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第2話 断崖

               -Preah Vihear

 息を切らしながら急な石段を登り詰める。参道が開け、その先に塔門が現れる。半ば崩壊した塔門は、しかしシルエットだけは今も健在で、美しい。ヒンドゥー神話を題材としたレリーフが壁面のそこかしこに彫られている。クメール王朝時代の栄華を偲びつつ建物を抜けると、新たな石段が目の前に立ちはだかる。


 そんなことを幾度か繰り返した後、平らな丘に出た。基壇だけを残す塔門の向こうに中央祠堂が見える。遺跡の他は丈の低い草むらばかり。ところどころに石材が転がるだけで身を隠す場所はない。熱帯の陽が容赦なく降り注ぐ。汗を拭いながら祠堂を取り囲む回廊に入る。


 プリア・ヴィヒアはスルーヤヴァルマン一世により改修された寺院だ。11世紀というから、アンコール・ワットやアンコール・トムより古い。絶頂期に建てられたこれら寺院の原型であるかのように、外観はそっくりだが規模が小さい。まるでミニチュアだ。


 祠堂から香を焚く煙が漂ってくる。覗くと、質素な祭壇の奥に少年僧が座っていた。オレンジ色の袈裟に身を包んでいる。あまりに微動だにしないので蝋人形かとも疑ったが、こちらが手を合わせると彼も手を合わせる。一礼をすると何やら祈祷らしきことまでしてくれた。訪れる人は日に何人もいまい。ひとりも来ないかもしれない。それでもここは現役の寺院なのだ。


 山の斜面を利用して造られた遺跡は中央祠堂で行き止まりとなる。では、その先には何があるのか。軽い気持ちで祠堂の裏に回った僕は、思いもかけない光景に「あっ」と短く息を呑んだ。


 地面がそこで終わっていた。鋭利な刃物ですっぱりと切り取られたように、踏み出すべき道がなくなっていた。草も木も岩も、ここまで当たり前に存在していたものすべてが跡形もなく消え失せていた。断崖だったのだ。


 遙か真下に一面のジャングルが拡がっていた。緑濃い樹木に覆われた大地が地平線まで続いている。下界まではあまりに遠く、どれくらい距離があるのか想像もつかない。


 風景が断絶していた。此岸と彼岸。僕たちのいるこちら側と手を伸ばしても届かないあちら側。その両者が同じ時空に存在しているということがにわかに信じられない。自分の立っている土地だけが現実で、ジャングルは空想の産物、別世界に思えてならない。


 なるほど、これならカンボジア側からアプローチできないのも納得がいく。垂直に切り立った崖をよじ登ることも困難だが、そもそも崖に近づく方法がない。富士山北麓とは比べものにならないほど広大な樹海なのだ。


 強い風が吹き上げてきた。慌てて帽子を押さえると同時に、そこで初めて自分が高所恐怖症であることを思い出した。もういけない。脚に力が入らない。ほとんどしゃがみこんだ状態でずるずると後ずさりを始める。滑稽に映ることは承知しているが、なりふりなど構っていられない。ようやく安全地帯までたどり着くと額からどっと汗が噴き出した。


「こっちに来てください。対戦車砲がありますよ」


 ガイドの声に誘われ行ってみると、錆びた鉄屑が草むらに隠れるように放置されていた。赤茶けてボロボロだが、見てすぐに兵器とわかる。鉄条網が周りを囲んでいる。


「ポル・ポト派です。彼らが住んでいた洞窟もありますよ」


 プノンペン陥落後も、ポル・ポト派は北部国境近くのジャングルに立てこもりゲリラ戦を展開した。祖国を見下ろすこの天然の要害は、軍事拠点としてさぞかし有用な場所だったろう。最終的に投降するまで約20年。長く、しかし展望のない抵抗だった。


 帰り道、山の中腹に軍用ヘリの残骸があった。撃墜されたのだろう。迷彩色に塗られた機体は新しく、今にも飛び立ちそうに見えた。プリア・ヴィヒアが観光客に解放されたのは1998年。政府軍との戦闘はついこの間まで続いていたのだ。

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