蜘蛛・3
続きます。
化け物といわれても生き返って逢いたい人がいたのよ、と狐が話している。昼間の娼館は静かで穏やかな空気が満ちている。昨夜の大騒ぎはどこへ行ってしまったのかと思うくらいだが、時折悪ふざけの客が割ってしまったお銚子の破片が残っていたり、壊してしまった襖などが夢の残骸として存在しており、すべては現実だったのだと思わせる。破られてしまった障子を直しながら、蜘蛛は狐達とやわらかな陽射しの午後、彼女の昔の話を聞いていた。
「心中したんだけどねえ、相手だけ生き残っちまって。そんならさっさと後追うか、わたしに一生涯操立てしてりゃいいものを、他の女に掻っ攫われちまって。情けなくて泣けたね、一緒に死のうって言ってた男がなんだい、女ならわたしじゃなくても良かったのかいって」
狐は機嫌がいいと昔話を始める。その時々で細部が違っていたりするのだけれどそれは愛嬌というもので、蜘蛛もいちいち口をはさんだりしない。椀に入れた糊を刷毛で掬いながら、静かに障子紙を貼っていた。
「生き返ってやったさ、馬鹿げたことにそれでもわたしはあいつを愛していたんだ、厭だねえ、どうして一度惚れると長いのかね、あれは女だけなのかい、男もそうなのかい」
「人生二度目でも分かんないことがあるんだね、姉さん」
ふくよかでどこか垢抜けない、それでも田舎臭さが売りなのだという狸が茶々を入れる。彼女は先ほどから団子を三本も食べていて、口の周りにみたらしのたれが付いている。客もだからなのか似たような容姿の男ばかりがついて、色恋の話よりも土産物の饅頭の数のほうが多い。蜘蛛にもよく分けてくれるのだが、蝶には怒られる。狸のように太ったらもうあたしの弟として認めてあげないよ、と。
「うるさいね、菓子ばかり食ってる狸の脳味噌まで胃袋な頭じゃ分かんないだろうさ、わたしは蜘蛛に聞いてるんだから、どうなんだい、蜘蛛、あんたは一度惚れたら長いのかい」
曖昧に微笑んで首を傾げて見せたけれど、狐は許してくれなかった。
「ほらほら、蜘蛛、どうなんだい、わたしの男だけが特別だったのかい、一度好き合ったらそれだけで他の男も女も要らなくなるようにはならないのかね」
「……蜘蛛は、そういった、好くとか惚れるとかの感情がよく、」
分かりませんから、と言いかけて蜘蛛の手が止まる。思い出していたのは安坂の唇。花の匂いがした、あのあたたかくてやわらかな。
「腹でも減ったか、口が重くなったよ蜘蛛さん」
「あんたじゃあるまいし蜘蛛が腹減らして言葉忘れるもんかね、なんだい、なんか楽しい話でもあるのかい、蜘蛛」
食べかけの団子を差し出そうとする狸を笑い、狐が細い目をますます細める。鼻が鋭いのか狐はそんなとこばかりをすぐに勘よく当ててしまう。多くを思い 出して赤面する前に、蜘蛛は慌てて、けれども表面上はわざとゆっくり首を振った。
「何もないですよ、狐姉様、狸姉様」
「なんだい、楽しい話のひとつも持っていないのか」
「蜘蛛はただの雑用ですから」
「なんだいなんだい、つまらない。なにひとつとしてつまらない」
「ああ、姉さん、つまらなくないよ、蝶さんが土産を買ってくるだろう、今日はそれが楽しみだ」
ぴくりと蜘蛛の耳が反応した。蝶。そういえば今朝から蝶の姿を見ていない。いつも気紛れに起きてくる人である上、今日は障子を張り替えたり遣いに出ていたりとばたついていたので顔を見ないことも大して気には留めていなかったのだけれど。
「……蝶姉様は、まだ寝ているのでは、」
「あれやだ、蜘蛛さん知らなんだのかい、蝶さんは朝の早くから出かけたよ」
またあんた朝っぱらからつまみ食いしてたんだろう、と呆れる狐の声も耳に入らず、蜘蛛はただただ狸の顔を見詰めていた。普段出かけたりはしない人なのだ、用事があれば蜘蛛にやらせ、それより何より蜘蛛に声もかけずに出かけるなどということは今まで一度もなかったのだ。
「……知りません、蝶姉様が朝から……」
「あんたが寝ていたからきっと黙って出たんだよ、起しちゃ可哀想と思ったんだろ」
狐が珍しく蝶を庇うような言い方をしたが、蜘蛛は心にすとんと穴が開いたような気分になっていた。黙って、出かけた。蝶が。それだけでも裏切られたような気持ちなのに、狸はそんな蜘蛛に気付かずもっと心を痛めることをさらりと続ける。
「ほら、あの人とだよ、出かけるとか言っていたよ、ほらほら、あの金持ちでなかなかいい男の、あれあれ、ほら、そうそう、安坂、あの人とだよ、いいねえ私もあんな上客欲しいねえ」
「安坂様と……、」
「新しい着物も新しい帯も、欲しいとねだればすぐ買ってくれる、しかもあんないい男だもの羨ましいねえ、まったく」
「安坂様……」
ふたりが共にいるのは構わない、安坂は蝶の客であり、互いが互いを気に入っているのだから。けれどもこの置いていかれたような心細さはなんだろう、今まで知ることのなかった感情、それを蜘蛛は安坂に感じているのか蝶に感じているのか自分でも分からないまま混乱する。
「そういえば蝶さんの部屋の良い匂いがするあの花、あれ何だい、牡丹の小さいようなやつさ、八重の桜の大きいようなやつ、強い匂いだね」
「薔薇とかいう花らしいよ、真っ赤な花だろう、安坂が持ってきたんだと。可愛がられているねえ、あんな珍しいもの、幾らくらいするんだろか」
わたしの男もそのくらいわたしの事可愛がってくれてたらねえ、と狐が切ない表情を作る。団子を食べていた指をぺろりと舐めて、狸は次の串に手を伸ばそうとしている。穏やかな日の光はあたたかく、それなのに心が寒い気になっているのは蜘蛛だけで、端から見れば楽しそうな団欒風景なのだった。
「あれあんた、暗い顔をするでないよ」
「……え、」
刷毛で糊を何度も練るように混ぜる。空気の粒が入り、悪戯に白く濁ってゆくのをぼんやりと眺めていたら、いつの間に動いてきたのか狐につるりと頬を撫でられた。
「蝶に置いていかれたくらいで」
「そういった訳では……」
暗い顔などしていませんよ、と無理に笑ってはみたけれど、狐は納得しない顔でもう一度蜘蛛の顔をつるりと撫でただけだった。
置いて行かれたと。
口に出され頭に直接刻まれると、深い痛みが胸を刺すようだ。
『それはあたしの弟なのだから、見世物小屋になんか売ってご覧、二度と客なんか取らないからね』
蜘蛛が生き返ったのはどれくらい遠い昔の話だっただろう。普通は動物と掛け合わされるのだが、珍しく昆虫と掛け合わされた蜘蛛を見に、同じ身体を持つ蝶が興味を持ち覗きに来て、見世物小屋にやられるのだと知った途端にそう叫んだのだった。当時から売り上げの良かった蝶の二度と働かないという宣言は周りを困らせたらしく、蜘蛛は蝶の元に預けられたのだ。弟なのだから、と言われたので、蜘蛛はずっと蝶の元に居た。いつでも一緒だった。それなのに。
「蝶姉様は蜘蛛より安坂様がお好きですから」
自嘲気味にそう言うけれど、狐や狸がそれを否定してくれればいいと、心の隅で本当は思っていた。けれども彼女達は否定しない。それどころか、そう言えば、などと言い出す。
「蝶とはもう長い間ここで一緒だけれど、安坂ほど執着されてる男も今まで居なかったね」
「ああそうだね、蝶さんは特定の客に固執することない人だったもんね」
蜘蛛もそれは知っている。今までどんなに金を積まれようが口説かれようが、特定の客と出かけるなどということは絶対になかったのだ。蜘蛛に馬鹿にしたような口調で客の悪口を言うのが常だった、金で動く女だと思っているのかだとか、見かけはこんなでも本当はあの男よりずっと長く生きているのに馬鹿だねえだとか。
「蜘蛛は蝶が好きかい」
狐が優しさなのか意地悪なのか判別しにくい光を瞳に宿してそう聞いた。蜘蛛は静かにひとつ頷く。
「本当に好きなのかい」
「それはどういった意味で……」
聞きかけた時に高梁がやってきたらしく、玄関先で蜘蛛の名が呼ばれた。短く大きな返事をして、蜘蛛は躊躇いがちに刷毛を持つ手を膝へ下ろす。
「行っておいで、糊が乾かないよう時折水はかけておいてあげるから」
「お願いします、」
糊の器へ刷毛を置いて、蜘蛛は立ち上がる。蝶のいない娼館はそれを意識しただけでべったりと重苦しいような、それでいてどこかいつもより多めに空気が肺へ入ってくるような、そんな気分にさせられる。
自分の身体に違う生き物が入り込んで生命を維持されているのだと知り、さらにそれは化け物として生き返ったのだという事、余程の事がない限り死ぬ事はないのだと知った時、蜘蛛は娼館を逃げ出そうとした。遠い昔の話だ。蝶は我侭な自分を隠そうともせずにいたけれど、それでも蜘蛛の面倒だけはよく見ていたのでそれはそれはひどい怒り様だった。
「逃げ出して何になるというの、どこへ行くというの、もうあんたはあんたじゃあなくなっているのよ、蜘蛛と死人の掛け合わせなどと皆に知れてご覧、売り飛ばされるだけだよ見世物小屋に、ろくなもの食べさせてもらえないままいろんな処へ連れて行かれて、いつも疲れて、そんなんだよ、あんたはここに居ればいいんだよ、蝶の弟であればいいんだ」
頬を打たれたのはそれが初めてで終いだった。
我侭だけれど稼ぎは良く、金が絡まないと人付き合いが上手くできない蝶には、蜘蛛だけが何故か心を許せる唯一だったらしい。聞けば似たような年で別れた弟がいたそうだ、蜘蛛に自分の弟を重ねていたのだろう。
夜遅くになって帰ってきた蝶は、安坂を同伴させていたため誰の文句も受けなかった。機嫌良く酔っている安坂は始終笑顔のままで、迎えに出た蜘蛛の頬にまで唇を押し付けようとし、蝶に睨まれていた。座敷を用意し、着替えを手伝うために蜘蛛は蝶へついてゆく。
「どこへお出掛けだったのですか」
思わず険のある声が出て、蜘蛛は自分の声色に驚く。しかし蝶は艶やかに微笑み、黒目がちな眼で蜘蛛をちらりと眺めると、飴玉買ってきたよ、とだけ言った。
「……蝶姉様、」
「着物も帯も、新しい簪も買って貰った、安坂はいいねえ、蝶が欲しいと言う物すべて、目に映るのすべて蝶の物にしてくれようとする」
「蜘蛛は蝶姉様が出掛けたのを知りませんでした」
「蜘蛛は遣いに出ていたのだもの、あたしだって出掛けるとは思っていなかったのよ、安坂が迎えにきたのよ約束があったわけじゃあなく」
安坂はいいねえ、ともう一度だけ繰り返す。
「安坂は蝶が一等好きだと。そんなことを言われて嬉しいと思うのは安坂が初めてだ、なあ、蜘蛛」
「……あの方はお客様です」
「それはそうだ、蝶に金をあんなに使ってくれる、若いのに、なあ。蜘蛛も知らないだろう、蝶があんなにひとりの男を良いと言うのは」
「駄目ですよ、安坂様はお客様です」
怖い声を出すなどうしたのだ、と蝶がきょとんとした顔をして聞いてきた。置いて行かれて寂しかったのか、とからかいを含んだ声で言われる。違いますよ、と即座に否定して、けれど蜘蛛は俯いてしまう。その通りだからだ、今まで何をするにも一緒だった蝶から、少しずつ心惹かれ始めていた安坂から、置いて行かれてしまった自分が悲しかったからだ。
「そういえば蜘蛛、この前お前怖い目に遭ったというではないか」
「……え、」
「安坂から聞いた、宵の道を歩いていて男達に囲まれたと言うではないか、どうしてそれを蝶に言わなかったのだ」
「それは……、あの……」
男である自分が男に囲まれたなど、どうして誰かに言えようものか。蜘蛛は下唇を噛んで、くっ、と顔を伏せる。蝶などには特に言えない、馬鹿にされることはなくても、自分が弱い者なのだと晒すのは恥だった。
「安坂から聞いて驚いた、無事で良かったけれど、蜘蛛に何かあったらあたしはどうすればいいのか分からなくなるよ」
「どうせ死にません、それに蜘蛛に何かあっても蝶姉様には安坂様がいらっしゃいますでしょう」
「……なんだ蜘蛛、お前妬いているのか」
「何にですか」
即座に聞き返したのはその通りだからなのだった。蜘蛛は自分が子供のようだと悲しくなる。誰に対してなのかは分からなくとも、とにかく自分が妬いているのはよく分かっているのだ、そしてそれをどうしていいのか蜘蛛自身には分からない。
「今度はちゃんと出掛けるのなら蜘蛛に言う。それで良いだろう、さて、酒持って安坂ん所へ行こうかね」
からりと笑って蝶は蜘蛛に手伝わせて締めた帯をぽんと叩く。美しい赤色をしたそれはいつかの薔薇の花びらのようだ。くちづけを思い出して蜘蛛は唇にそっと指先で触れてみた。安坂の唇は、少なくとも今夜だけは蝶のものになることを考えながら。




