蜘蛛・2
続きます。
娼館は、夜の遅い時間に灯を燈す。闇に紛れて客人達はやってくるのだ、確かに化け物を抱きに行っていると知られては都合の悪いことも多々あるのだろう。
日が暮れかけ、西の空が淡い橙から濃い赤に変わってゆく頃、女達は化粧を始め、着物を選び出す。簪だの帯だのがないと騒ぐのは大抵いつもの事で、その間蜘蛛はブリキの小さなバケツにぞうきんを入れ、娼館の中を歩きまわるのが常になっていた。動き回っていないと、女達につかまり悪戯に化粧をされたりするからである。玄関口を入ってすぐのところにある大きな階段の手摺りをこすり、唯一人間である、この館を取り締まっている高梁の爺と顔を合わせ、裏口の扉が壊れているようだと言われた。
「上手く開かなくなっているんだがね」
見てきます、と蜘蛛はバケツを片付けて裏口に回る。取っ手の螺子が馬鹿になっていて、緩くなり過ぎていたのを誰かが手荒に引き回したのだろう、今度は固くなり過ぎて回らなくなっていた。確かにこれでは上手く開かないだろう、と思ったが、生憎それを直す為の道具はあっても肝心の螺子がなかった。困ったな、と蜘蛛は呟く。暮れ時に開いている店などなく、明日まで放っておいても良いのだけれど時折客の途切れた合間に裏口からそっと出て一服する姉様もいる。戸が開かぬと機嫌を損ねられても困るが、それ以上に癇癪を起こして戸を壊されるのも心配で、仕方なく蜘蛛は金物を取り扱う店まで行くだけ行ってみようかと思った。
「高梁さん、ちょっと出てきます」
「おや、こんな時間から、」
「裏口は螺子がおかしくなっているようで」
「店など閉まっているだろうに」
「はい、それでも」
行くだけはただですから、と笑って見せる蜘蛛に、高梁は気をつけて、と声をかけた。
「薄闇は闇より恐いことがあるでね」
大丈夫ですよ、と小銭だけ握り締めて蜘蛛は出て行く。
しかし金物屋はやはりきちりと雨戸まで閉められており、仕方がないけれどそれはそれでまた明日、と蜘蛛は帰りを川に沿った道を選んだ。柳の木がいくつか植えられているその道は、昼間でも少し薄暗く女子供に不評だ。風にそよぐ柳の細い枝は幽霊のように意志を持たず誰彼をも誘うから、それが気味悪いのかも知れない。けれども蜘蛛はその道がなぜか好きだった。湿ったような匂いのするそこを歩くのは、死人である自分にはぴったりだと思っていたせいもあるかもしれない。しかし、それ以上にあまり人が通らないことも彼をまた安心させていた。人が少し、苦手なのだ。
既に酔っているのだろう騒がしい男達が時折通るのを、首をすくめ、蜘蛛は歩みを遅くしてやり過ごす。そうすれば他には人に会わずに済む。それより早く帰って客用の酒を用意するのを手伝った方が良いかしら、などと思っていた時だった。後ろから、やけに賑やかな足音が近付いてくるのは気付いていたのだけれど、まさかいきなり伸びてきた手に口を塞がれるとは気配にも気付かなかった。酔っ払いだろうと高を括っていたせいだろうか。
「なっ、」
いきなりがばりと大きな手で口を塞がれたせいで、呼吸が乱れる。もがこうとする前に腕を取られ、そのままどう転がされたのか地に伏す形になった。勢いがよかったので膝や腰骨を打ったらしい、嫌な痛みがあちこちに走る。
暗闇で痛む身体のあちこちが、いきなり今まで感じもさせなかった存在感を露わにさせ、死んでいるのに、と蜘蛛はこんな状態なのに一瞬気を逸らしてしまった。
「こいつだこいつだ、あの化け物娼館の奴だ」
「おい、でもこれ女か?」
首をきゅっとねじり上げられるように掴まれる。くぅっ、と声が漏れたが、男達は気にも止めずあっという間に胸元へ手を差し込んできた。
「いっ、いやっ、」
少年の形をした蜘蛛の声は変声期前のそれのように少し高い。着物の襟元から突っ込まれた手は容赦なく蜘蛛の薄桃色をした乳首を擦り上げた。
「これじゃ分からん、まだ乳が育ってないのかそれとも男なのか」
「細い首をしとるがな、どれ、脱がせてみようか」
「化け物だろう大丈夫なのか」
「大丈夫大丈夫、見世物小屋へ売ればいい金に成るだろう、娼館の者だしどれ、味見でも」
蜘蛛はその名の通り口から糸を紡ぐ事ができる。べとべととする糸を吹きかけて逃げ出してやることもできたのだが、生憎押さえつけられている為顔を真っ直ぐと男達の方へ向けることができない。
「いやっ、」
騒がれると困る、と先にひとりの男が蜘蛛の口へ手ぬぐいで猿轡を噛ませてしまった。後はただただ空気が漏れるようなか細い声が抜けるだけである。
「うっ、ううっ、」
着物の帯に手をかけられたらすぐに身包み剥がされる。両腕も後ろに縛られ、なんだ男じゃないか、と投げつけられた言葉を地に転がされたまま耳が拾う。恐い、と思った。寒くもないのに肩から震えが走る。薄闇の中だから尚更だろう、輪郭のぼやける男達三人はそれでも爪先で蜘蛛の太股を軽く踏みつけた。
「女みたいな細さだったのにな」
「まあ男の方が多少の事じゃ死なないし丈夫だ、ああ、でも高く売れるのは女の方か」
太股を這い上がってくる足は蜘蛛の陰茎のあたりまで、それは丁寧に這い上がってくる。ぞぞ、と背中に、先ほどとは違う震えがきた。くうう、と喉が鳴る、それは逃げ出したいが為の声ではなく。
「……感じているのか」
「なに、お前何をしているんだ」
「いや、こいつなかなか楽しめそうな気がしてね」
「楽しむって、・・・・・・おい、おっ勃ててやがるのか、もしかして」
口の中が乾く、それは舌が別の物体のようになり喉に張り付く錯覚を覚える。喉を塞ごうとする悪意を持った塊に思えてくる、自分の身体の一部分のはずなのに。
もがこうと肩をずらして逃げる体勢を取ろうとしてもすぐに二の腕の辺りを掴まれて引き戻される。土の匂いがする。小石が当たるのだろうか、腰の少し上辺りが痛い。仰向けにされている無防備な状態で、男達の顔はよく見えず服従させられている形の蜘蛛はこれから何をされるのかを考え恐くて震えはじめた。殺されることはないだろう、売り飛ばすという話をしていたので。けれども、自分は女のように組み敷かれるのだろうか、そういった趣味を持つ客も時折は娼館へ顔を見せることもあったけれど、男は蜘蛛しかいないのだし売り物でもなく、当然のように断られてきた。どれ、とひとりの男がしゃがみこんで蜘蛛の顔を覗き込む。酒臭い息だった。
「白い肌だな、でも土で汚れてる」
「いいじゃないか、別に舐めまわす訳でもあるまいし」
それもそうだ、と男は大して面白くもないのに大笑いし、蜘蛛はその気色悪い笑顔を自分に近づけたくなくけれどももがいてどうにかなるのだろうかと半分は観念しかけていた時だった。どこかで聞いたことのあるやわらかに落ち着いた声を耳にしたのは。
「そこの酔っ払いさん方、ちょっとやめておいたらどうでしょうかね」
助けなのだと、最初は分からなかった。仲間が来たのかとすら思ったのだけれど、その声の人は容易に蜘蛛の上に被さろうとしていた男の襟首を掴み、ぺいっと投げ捨ててしまった。
「な、なんだ貴様、」
「あ、将やんじゃないの、駄目じゃないこんな所で女の子にオイタしてちゃ、」
「お前、安坂んところの、」
安坂、という言葉を聞いて、蜘蛛は涙のたまっていた目をおそるおそる開く。どうやら恐怖にしっかりと瞼を閉じてしまっていたらしい。
「おや、女の子じゃないじゃないか、この子は知ってる、ああそう、蝶のところの蜘蛛だ、お前、蜘蛛だね」
これは知り合いだよここでのことは内緒にしてあげるからさっさとお帰り、と男達を追い返してくれて、安坂は蜘蛛に手を伸ばす。思わず肌を晒された自分が恥ずかしくて顔を背けてしまったが、それには気にした様子もなく、やさしく蜘蛛を起すと着物を直し、土を払ってくれた。噛まされていた手ぬぐいも取ってくれる。
「あはは、昔母が自分にしてくれたことを人にしてやることがあろうとは。いやいや、さすがに猿轡はなかったけどなあ」
大丈夫かい蜘蛛、と頬の泥を払ってくれる指先があたたかい。思わず涙はそのまま零れようとする。
「おやおや、恐かったんだね、丁度お前達のところに行こうと思っていたのだけれど、……少しくらい遅れても良いだろうしね」
「あ、鯵の、安坂様が、お好きな、ので、刺身を、買って、」
土をある程度払った後で、安坂は蜘蛛の肩を抱き、震えを認めるとそのまま抱き締める。
「お着物がっ、」
「あはははははは、蜘蛛は可愛いな、甘酒でも買ってやろうか、その震えは寒さからか怖さからか、」
「……こわか、った、」
よしよし、と頭を撫でられて、蜘蛛は安心したような緊張したような。けれども身体のどこかが硬く強ばってしまっていたのがゆっくりと解けていくと感じる。一度認めてしまえば逆に新しい恐怖を呼んで、自分の身に何が起こりそうだったのかが容易に想像できてしまい、蜘蛛の震えはなかなか止まることがなかった。
女にほど近い存在であるからといって、自分がこのような目に会おうとは。か弱い者はそれだけで罪なのだろうか、蝶や狐達は毎晩このように男達から組み伏せられているのだろうか。いくら金を貰っているからといって。
そんな事をぼんやり思いながらも、鼻が何かの匂いを拾っている。美しい女のような匂い、まるで蝶のような。
「どうした蜘蛛、まだ恐いか、何がそんなに恐いか」
薄闇で見えんが可愛い唇がきっと青ざめているだろう、とからかうような口調ではあるが、安坂の手は蜘蛛の背をやさしく撫でている。震えは小さくなっていたが止まらなかった。先程のことを思い出せば、人に触れられている事に嫌悪を覚え、安坂の身体を突き飛ばしてしまいたい衝動にも駆られるが、鼻先が拾う香りがなぜか蜘蛛の心を慰め穏やかにしていた。
震えが止まり切るまでにどれくらいの時間がかかったのだろう、気が付けばいつの間にか裸足になっていた足が土の冷たさにひどく侵されている。抱き締められた胸のあたたかさがだからこそ痛いほど認識され、恥ずかしい気がして目を上げた。顔を少し持ち上げると、安坂の視線にぶつかる。
「なに、」
「甘い、香りが」
「ああ、それは薔薇だ」
薔薇。
「口を開けてごらん」
「……口、」
それは蝶の為の土産物なのだろう、そう思ったら胸が痛んだ。安坂は蝶の客で、周りが羨ましがるほどすべての安坂は蝶のものであり蝶は安坂のものであり、それは誰から見ても明確なのに。助けてもらったせいだろうと蜘蛛は思おうとしたけれど、それは無理だったようだ。
「ほら、口を開けてごらん」
「何故です、」
「いいから、ほら、」
言われたままに開けた口へ滑り込んできたのは甘い香りのするすべらかなもの。
「なに、」
「くちづけをしている気分になるだろう、それが薔薇の花びらだよ、人の舌に一番感触が近いとおれは思っているけれどね、……おや、蜘蛛はそういえばくちづけをしたことが……」
そういった行為などした事のない蜘蛛は顔を赤らめて俯き、いいえ、と消え入りそうな小さく震える声で告げる。馬鹿にされるのではないかと思った、そんな大抵の人間が経験済みであろう行為をした事がないなどと言っては。笑われるか、まだお子様なのかと哀れまれるかと思っていたのに、けれども安坂の反応は違った。それはすまないことをした、と何故か謝る。
「すまない、悪気ではなかったんだ、どれ、もう一度口を開けてごらん」
軽く唇を開くと、舌に花びらを乗せて出せと言う。その通りにすると、骨っぽく太いが長さもあるため美しく見える彼の指が、そっとそれを摘み上げた。唾液が糸を引き、蜘蛛は恥ずかしさでまた頬を染める。顔を逸らそうとして、顎を掴まれた。驚いて目が安坂の瞳を覗き込む、彼はゆっくりと笑みの形を唇で作り、ひとつ瞬きをすると蜘蛛へ顔を近づける。
「―――え、」
重なってきたのは唇。蜘蛛は目を閉じることも忘れて安坂のやわらかな舌が口内にするすると滑り込んできてしまうのを許していた。後頭部をやさしく撫でられ、その手のあたたかさに安心に似た何かを覚える。甘い匂いがする、安坂の胸は血の通うぬくもりがある。
「戯れは、」
息継ぎの要領で唇を離し、慌てて叫んだけれども本当はもう少し彼の唇を味わっていたかったと、正直なところ蜘蛛は思っていた。できればもう一度、と望んでしまう。
「ははは、すまん、蜘蛛があまりにも可愛くて」
しかし安坂は笑い顔を作ると身体を離した。それがひどく、蜘蛛には切ない。
「……蜘蛛をからかうのはよして下さい、蝶姉様に言って叱っていただきますよ」
「ああ、それは勘弁、蝶は怒ると恐いでな。お前を一番可愛がって大切にしているのだから、おれがお前に悪戯したと知ったら一度や二度ぶたれるだけで済むものかどうか」
「お客様をぶったりはしないでしょう」
「蝶のことだからやりかねん、あいつは可愛いが気性が荒くてな、あんなに綺麗な顔をしておいてから」
薄暗闇でもはっきりと分かる安坂のやさしい微笑みに蜘蛛は胸が痛むのを覚える。嫉妬はどちらに対してなのだろう、安坂なのか蝶なのか。
そうそう今のがくちづけだからね、と安坂が目を細めたまま言った。しばし呆けて意味を理解するのに時間が掛かった蜘蛛は、すぐに耳まで朱に染める。
「安坂様は意地悪です……」
「ああほら、そんな泣きそうな顔をするな、可愛い顔がもっと可愛くなるではないか、もう一度してしまうぞ」
安坂のからかうような口調にどこか心をときめかせながら、蜘蛛は必死で首を横に振る。娼館へ共に行こうかと言われて、小さく頷いた。手を差し出されて、それをおそるおそる握る。幸せな温度のある安坂の手に、体温を失くした自分の手はどんな感触なのだろうと思いながら、蜘蛛は背の高い安坂を少し見上げ、心持ち寄り添うようにして暗い道を歩き出した。安坂の空いている手には赤い薔薇の花が三本、握りしめられている。




