蜘蛛・1
続きものです。
鯵の刺身が食べたいと言われて遣いに出たので、今日は特別な客が来ることを蜘蛛は察していた。蝶は魚など何が楽しくて食べなくてはならないのだといつも言っているくせに、安坂が来る日だけは嬉しそうに彼の好きなその食べ物を用意させる。色が黒く、細いのに肩幅のがっちりした安坂はまだ若いのに蝶の上客で、目鼻立ちがすっきりとして左右対称の丁寧な顔をしているせいなのかその爽やかな性格のせいなのか、人好きのするなかなかのいい男だった。あの少し骨張った手が、と蜘蛛は思う。持ち方のおかしな箸使いをしながらも、楽しそうに鯵の刺身を食うのを見るのは、見ているこちらも愉快な気分になる。酒もよく飲むし他の客もたくさん連れてくる、そうして彼らは最初おっかなびっくりであってもそれなりに見目美しい猫や狐や犬などを抱いて帰るのだから、結局金になる。店にとってはあれほどの上客も少ないだろう、などと考え事をしていたので、つい魚屋の裏口を通り過ぎてしまいそうになった。あわてて引き返し、その戸口をそっと叩く。一旦ふっくらとした人の良さそうな女が顔を出したが、すぐに眉を寄せて引っ込み、しばらくしてから赤ら顔の親父が笑みを浮かべて出てきた。
「おう蜘蛛、今日は何の遣いだ」
「……今日は鯵の刺身を、」
「ああ、ちょっと待ってろ、今すぐ包んで持ってくるから」
先程の女の態度に今でも傷付いてしまう自分を蜘蛛は恥じる。魚屋の親父は確かに金の為に愛想がいいのかもしれないが、それでも前のようにあからさまに気味悪そうな顔をして追い返すことはなくなったではないか、と言い訳を並べて納得しようとする。
蜘蛛は死人だ。
若くして死んだ男なのらしい、年の頃十三、四の姿をしており、そばかすの散った白い顔に細い目、そしてひょろりと長い手脚を持っている。身寄りのない死人を引き取るのか、それともどこからか盗んでくるのか家族に売られるのか、蜘蛛のいる娼館ではそういうものに動物を掛け合わせた生き返りの女ばかりがいる。猫に狐に犬に狸、鳥に鼠などほぼ人間と変わりがないが、尻尾があったり羽があったりする女達だ。男はすべて見世物小屋へ売られるらしいが、たまたま生き返りの中でも一番美しかった蝶が蜘蛛を弟のように可愛がっており、この子はあたしの付き人だから、と手元に置いてくれているので見世物にならずに済んでいる。自分達を何の目的で誰が作っているのかは知らないけれど、とにかく一度死んでしまったものを他の命と掛け合わせることによって再び生かされているようで、しかしその仕組みは蜘蛛もよく分からない。覚えているのは生前の名前くらいのもので、それも誰からか戯れに教え込まれただけだと言われればたちまち自信を失くす。
「ほら持って行きな、悪くなっちまわないように今夜の内には食っちまうよう言っておけよ」
しばらく待っているとまた裏口の戸が開き、魚屋の親父が白い包みを手渡してくれた。蜘蛛は礼を言って深々と頭を下げ、金を払って踵を返す。聞いちまわなきゃそこらの子供と同じなんだけどな、と親父が言うのは、彼の耳には届かなかった。
「嫌だ嫌だ、気味が悪いよ塩でも撒くと良いさ、あんたもまた物好きな人だね、あんな化け物小屋の奴等に魚を売ってやるなんて」
蜘蛛に眉を寄せて見せた女がひょっこり顔を出し、大袈裟に顔を顰めた。
「金払ってくれりゃ誰だって客さ、木の葉や貝の金だってんならお断りだがな。それに蜘蛛も可哀想な子じゃねえか、一体いつまで年取らないあのまんまで生きてんだか」
「だから化け物って言うんじゃないの」
「人を捕って食うでもないし、害がなけりゃいいとは思うがね」
死人が出歩いているってのが気味悪いんじゃないの、と女は怒鳴りつけて奥へ引っ込んだが、親父は蜘蛛が行ってしまった裏道をなんの気なしに眺めながら、それでも金払う誰かの道楽で生き返ってんなら死人も可哀想じゃねえか、とだけ呟いた。
「蜘蛛、蜘蛛はまだ帰ってこないの、」
鈴を振るような声がする。昼間は静かな娼館へその声は溶けてしまいそうに空気を震わせた。今戻りました、と勝手口で短く叫び、通りかかった狐にくすりと笑われる。
「あんた、またこんな所で大声出すと、蝶の奴に無粋だって叱られるわよ」
鼻のきゅっと尖った女はふさふさとそれは見事な尻尾を持っている。細いつり 目をますます細くし、不意に手を伸ばして蜘蛛のざらざらした黒髪をぐいっと撫でた。
「わ、」
「あんた可愛いねえ、食っちゃいたいくらいだよ」
「……狐姉様、蜘蛛をからかわないでください」
小さな声でようやく言うと、狐はますます目を糸にする。
「今日の遣いは何だったんだい」
「安坂様がいらっしゃるので、鯵の刺身を買うようにと」
「また鯵! あの男は金を持っているくせに貧乏ったらしいものが好きだよ」
蝶姉様に呼ばれていますので、とそそくさと脇を通り過ぎようとしたけれど、狐の尻尾にしばし邪魔をされ、玩具にされてからようやく解放された。蜘蛛は自分がからかいの対象であることは重々承知だが、それも仲間としての異性が他に居ないからなのだということも知っているので、されるがままになってしまう。一度死んでいる身なのだ、所帯を持つことどころか誰かを好いてしまうことも御法度とされている彼女らを、どうして邪険にできるだろう。
「蝶の付き人なんてやめちまって、狐のものになんなよう」
ありがとうございます、と俯きながらも笑って見せると、あらま可愛い顔をして、と相手も嬉しそうに笑った。蜘蛛は可愛がられているのだ、基本的にはこの娼館で。いいものやろう、と豆の入った大福をくれて、狐は二階へ上がって行く。それを見届けてから、蜘蛛は慌てて、けれども足音を立てないように蝶の部屋へ行った。
「戻りました、蜘蛛です」
「お入り、」
襖を開け、覗いた蜘蛛の目に飛び込んできたのは、色とりどりの帯の川。虹の配色と同じ、紫に青に藍、緑、黄色、赤に橙、それから金も銀も、溢れる色彩に蜘蛛は眩暈すら覚える。
「蝶姉様、何を、」
「安坂はどの帯が好きだと思うかい」
「今夜の着物ですか」
透き通るような白い肌を持つ蝶は、その名の通り美しい羽を背に隠している。小さな顔に大きな瞳は濡れて輝き、くちづけを受ける為だけに存在しているかのようなふっくらとした唇は何人もの男を知ってもまだ純粋無垢な印象を与える。
「帯から決めるのですか、着物ではなく」
「着物で迷ったので帯からにしたのだ、けれどもそうしたら余計に迷う」
悪戯をしている子供のように目を細め、蝶はその形良い唇を持ち上げて微笑む。
「蜘蛛は……蜘蛛は蝶姉様にはどんな着物も似合うと、そして似合わないと思いますが」
「似合うけれど似合わないとは、」
「下手な着物よりも蝶姉様の方が美しいですよ」
「お口が上手くなったこと、嫌だわ蜘蛛もそうしてあたしをからかうのねえ」
そんな、と慌てて首を振ったところがまた可愛らしいと蝶は笑い、その小さな手で蜘蛛を手招く。帯を踏まぬように近付き、蜘蛛はひらりと誘っていた蝶の手に自分の頬を押し当てた。
「この可愛い口があたしをからかうのね、」
小さな掌はそのまま蜘蛛の顔を覆い、蝶の方へと引き寄せる。白粉の香りは甘いのだといつもその時に思う。唇を重ねたことはないのだけれど、見詰め合うとそれ以上に空気は濃くなり互いの間に何かしらの感情がやり取りされている気になるのだ。
「あたしに『似合う』だけの着物を安坂に買ってもらうことに……あら、それは、」
ふと蝶の手が蜘蛛の胸元に伸びた。ぎくりとして身体を硬くするも、目的は蜘蛛自体ではなくそこにあった小さな包みだということがすぐに知れる。
「これは、」
「さっき、狐姉様に頂いた大福で、」
あ、と思う間もなく、その包みは蝶の小さな手で投げつけられた。驚いた蜘蛛が目で追うも、既に包みは壁に叩き付けられてひしゃげ、中身の餡まで飛び出している。余程の力だったのだろう、この小さな身体にどうしてそんな力がと蜘蛛は不思議に思っていた次の瞬間にもう蝶に思いきりの力で抱き締められていた。蜘蛛は驚いてもがいたけれども少しもその腕からは抜け出せない。
「あたしの他から誘惑をされては駄目よ」
「誘惑、など、」
「蜘蛛は可愛いから駄目よ、誰にでも好かれてしまうわ、だから駄目よ、蝶から離れちゃ駄目なのよ」
大福を貰ったくらいで、と正直思わないでもなかったが、蜘蛛はそれ以上何も言わずに蝶がしたいがままにさせておいた。帯を踏まないようにと気を足元に集中させているのだけれど、蝶の方はまったくお構いなしだ。
「蜘蛛は蝶の可愛い弟よ、絶対誰にも誘惑なんかされちゃあいけないのよ」
ぎゅうぎゅうと力を込める白い腕の、その隙間からつい笑い声を上げてしまうと、蝶は驚いたように蜘蛛を解き放した。
「なに、」
「本来ならば、蝶は蜘蛛に食べられてしまうものでしょうに」
「まあ、このお口は恐いことまで言うじゃないの」
解かれた腕からするりと抜け出て、蜘蛛は壁に叩き付けられた大福をそっと拾った。埃をそっと払い、大福を破って出てしまった餡を指に移してぺろりと舐める。
「狐姉様は蝶姉様から蜘蛛を盗ろうなんて思いませんよ、大福だってほらふたつ、最初から蝶姉様の分と蜘蛛の分だったのでしょう、美味しく頂かなくては罰が当たります」
「……死人が仏様みたいなことを言うのね」
「蝶姉様、」
「……嘘よ、蜘蛛が可愛いからからかっただけなのよ、」
色とりどりの帯が流れる、娼館の中で道に面していない場所の一番広い部屋を蝶が使っているのは、彼女が一番の稼ぎ手だからだ。色とりどりの帯の川、それは蝶の心のように流れてゆくだけで果てがない。死人なのは蝶もまた同じで、自分の言葉に彼女が傷付いてしまうのを見ることが、蜘蛛には哀しく胸に刺さる。
「……蜘蛛の姉様は蝶姉様だけですよ」
ひしゃげた大福を掌に載せて、茶を入れてきましょうと蜘蛛は言う。
そんなもの食べないわよ、と蝶はむくれたのだけれど、すぐに玉露だったら考えを改めてあげないこともないわと付け足してくすりと微笑んだのだった。




