蜘蛛・4
あとちょっと続きます。
薔薇が匂う。蝶の部屋からだ、それは安坂が来る夜の度に増えてゆく。
鯵の刺身を買いに行かされることが増えた。
確かに蝶はどこへ行くにも蜘蛛に告げてから出掛けるようにはなったが、やけに頻繁に安坂と外へ出るようになった。ずっと夜の中でしか生きてこなかったので、時折彼女は体調を崩して帰ってくる。日の光に当たり過ぎているのだ、死人が太陽の下に居ること自体が間違っている気もしたけれど、蜘蛛は何も言えなかった。今日も具合を悪くして帰ってきて、床に就いている。冷たい水で絞った手拭いを額に乗せ、目覚めたら薬を飲ませようと蜘蛛は湯を冷ましていた。どうせはしゃいで歩き過ぎたのだ。自分が人ではないのを忘れ、日の光を浴び過ぎたのだ。蝶の頬に触れると、思っていた以上に熱かった。ひどい病気ではなくただの熱だといいのだけれど、と蜘蛛は蝶の額の手拭いをまた水に晒す。
今夜は座敷に出られないだろう。安坂が今夜の分も金を出すとしても、蜘蛛は腑に落ちない気分になる。近頃ますますべったりなのだ、そのことが蜘蛛を苛立たせる。
「……安坂、」
手拭いを額へ乗せようとしたところで、蝶がうっすらと目を開けた。その唇から零れた名が自分のものではなかったことへの動揺を隠し、蜘蛛は静かに蝶の耳へ顔を寄せる。
「蝶姉様、お加減は」
「……蜘蛛か、安坂はどこへ、」
「座敷で狐姉様達がお相手をしているかと、」
狐姉様、の名で蝶はがばりと起き上がる。熱を持っていたせいで紅色をしていた顔が、音もなく真っ白になった。
「急に起き上がられては」
慌てて手を差し伸べるが、蝶はそれを振り払う。
「あたし以外に安坂の相手をさせるなどと」
「蝶姉様」
「安坂は」
「その前にお薬を、」
「うるさい、もう治った」
「そんな、子供のようなことを、」
安坂、と蝶が大きな声を出す。まるで蜘蛛が苛めでもしているかのように。
「蝶姉様、」
「安坂を、安坂を呼んで、」
「あの方はお客様です、蝶姉様、どうしてあの方ばかりに固執されるのですか」
好いているからよ、ときっぱりした声で蝶がそれに答えた。今まで誰に対しても使われなかったその言葉が、蜘蛛に突き刺さる。
「あたしが安坂を好いているからよ」
「それは一時の戯れでは―――」
「違う、安坂も言ってくれている、なあ、あたしが安坂と夫婦になるといったら可笑しいか」
「蝶姉様、それは許されません」
「どうしてだ、あたしが化け物だからか、死人であるからか、それでも安坂は良いと言うぞ」
「熱があるのです、どうか静かに寝ていていらして下さいませ、ほら、お顔が真っ白に、」
安坂、と蝶が切なげに熱のある声で彼の名を呼ぶ。蜘蛛などまるでそこには存在しないかのように。蜘蛛など、あんなに弟として可愛がった者すら目に入らないかのように。
「蝶姉様……」
騒いでいたので声が届いてしまったのだろう、襖が突然開かれ、ひょっこりと安坂が顔を覗かせた。廊下を歩く音など聞えなかったのに、と蜘蛛が首を傾げるより前に、蝶が入って来た安坂に飛びついた。
「安坂、」
「なんとまあ騒がしい子だろうね、蝶は。ほら、蜘蛛が驚いて目を丸くしているよ、ほら、ほら、少し待ちなさい、いい子だから」
「あたし以外の座敷を取るな、狐と遊ぶな、蝶だけ見ていれば良いのだ安坂は」
「まるで駄々っ子だ、おや、身体が熱いじゃないか、お医者様を呼ぼうか」
「厭だ、安坂が居れば良い、ここに居れば良い」
いやいやと首を振る度に呼吸が荒くなる。蝶の熱がさらに上がりはじめているのは誰の目からも確かで、安坂は軽く蜘蛛へ向って肩を竦めてみせた。
「いつもこんなだったかな」
「いいえ、……いいえ、熱のせいかと」
そうだなあ、と安坂は蝶を抱き付かせたままやわらかく笑い、では傍に居るから蝶は寝ていなさい、と彼女を促す。
「本当、本当に傍に居るのだな」
「居る、約束する、大丈夫」
すると大人しく蒲団へ戻り、蝶は白く小さな手だけをそっと出した。
「手を」
「はいはい」
安坂が枕元へ座り込み、その手を握り締めてやるとようやく安心したように蝶は目を閉じる。すみません、とその隣で蜘蛛が頭を下げた。いや、と安坂が首を振りまた目を細める。
「この可愛らしい人はどうしてこうなのかね」
返事に困り蜘蛛が黙っていると、安坂はさして気にした様子もなくただ空いている方の手で蝶の髪を撫でた。蝶はもう寝息を立てはじめている。本当は起き上がるのも辛かったのかもしれない。
「おれは蝶が可愛くて仕方ないよ」
「はい、」
「ここから攫い出したいんだよ」
「……え、」
それ以上は何も言わず、安坂は愛しげに蝶の髪を撫で続けるだけだった。蜘蛛は胸の深い場所から何とも形容し難い、泥のように重たいものが膨れ上がるのを感じる。求め合っても、どれだけ同じ強さで求め合っても惹かれあっても、所詮は人間と昔人間だった者だ。安坂よりずっと長く蝶は生きるだろう、年を取り皺も増え、死に近づきながら生きているような状態に安坂がなる頃でも、蝶は今のまま何ひとつとして変わらず艶やかに微笑み続けているだろう。それでは駄目なのだ、今は良くても、その時駄目になってしまうのだ。先のことばかり心配して動かないままでいたら意味がないと蝶なら言うだろう。けれども、このまま居ればずっとこのまま平穏な日々が続く、それだけは分かっているのだから、どうなるか分からない場所へ出て行くことはないと思うのだ。
いや、と蜘蛛は首を振る。
それは詭弁だ、本当は自分が置いて行かれたくないだけなのだ。蝶からも、安坂からも。ここにひとりにされるのが厭なのだ、蝶に対する好意と安坂に対する好意が別の種の物であると知っていても。
「……蜘蛛がもしも、もしも望んだのなら、安坂様は蜘蛛を抱いてくれますでしょうか」
唐突な問いかけは、蜘蛛の中にずっとあったものだった。安坂が驚いた顔になる。ここで自分の望む返答をしてくれたなら、と蜘蛛は胸の内で祈っていた。ただひとつ、頷いてくれさえすれば。
「恐い目に逢ったばかりなのだから、冗談でもいけないよ、そんなことを言うもんじゃない」
もう元の笑みを戻して安坂がやわらかに言う。
はぐらかされたのだと、蜘蛛は頬を染めた。安坂を蝶と半分ずつにする事ができたのなら、もしくは蝶を安坂と半分ずつにする事ができたのなら、置いて行かれずとも済むような気がしていた蜘蛛は、それを否定された気分になっていた。
「……そうですね、つまらない戯言でした、」
蝶姉様が起きたら飲ませますので、と蜘蛛は湯を取りに行くと立ち上がった。
「安坂様にも何かお飲み物を、」
顔を見ないようにして襖を開ける。背を突かれたように部屋を飛び出し、蜘蛛は後手に襖を閉めた。
このままひとりで取り残されるのはないかと、蜘蛛は怖くなっていた。ひとりになること自体は怖くない、ここには狐も狸も高梁も、皆気心の知れた者達がいるのだから。
けれども、蝶と安坂から置いていかれるのはどうしても厭なのだった。
蜘蛛は考える、どうしたら三人で居られるのかを。もしかしたら自分だけが邪魔者なのではないか、ふたりにとって自分が何もしないことがただそれだけで幸せなのではないかとは気づかない振りをしながら。三人で居たいのは蜘蛛だけなのだ、それでも。
「厭だ……」
置いて行かれてしまうのは。どうすればいいのかと、蜘蛛はずっと考えていた。三人で、ずっと一緒に居られるように。蜘蛛を置いて、ふたりがふたりだけでどこまでも好き合ってしまわないように。
夫婦になろうと、と蝶が幸せそうな弾む声で告げたのは、よく晴れた日の午後だった。買って貰ったという新しい帯を広げた脇で、珍しく茶を飲みたいと蝶が自分から言い出した。
「饅頭も食べたい」
「珍しい、蝶姉様がそんな事を言い出すと空模様が荒れます」
熱を出し、蜘蛛と安坂に迷惑をかけた日のことを、蝶はあまり良く覚えていなかったようだ。結局風邪を引いていて、あの後しばらく寝込んだ。病気の時の蝶は大人しく、起き上がっても果物を食べるのが精一杯で、細い身体が益々薄くなってしまってはいたけれども、それでも熱が下がり、見舞いに来る安坂とも話ができるようになってくると、楽しそうに一日よく笑っていたりした。
熱も下がり調子が戻ってきたその日は特に機嫌が良く、口調も穏やかで肌の色も美しい薄桃色をしていた。
「安坂が、ここを出ようと」
「……え、」
「蝶を嫁にしてくれるんだと、なあ、どうしよう蜘蛛」
茶をいれ、戻ってきた蜘蛛に蝶は嬉しそうに口を開いた。蜘蛛の持っていた盆が揺れる。
「ああ、茶が零れる、蜘蛛、どうしたんだい」
「安坂様が……」
「うん、ああ、蝶にそう言った、蝶は安坂が大好きだ、なあ、蝶が人の嫁になると」
どうしようなあ、とまた繰り返すも、それは祝って欲しい心が戸惑ったように言わせているだけなのがすぐに分かる。真っ赤な唇が幸せそうに笑みの形を作っている。
「……無理です、蝶姉様、」
「なに、何か言ったかい、蜘蛛」
盆から自分で湯飲みを取り、蝶はぺたりと座り込んで微笑んでいる。饅頭食べたら狸みたいになるだろうかと、自分で言って笑う。声は届かず、蜘蛛は無視された気になった、それは彼をひどく憤らせた。
「蝶姉様は蜘蛛を捨てるのですか」
「……どうした、蜘蛛を捨てるとは……そんなことはないだろう、蜘蛛はここに居る場所があるではないか、どうした蜘蛛、そんな怖い顔を、」
「安坂様は蜘蛛にもくちづけました、蜘蛛にも可愛いと、」
叫んだのに蝶はふわりと笑っただけだった。春の花が日差しの中でやわらかく花びらをほどいてゆくように。
「安坂に蝶を取られるのが寂しいのか」
「違うっ―――、」
上手く言えない自分にも腹を立て、首を振る蜘蛛へ蝶は手を伸ばす。何を、と目だけで蝶を捉えたが、予想外の動きにそのまま蜘蛛は止まってしまった。押さえられたのは手首、重ねられたのは甘い香りのする唇。
「ほうら、これで一緒、」
か、と頭に血が上った。馬鹿にされているように気がした、あしらい易い子供だと思われているのだと。蜘蛛は怒りに任せて本能を爆発させていた。獲物を捕らえる虫のように。『蝶』が『蜘蛛』に捕食されるのは自然の通りなのだ。
「蜘蛛、」
蝶の驚いた声があがる。
蜘蛛は耳を貸さず、糸を吐いた。蝶の前では、いや、誰かの前では絶対にしたことがなかった行為だった、化け物だと自ら認めることになる上、元々糸を吐くことになる事態がなかったからだ。
足場用の糸ではない獲物を捕らえるための糸が粘り気を持ち蝶に襲い掛かる。悲鳴をあげて逃げ出そうとする蝶は、けれどもまだ最後まで蜘蛛の戯れなのだと信じている光を瞳に宿していた。
「蜘蛛、」
白い糸で蝶の身体が着物ごとぐるりと囲われる。まるで蛹に戻ってしまったかのように。首から上だけが糸を絡めずにおり、蜘蛛は蝶の唇を手で覆うと耳元で囁いた。
「蜘蛛はずっと蝶姉様と一緒がいいのです、」
首筋に唇を這わせる。牙をむく。
蝶が慌てて蜘蛛の指を噛んだが、蜘蛛はその痛みを少しも感じなかった。そのまま蝶の首へと牙を立てる。
「きぃ、」
悲鳴なのか叫びなのか、分からない声をひとつ立てると蝶は目を見開いた。口の中へ溢れてくる血に、蜘蛛はむせ返りそうになりながらもそれを甘いと感じる。
花の匂いがする。
薔薇の花の匂いだ。
安坂が蝶へ贈ったあの赤い花、蝶の血はあの花びらに良く似ているのだろうか。
どれぐらい蝶の血を啜っていたのだろう、ふと手の中の蝶が軽くなるのを感じて、蜘蛛は口を離す。血が、胸元をべったりと染め、零れていたのだろうそれは畳をも染めて甘い香りを放っていた。
「蝶姉様はもう蜘蛛の中……」
真っ赤に濡れた唇で蜘蛛が笑む。どこかその顔は蝶を思わせる。
「蝶姉様はもう……」
唄うように繰り返し、蜘蛛はふわりと笑い続けた。
日差しはまだ明るく、部屋の中を、血で染まる蝶だったものも蜘蛛も、すべてをやわらかく包み込んでいる。




