぐるする。表記揺れを無視すると、どうやら何通りかの解決策がある模様。一番最初に見つかった逃亡の意見は即却下。
殺人鬼より自称探偵の方が恐怖な今日このごろ、僕はテンポが少しずつあがっている涼華の「にこにこ」に急き立てられて行動を開始した。
足の指に力を入れて床を蹴り眼球に突き刺さろうと近づく指を何とかかわして、両手を広げると僕は――涼華に思い切り抱きついた。
「ごめんなざぁぁぁぃ!」泣きが入ったと言うか、完全に涙声だった。
顔を涼華の首筋に擦り付けながら、僕は震える足を何とか踏ん張って、もたれ掛かるようにして謝罪した。まさかの語り部マジ泣き。
「……うぅ…………ひっく……ずび」止め処なく溢れる鼻水は鼻の奥をつんと刺激し、それに釣られて目から汗が出る。目から出た汗は鼻を撫で、その熱で鼻水が増す。
醜態ここに極まれり。
例え他人であってもそんな事は望めないのに、ヒモである上に恋人である以上、僕が涼華より優位に立つ事はない。
涼華の手がそっと僕の頭に添えられ「ひうぅっ」た。
「立葉ちゃん、ごめんね。私、立葉ちゃんが従業員のお姉さんに『可愛い』って言いかけたの、まだ根に持ってたみたい」
「ううぅぅぅぅぅぅ、うわぁぁぁぁ!」時間差ですか! とか言いたかったのに、口から出たのはペンション中に響き渡るような泣き声だった。
一瞬で僕のキャラが壊れたてしまった。
「もう、しないよね?」耳元で優しく囁かれた涼華の声は絶対で、それはゆっくりと僕の壊れ気味な脳に浸透し、重要事項として深く深淵まで刻み込まれた。
僕は首を縦に振り続けた。
「本当に、しない?」
「うん。もう、しない」
甘い声が、鼻腔をくすぐる優しい香りが、髪を撫でる手の温もりが、僕の首を振らせる。
「なら、許してあげる」
涼華はそう言うと、僕を力いっぱい抱きしめた。
「あ、ありがどう」僕の口から出る言葉には、全てに濁音がついていた。
何回喧嘩をしても、やっぱり最後はこうなってしまう。涼華に許してもらえないかもしれない、ただそれだけで、僕を覆っていた殻は容易く瓦解してしまう。
自分についての考察はいろいろと浮かんできたものの、それ以上に、僕は涼華に一つ、言わなくてはならない事があった。
「涼華ぁ」ここまで、誰にとは言わないが醜態を晒してしまった以上、自分の口から出る甘えたな声を抑える気にはならなかった。
それ以上に緊急事態だった、と言うのもあるかもしれない。
「なぁに?」
すっかり機嫌を直した涼華は僕の髪を撫でながら、これまた甘えた声で聞いてきた。
まずい、まずいまずい。
「トイレ……連れてって…………おしっこ漏れそう」
言い訳は、今度聞いて下さい。




