転生した私が闇落ちを回避した、その後の話
春が終わり、ゆっくりと夏が近づいていた、ある晴れた日。
高く澄んだ青空の下で、わあっという歓声があがった。
その声ととともに、一斉に祝福の花が降り注ぐ。
花の雨が降りしきる中、取り囲む人々の奥で一組の男女が微笑み合う姿が見えた。
男性の方は炎を思わせる赤髪をしていて、その横に寄り添う女性は春の日差しを紡いだような金糸の髪を白いヴェールと共に揺らしている。
遠くから眺めるそれは、まるで二人そのものが光り輝いているのかと思うほどに、幸せな景色だった。
髪と同じ漆黒の瞳を眩しげに細め、その様子を見ていたノエルは静かに踵を返した。
明るく楽しげな喧騒からそっと離れ、よく行く泉へと足を向ける。
こんな日だ、自分以外誰もいないだろうというノエルの予想は的中して、森の中は打って変わって静まり返っていた。
一人になったことにようやく安堵し、ノエルは泉の側にあった岩の上へと腰を下ろした。
さわさわと柔らかな風が吹き、雨音に似た葉ずれの音が頭上で鳴る。
ノエルはしばし目を閉じ、そのどこまでもやさしい響きに耳を傾けた。
おそらくは自分がこの世界に生まれたときからずっと聞き続けているだろう、懐かしくも慕わしい音だ。
そうして馴染み深い音色を聞いているうちに、ノエルの気持ちも少しずつ静まってきた。
「――本当に、よかった」
ほっと息を吐き出し、ノエルは小さくそう呟いた。
これで――、これでようやく、終わることができた。
「十八年、か」
他の誰にも分からないだろうことを囁きながら、ひとりごちる。
「長かったなあ……」
湧き上がって来るのは、深い充足感とそして微かな寂寥感だった。
小さく微笑み、ノエルは長いスカートの裾ごと己の両膝を引きよせ抱え込む。
頬に触れる布の感触は普段のそれとは違って、すべすべとして柔らかだった。
いつもであればどれだけ汚れても問題ないような麻布の服を着ているノエルだが、今日は例外だ。
何しろ、この村をあげてのお祝いの日である。
しかもノエルは、主役の一人の家族枠として正式に招待された身なのだ。
当然それに相応しい格好で参列すべきということで、今のノエルは簡素ながらも、上質な空色のワンピースを纏っている。
この日のために用意した、晴着だった。
とはいえ、本当にこの服を身につけられるのかどうか、正直不安だったのだが。
丁寧に施された裾の刺繍に目を落としながら、ノエルは先程遠目に見た二人の姿を思い浮かべる。
とても――、とても幸せそうだった。
そして、心の底からその幸せを喜べた自分に、どうしようもないほどに安堵もした。
膝を抱えたまま、体の力を抜く。
涼しい風とほどよく温かな日差しが心地良く、ノエルがつい眠り込みそうになった、そのときだった。
ぱちり、という物音が、唐突にノエルの耳へと届いた。
聞こえて来たそれは、木の枝を踏んだ音だろうか。
ノエルはとっさに目を開き、急いでその方向へと顔を回した。
まさか、と思った。
自分が気づかないなんて。
だが実際に、ノエルの視線の先には人影が立っていた。
見慣れないその姿は、けれども全く知らないものというわけでもない。
――いや、ある意味では、よく見知っているとすら言えるかもしれない。
でも、でもどうして『彼』がここに?
喉が詰まり、呼吸すら止まるかと思った。
しかしそんなノエルの動揺を意に介すことなく、その人は静かにこちらへと足を踏み出した。
それを見た瞬間、ノエルの肩がびくりと跳ねた。
――怖い。
真っ先に脳裏に浮かんだのが、その言葉だった。
遠くからとはいえ、ノエルが直に彼の顔を見たのは一昨日が初めてのことだ。
会話すら、交わしたこともない。
けれども、ノエルが今抱いている足元から這い上がるような冷たいそれは、まぎれもなく恐怖だった。
こんな風に思われるのは、彼にとってはとてつもなく不条理なことだろう。
頭ではそうと分かる。分かる、のだけれど。
でも。
それでも、理性と感情は別なのだ。
(……だって)
――だって彼は、『自分』を殺す者だったのだから。
ノエルには、異質としか言いようのない記憶がある。
ここではない、全く別の世界で生きて暮らしていたときのそれは、おそらく前世と呼ぶべきものなのだろう。
そして、生まれた時からその記憶を持ち合わせていたノエルは、さほどの時間を置くことなく自身を取り巻く環境の不可解さに気がついた。
(え、何か私、聞いたことがあるような気がするんだけど?)
成長するにつれ、ノエルのその違和感は確信へと変わって行った。
自分の『ノエル』という名前。また、暮らしているこの村。
そして何より、隣の家の幼馴染。
勘弁してくれ、と天を仰いだのも無理はないだろう。
(って、嘘でしょ! これって、以前プレイしたことのあるあのゲームじゃないの!?)
さすがに実際に声には出せないので、あくまで心の中で絶叫しただけだが。
(やめて! 何の冗談よ!? 前世でやってたゲームの世界に転生なんて、ラノベやマンガの中だけのテンプレじゃないのよーっ!!)
そんなの、現実に起こってたまるか!
とはいえ、叫んだところで現状が変わるわけでもない。
いや、百歩譲ってゲームと同じ異世界に生まれ変わるのはよい。だが、断じて許容できないのは――……。
(私って『ノエル』なわけ!? あの、いわゆる負けヒロインの!? しかも最終的にバッドエンドが確定してる――)
己を待ちうける暗黒の未来に、ノエルが卒倒しそうになったのは無理もないだろう。
ゲームでの『ノエル』は主人公の二歳年下の幼馴染だ。将来勇者として旅立つ彼とは家が隣り合っていたために、幼い頃から兄妹のようにして育った間柄である。
(それで、ゲームの初期に聖剣に選ばれた勇者として出発する彼を見送るのよ。最初にプレイしたときは典型的な負けヒロインだな、とか思ってたけど)
それだけならまだいいのだ。冒険なり恋愛ありの育成ゲームなのだから、主人公には広い外の世界を見て成長してもらわなければならないだろう。
(でも、でもあんまりじゃないのよ! 『ノエル』が序盤で退場する脇役ってだけならそれでよかったのに――っ!)
それが、終盤で再度出番があるとは。しかも、だ。
(ゲームだと、『ノエル』はずっと主人公である勇者の帰りを待ってたのよね。でも、勇者にとって『ノエル』は可愛い妹でしかなくって。それで、村に戻って来たときには、彼は正ヒロインの聖女と一緒にいるわけよ。まあ、その時点ではヒロインとは両片思いって感じなんだけど……、それを見た『ノエル』はすごいショックを受けるのよね。で、その心の隙を突かれてラスボスである邪竜――正確に言うとその残留思念――に操られちゃって。最終的に闇落ちした『ノエル』は仕方なく勇者たちに殺されるっていう)
あんまりだ、あんまりすぎる。
ゲームの作成者はあまりにも、『ノエル』に対して酷すぎやしないだろうか。
まあ、他人事としてプレイしていた身としては、こんな展開もあるか、と済ませていたりしていたので偉そうなことは言えないが!
それでも、その現実が十数年後に我が身に降りかかって来るとなれば、話は別である。
主人公の恋愛対象外なのはもう仕方がないし、異論もない。
心は縛れるものでもないし、しかも勇者の進む前途は多難続きなのだ。
そんな辛く苦しい日々は、到底一人で耐えられるものではないだろう。
だから、彼には生死も苦楽もともにしてくれる人間が必要だ、絶対に。
けれどもノエルは、その役割を果たすことはできない。これはやるとかやらないとかの話ではない。状況からして不可能なのだ。
どうしてもここでやらなければならないことが、『自分』にはある。
(そりゃそんな事情があったなら、主人公に着いて行くわけにはいかないかー……って、ゲームをプレイしたときも思ったのよね。そんなに好きなら一緒に行っときなさいよって、ゲームの画面越しにつっこんでたけど、れっきとした理由はあったわけで)
ただまあ、それらの事実が明かされるのは、『ノエル』の死後の話なのだが。
それにまた、前世の自分は固定カプであるヒーローとヒロインの関係を推していたのである。
そして現世の自分としても、相思相愛の恋人同士の邪魔をするような真似はお断りだ。
しかしそれはそれとして、己が破滅するような未来も論外なわけで。
なら、他に打てる手は。
(『ノエル』は恋愛感情で闇落ちしたのよね? でも、私にとって主人公は弟みたいなものだし……。それに、そもそもつけこまれることになったのも、主人公に倒された後でもしぶとく残ってた邪竜の残留思念が原因だっけ? だったら、どうにかできないかな?)
そう考えたノエルは十年以上をかけて色々と仕込みをし、幼馴染の勇者が旅立つ前に何とか必要な準備を整えたのだ。
その結果、勇者がこの国を滅ぼそうとしていた元凶を無事に倒し、思いの通じ合った恋人とともにこの村へと帰郷したのが先月のことである。
そして、つい先程、ヒーローである勇者とヒロインである聖女との結婚式がとり行われたのだ。
それを見届け、ようやく肩の荷が下りたノエルは一息つこうとこの場を訪れた――筈だった。
筈だった、というのに。
とっさのことで、取り繕うような余裕など皆無だった。
ノエルはぴきり、と顔を強張らせたまま、近づいてくる男性を凝視する。
ありえない。
本当に、今の自分と彼とは何の接点もないのだ。それなのに。
声を出せずに硬直しているノエルを見て、青年はとまどったように深い紫の瞳を揺らした。
髪と同じ銀色の眉を僅かに寄せているその表情は……、もしかして困っているのだろうか。
(この人が?)
勇者という大層な肩書を持つにも関わらず、未だに落ち着きのなさを見せるあの幼馴染に対して、この男性はほぼ常に相方のストッパーを務めるほど大概の事には動じない冷静な性分だったのではなかったか。
勇者を動とするならば、まさしく彼は静。
対照的な彼らは、互いに無二の相棒として命を預け合い、長く共に闘って来た親友同士の筈だ。
(それこそ炎と氷とか、水と油かってくらいに正反対の性格なんだけど、だからこそ上手くやってこれたんだっけ)
少なくとも、自分の記憶にあるゲームの中では二人はそんな感じだった。
だが、そんな前世の情報ではあまり想像できないような貌を見て、ノエルは少しだけ落ち着きを取り戻す。
これなら、どうにか立ち上がることくらいはできそうだった。
ノエルは本当に、そう思ったのだ。
――しかし。
腰掛けていたのが、水場のすぐ横にある岩だったのが失敗だったのか。
ノエルが身を起こそうとした、その直後。
ずるっと滑った足下に気づいたときにはすでに遅く、ノエルはずり落ちる勢いを止めることができないまま、一気に水中へと沈むこととなった。
「――え?」
「ね、ねえ、あれって!」
俯いていても、いやだからこそ、ざわつく周囲の人々の声はノエルの耳によく聞こえて来た。
穴があったら入りたい、というのはまさしくこんな気分を指すに違いない。
村へと戻ってきたとたん、四方八方から飛んで来ることとなった数多の視線を感じながら、ノエルは心の中でそう呻いた。
だが、どれほど隠れる穴を探したくとも、現状のノエルは男の腕に抱えられて移動している真っ最中だ。
逃げ場などどこにもないうえに、しかも腰が抜けて歩けないこの状態では、大人しく荷物となっているほかない。
(何で、何だってこんなことに……!)
気持ちとしてはもう半泣きだ。
けれどこの事態を招いたのがノエル自身である以上、文句を言える相手などいるわけもなく。
これは一体何の苦行だ、と内心で羞恥にのたうちまわっていると、突然大声で名前を呼ばれた。
「ノエル!? どうしたんだ!」
反射的に顔を上げると、赤い髪の青年が驚いた様子でこちらへと駆け寄って来るのが見えた。
だが、ノエルが口を開く前に、頭のすぐ上から低い響きの声が降って来た。
「テオ」
「リオン、これはどういうことなんだ?」
あっという間に目の前まで来たテオは、ノエルと、そしてそのすぐ傍にある男性の顔を交互に見遣りながらそう訊いて来た。
その表情は、ひどく怪訝そうだ。
確かに、疑問に思うのは無理もない。
自分の親友が、自分の幼馴染を横抱きにして村の通りを歩いているのを目の当たりにすれば、当然の反応だろう。
だが、問いかけられた側はというと実に落ち着き払ったものだった。
「足を滑らせて泉に落ちてしまったんだ。すぐに引き上げたんだが、驚きすぎて歩けなさそうだったからここまで運んで来た」
実に簡潔な説明だった。
まるっと事実だ。だが、事実なだけにいたたまれない。
聞いたテオは、心配と呆れを半々に浮かべた眼差しをこちらへと向けて来た。
その若草色の目が、この運動音痴め、と無言で語っている。
目は口ほどに物を言う、とはいえ、そこまではっきり言わなくてもいいだろうに。
ぐさりと突き刺さるものを覚え、ノエルは胸元に手を当てる。
ただ、それでもこれは好機だった。
「あの、」
ここでようやく、ノエルは喉から声を押し出すことができた。
それが震えてなかっただけでも、自分としては上出来だろう。
「あの、ありがとうございました。大丈夫です、もう歩けますので」
周りの目と、テオの登場でどうにか凍り付いていた唇を動かすことに成功したノエルは、それまで言えなかった主張をした。
情けない事に、思いがけない出会いと水に落ちた衝撃のせいで、先程まで全くノエルの声は出なかったのだ。
それでも、ここまで来たなら自分の足で戻ることくらいはできるだろう。
更に言うと、これ以上人前で抱き上げられた姿をさらすのは、遠慮させてもらいたかった。
(もうほんと、無理だから! こんないわゆるお姫さま抱っこで運ばれるだなんて、素面でなんてできないって!)
これまで向けられてきた視線の中には、明らかな羨望を含んでいるものも結構あったが、ノエルとしてはむしろ代わって欲しいくらいである。
しかし、かなり切実に主張したにも関わらず、リオンは即座に首を横に振った。
「いや、どうせ向かう方向は同じなんだ。それに、大した距離でもない」
そうして彼は腕の力を強め、下りようとしていたノエルの体をがっちりと固定した。
(んな、あっさり言うなああああっ!)
この男、体型はテオと同じく細身に見えるが、その綺麗な見た目に騙されてはいけない。
どちらも共に、文字通り国を滅ぼしかねないような魔物を相手に余裕で戦えるような規格外なのだ。
同年代の少女たちと比べても痩せっぽちのノエルの抵抗など、それこそあってないものだろう。
しなやかだが力強い腕に、痛くない程度に動きを押さえられたノエルは、わずかに残る前世の常識から胸の中で叫んだ。
(いや、そうでもなければ、どれだけ不本意でもこんなお荷物状態に甘んじたりはしないからね!? 一般人が単独で成人女性を抱き上げるなんて、体を痛めるだけだから絶対やっちゃ駄目なんだから!)
ただまあ、ここは剣と魔法が普通に存在する世界なので、魔物を倒せる人間の膂力諸々を考えれば問題はないのだろうが。
この状況がまだ続くという目の前の現実からどうにか意識を逸らそうと、ノエルが明後日なことを考えているうちに、リオンは再び歩き出した。
そして、その横にテオが並ぶ。
「水に落ちたって言うけど、二人とも濡れてないな。おまえが魔法で乾かしたのか」
「ああ」
「リオンはほんと、力の微調整が上手いよな」
感心したように話すテオに、リオンは呆れたように返した。
「むしろ、おまえが大雑把すぎるんだ」
その感想は、ノエルとしてもおおいに頷けるものだったが――。
(ちょっと、ちょっとテオ! スルーしないで!)
けれども、必死に目を向けるノエルにテオが気づく様子は一切なかった。
そうだった。久しぶりで失念していたが、この幼馴染は少し、いやかなり鈍い。
魔物や危急時には即行で反応するというのに、人の機微――、特に女のそれには呆れるほどに鈍感なのだ。
(あー、もう、そうだった! こんの朴念仁!)
ノエルは半ば八つ当たりのように、心の中でテオを罵倒する。
そして当然ながらそんな心の声が二人に届くことはなく、最終的にノエルは、テオの実家の隣にある自宅までリオンに送り届けられることとなったのだった。
この一幕が周囲からどのように見られ、そうして狭い村の隅々にまで伝達されたのかについては……ノエルとしては考えたくはない。
◇◇◇◇◇
黒々とした山の稜線を、オレンジ色の残照がわずかに浮かび上がらせている。
あともう少しすれば、星が輝きだすことだろう。
そうしたら、村を挙げての祝いのはじまりだ。
ノエルは村のあちこちに準備されている大小様々な形をした角灯に目を向けながら、腕に掛けていた上着を羽織った。
日中日差しのある時間は暖かいが、まだ夜になれば気温が下がる季節だ。
薄着をして風邪をひくのはごめんである。
(でも、盛り上がってそんなことを忘れる人も出て来るだろうなあ)
何しろ今宵の宴は特別だ。
この村出身の勇者と聖女の結婚を祝うために、村中の人間が訪れることだろう。
結婚式は日の高いうちに行ったものの、そちらは花嫁の慣習も取り入れたこともあってかなり少人数でのものだった。
でも、二人を祝福したい村人たちの気持ちも考え、夜に祝宴を開くことにしたのだという。
片肘を張ったものではなく、気軽に多くの人に来てもらいたいからとテオから聞いたが、それは本当のことだろう。
事実、本来主役である筈の花嫁も花婿も、結婚式を終えてからはその準備に飛び回っていたのだから。
ちなみにノエルも、彼らの手伝いにおおわらわだったのだが。
それでもなんとか無事にひととおりの用意が終わると、ノエルはこっそりとその場から抜け出した。
どうせ今夜は無礼講だ。それに、きっと気のいい村の住人たちはあれこれと持ち寄るだろうから、食べ物や飲み物が足りなくなるということもないだろう。
(だから、もう大丈夫でしょ)
後は当事者とその家族に任せよう、とノエルは決め込むことにした。
だが、目的の場所へと足を進めていたノエルは、その途中であまりにも意外な相手と出くわすこととなった。
「―――――――っ!」
闇から現れたその人影を見て、とっさに悲鳴を上げなかった自分のことはきっと褒めていい。
そうはいっても、実際は声すら出せなかったというのが正確なところなのだが。
(何で? 何で、この人がここにいるのよおおおおっ!)
ただ、心の内ではそう騒ぎたててはいたのだけれど。
まあこの暗がりでは気づかれないと思うが、ノエルは己の顔色が真っ青になっている自覚があった。
無自覚なまま片足を動かしていたのか、ざりっ、と靴裏が擦れる音が足元で鳴る。
正直軽いパニックに陥っているノエルに対し、相手は静かに声を発した。
「一体、どこに行くつもりなんだ?」
こんな夜中に、と続けられノエルは更に困惑する。
(――それはむしろ、私が貴方にお訊きしたいのですけれども!?)
新郎新婦の強い要望により、村の住人以外で結婚式に招待されたのは彼だけだった筈だ。
つまり、それだけ彼らと近しい関係であるということでもあるし、当然今夜の祝いの席にも招かれていただろうに。
それなのに何故、この男はこんな村外れの道を歩いているというのか。しかも、一人きりで。
しかしノエルのそんな疑問をよそに、彼――リオンはやや声を落として言った。
「女が一人で夜道をうろつくなんて、危ないだろう」
言っている内容はとてつもなく真っ当なものだったものの、それを聞いたノエルは実に微妙な気持ちになった。
(いや、私にとって、ある意味で一番危険なのって貴方なんですが)
思わず、そう反論しそうになる。
けれども、いくらノエルの今の心境が、それこそいきなり殺人犯に遭遇した人間のものと大差なかったとしても、そんなのは彼の預かり知らぬことなのだ。
無実の罪を着せられるのは、さすがに理不尽だろう。
そう、ノエルが自身にどうにか言い聞かせていると、そんな理性の糸をぶった切るかのような発言が飛んで来た。
「危険だから早く帰るんだ。俺が家まで送るから」
「っ! け、結構ですっ!」
意図せずとも、思い切り力のこもった声が出た。
冗談ではない。
数時間前の一件は、日の高い時間で、それも人目のあるところでのことだったからなんとか態度を取り繕えたのだ。
それが、こんな夜の闇の中で文字通りの二人きりなど、到底自分の神経が保つとは思えない。
緊張しすぎて、過呼吸でも起こしたらどうしてくれるのだ。
ノエルの即座の拒絶に、リオンの目が少し細められた。
「今日初めて会った相手に、そこまで警戒されるような真似をした覚えはないんだがな」
探るような視線を向けられ、びくり、とノエルの心臓が跳ね上がった。
その言い分は当然だ。事実、彼はノエルに対して何もしていない。
確かに、こちらの事情など何も知らない彼からすれば、不審に思うだろう。
それは分かる。
(分かるよ!? 分かるけど!)
それでも、最終的に『自分』に止めを刺した男を前にして平然とした態度をとれるほど、ノエルは図太くはないのである。
ノエルは『自分』の最期を思い出す。
ゲームの『ノエル』は復活した邪竜の傀儡と化し、すでに助けようもないほどに心身を壊されていた。
それでも主人公は、妹同然である彼女に手に掛けることをためらったのだ。
そうして立ち竦む『テオ』が攻撃を受けそうになったそのときに、『ノエル』の心臓を貫いたのが『リオン』だった。
ゲーム画面の中で目にした、彼の頬を染めた血飛沫の赤さを、ノエルは今でもまざまざと思い描ける。
(仕方なかったんだろうけど、それはそうなんだろうけど! でーもー!!!)
たとえそうだとしても、だ。剣の一突きで『自分』を絶命させた相手に、ひくなというのはさすがに無理があるだろう。
ゆえに、ここでノエルに取れる手段は一つ。逃げるほかない。
しかし、踵を返そうとしたその寸前に、白い塊がノエルの目の前へと飛び出して来た。
「キュウウウウッ!」
夜の空気を揺らす高い音とともに胸元に飛び込んで来た物体を、ノエルは慌てつつも抱き止める。
「スノウ」
呆気に取られたノエルがその名を口にすると、スノウはつぶらな藍色の瞳でこちらを見上げながら、再びキュウ、と鳴き声をあげた。
そのサイズは、せいぜい大きめの猫か小型の犬くらいだろう。ノエルの腕の中にすら、簡単に収まってしまうくらいに小さい。
だが、そんな小さな生き物の姿に、リオンが息を呑む音がした。
「――それは、竜、か?」
愕然とした声音に、ノエルは思わず顔を覆いたくなった。
何故だ。何故、よりにもよってこのタイミングで。
(あああああ、もうっ! もうもうもうっ!)
声に出さない声で、ノエルは絶叫する。
本当にこの子ときたら、何をしてくれるのだ。
こうして直に見られてしまっては、どんな言い訳も通用しないだろう。
しかし小さな竜は、胸中で煩悶するノエルにも、言葉を失っているリオンにも我関せずとばかりに、翼をぱたぱたと動かしている。
「キュウッ?」
キュウキュウ、という愛らしい響きをあげるスノウを抱えながら、ノエルはつい天を見上げてしまった。
雲一つない夜空には星々が散りばめられ、眩いばかりである。
もういっそ、ここで意識を失えたら楽になるのではなかろうか。
そんな多少現実逃避じみたことを考えつつ、ノエルは深く、長い息を吐き出した。
(でも、そうなったところで何も解決しないしなあ……)
残りわずかな気力をどうにか奮い立たせ、ノエルは改めてリオンの方を向いた。
「ええ、スノウ、といいます」
名づけたのはノエルだ。雪のように真っ白な鱗と、孵った時の光景から、そう思いついた。
ノエルの言葉に、リオンはまじまじとスノウを見た。
見開かれた目でスノウを凝視し、次いでその視線がノエルへと動く。
驚きを隠せないでいる彼の様子をそっと窺い、ノエルがどうしたものかと思い悩んでいると、躊躇いがちなリオンの声がした。
「……もしかして、この竜は《命の実》から孵ったのか?」
「…………………………………………………………………」
最短で答えを導き出した男に、ノエルは辛うじて舌打ちを堪えた。
こういうときに頭も勘もいい人間というのは、実に厄介だった。
リオンが半信半疑のように口にした《命の実》という言葉。
それは、古の時代に大魔術師が生み出したという、ある石のことだ。
別名では《聖魔の石》と呼ばれるそれは、異端の魔術の結晶でもある。
そう、恐ろしいまでの魔力を結集して作り出されたその石は、ひどく特殊なものだったのだ。
外見は無色透明な水晶で、確か大きさはノエルの握り拳くらいだっただろうか。
だが、片手で持てる程度のその小さな石には、有り得ないほどの力が込められていた。――いや、集められていた、と言うべきか。
禁書とされる古文書にすら、禁忌の結晶と書き残されていた遺物が、それだ。
(っていっても、それが封印されてたのは、この村からすぐそこの森の奥だったんだけどね!)
まあ、元々このソルという名の村が作られたのはそのためだったから、近いのは当然といえば当然なのだが。
そして、間接的ではあるものの、当代の勇者がこの村に生まれた理由でもある。
更に言えば、ノエルがこの村から離れられなかった直接の原因が、これだ。
魔術の結晶である石が《命の実》あるいは《聖魔の石》という言葉で言い表されるのは、それなりの意味がある。
この石は、孵す者の力と意思に応じた形の魔法生物を生み出すことが可能なのだ。
硝子でできた卵に似た外観の器に魔力を注ぎ込むことで、ある種人工的な命を持つモノを孵化させることができるのである。
とはいえ、それは言葉にするほど簡単なものではなく、器を満たすだけの膨大な力と、実際に孵す者の高い能力がなければ話にならない。
しかも、完全に満たされない状態の《石》であったとしても、周囲に甚大な影響を及ぼすのだ。何しろそこに在るだけで、まるで底なしのように周囲の魔力を大量に奪い続けるのである。
けれども、破壊すればしたで、作られた時点ですでに溜め込まれている大量の力が解放されることとなり、広範囲に甚大な被害をもたらすというのだから、どうすればいいというのか。
ゆえに、古の時代にこの《石》を手にし、その厄介さを知ってしまった人間は、自らの手で封じることを選んだ。
そしてその者はこのソル村を作り、己の血を受け継ぐ子孫に封印を続けていくように言い伝えたのだ。
ただ、そもそも本来ならばそんな物騒な物を封印することも、そしてそれを引き継ぐことも、到底普通の人間にできるようなことではない。
そう、普通の人間には。
(公の記録には一切残ってないんだけど、この村を作ったのって『聖女』の称号を持つ女性だったのよね。しかも、その弟は歴史書にも記されてる当時の『勇者』で。んで、何百年も経ってるから、村の人間は皆その末裔で、しかも世間一般の人々と比べて持ってる魔力がやたらと多いんだわ。家族も親戚も近所の人間全員がそんなだから、ほとんど誰も気にしてないけど)
それでも、村の外部の人間が知れば、目を剥くレベルだろうが。
(……で、『ノエル』は最も血の濃い直系で、しかも先祖返りで滅茶苦茶魔力が強いから、封印のお役目を担わなきゃいけなくて。だから、どうしても村から離れられなかったわけだけど)
ノエルにしてみれば頭が痛いとしか言いようのない現実だ。
でも、仕方がない。自分が村を離れれば、途端にこの周辺一帯の力の均衡が崩れてしまう。
勿論、多少の距離や時間であればなんとかなるが。
しかし本当の意味でノエルがこの地から遠ざかることにでもなれば、良くても地震に雷、日照りに豪雨、竜巻や暴風雪などの天災が山のように起きるだろう。
しかもこの地は大半が山と森に囲まれているのだ。逃げ場もなく、滅びるしかないのが目に見えている。
生まれ育った村と共に暮らして来た住民に災禍が及ぶと知りながら、そんな真似ができる筈もなかった。
少し低い、けれど耳に心地のよい声が確信したように言う。
「君が、その竜を孵したのか」
向けられる視線が、非常に痛い。
違う、と否定することはできなかった。
だが、ここで肯定してしまえば、それはそれでとてつもなく厄介な事態が待ち受けている。
(最悪すぎる)
ノエルは大焦りでどう言ったものかを考えた。
これがばれたのが幼馴染だったなら、脅し、いや懇願や泣き落としで丸めこめた可能性もあったというのに。
けれどもこの男が、この子のことを黙っていてくれるわけがない。
何しろこいつは、国を守護する一翼を担う、大神殿の懐刀でもあるのだ。
古の魔術の結晶であり、膨大な魔力を内蔵するこの『竜』を放置しておく選択などないだろう。
必要とあれば、非情な決断を下すことを躊躇わない筈だ。
緊張のあまり、ノエルの喉がこくりと鳴る。
そして、そんな自分をじっと眺めていたリオンがゆっくりと唇を開きかけた、まさにその瞬間だった。
ざわり、と総毛立つような予感に、ノエルはとっさに身を返して後ろを見た。
ノエルがそうするのと、リオンが息を呑む鋭い音がしたのはほぼ同時のことだった。
おそらく自分が感じた異変を、彼も感じ取ったのだろう。
「これは何だ!? 魔物か!?」
険しい声音は、唐突に湧いて出た禍々しい気配に向けてのものだ。
しかしリオンの疑問に、ノエルは答えることができなかった。
それでも、己に分かることは口にする。
「多分、そうだと思います。でも、おかしいです。余程村から離れた場所ならごく稀にそんなこともありますけど、少なくともこの十年以上、村に魔物が出たことなんてなかったのに」
これは、今まで起きたことのない異常だった。
有り得ない事態が起こっている。――それは、何故だ?
しかも、どうして今日、この夜に?
違和感を覚えたものの、ノエルは頭を振った。
それは今、考えるべきことではない。
真っ先にすべきことは、起きている事実を確認することだ。
意識を切り替え、ノエルはすぐさま村の中へと戻ることにした。
ノエルが真っ先に向かった先は、おそらく今夜村の人間が最も集っていただろう、祝宴の会場だった。
普段は村の集会場として使われることの多いその場所へと踏み込むと、そこには荒れ果てた惨状が広がっていた。祝いのために飾り付けられた花々は散乱して踏みにじられており、あちこちにテーブルや椅子が転がっている。
そしてその隅には、一目で重傷と分かる傷を負った人たちが横たわっていた。
声を出しかけたノエルだったが、彼らの横で身を屈めている金髪の女性に気づき口を閉ざした。
昼間に見た柔らかな笑顔とは打って変わって、その横顔はひどく真剣なものだ。
倒れた男のすぐ側に両膝を着いた彼女は、ほのかに光る右手を相手の額へとかざしながら注意深く様子を確かめている。
ノエルが黙ってその様子を見守っていると、女性の手から放たれていた淡い光は徐々に弱いものとなり、ゆっくりと消えていった。
白い手が、静かに下ろされる。
それと同時に、銀の髪の青年がノエルの横を通り、彼女たちのいるところへと近づいて行った。
音を響かせないしなやかな足取りで女性へと歩み寄ったリオンが、静かに呼び掛ける。
「アイリス」
「リオン、無事だったのね」
金色の髪の女性は、リオンを見てほっとしたようにそう言った。
無傷の姿に安堵したのかもしれない。
しかしリオンは厳しい面持ちを崩すことなく、彼女――アイリスに訊いた。
「テオはどうした。何で、ここにいない」
それは、ある意味当然の質問だろう。
テオは本日の主役の一人だ。なのに、そのもう一人の主役である花嫁を置いて、一体何をしているのか。
リオンに問われたアイリスも、硬い顔になった。
「魔物に襲われた人が他にもいるかもしれないって、村の中の様子を見に行っているわ。私にはここで動けない人たちの治療を頼むって。他の人たちはお年寄りや子供を安全な場所に避難させたり、手分けをして周囲の身回りに向かったりしているの」
確かに、アイリスの治癒魔術は『聖女』の称号を授けられるほどのものだ。
勿論、戦闘で役立つ魔術も相当に使えるが、彼女が最も真価を発揮できるのは浄化と癒しだった筈。
しかも、テオにとってこの村は馴染み深い生まれ故郷だ。
効率を優先し、二手に分かれて行動するというのは分からなくもないが――……。
それでも、自然とノエルの眉が寄った。
(そうかもしれないけど……。あの馬鹿、結婚したその日に新妻を残してくかー?)
ノエルが渋い表情になっていると、リオンの声が聞こえた。
「それで、何があったんだ。さっき魔物の気配を感じたが」
彼らの会話にノエルも耳を澄ませた。これは、現状最も気掛かりとなっている件だ。
「はっきりとしたことは私も分からないの。ただ、本当に唐突に、魔物がこの場に現れたのよ」
「出現するまで気づかなかったのか? おまえもテオも?」
訊き返すリオンは本気で訝しげだった。
それはそうだろう。ただの人間ならまだしも、ここにいたのは『勇者』と『聖女』なのだ。
そんな二人が、鈍いわけがない。
つまりこれは、かなりの異常事態だった。
(……でも、こんな辺鄙な村に? それに、この村で起きる『イベント』は『ノエル』の闇落ちだけだったわよね?)
逆に言えば、それ以外には何もなかった筈だ。
だからこそ、ノエルはある意味で安心していたというのに。
そう、『自分』さえ事を起こさなければ大丈夫だろう、と疑いもしなかった。
――ゆえに、その油断が隙に繋がるなんて、想像すらしていなかったのだ。
「――え?」
背筋を冷たい感覚が通り抜けた、とノエルが感じた直後だった。
夜の暗さで凹凸すら判別しがたい石畳の上に、突如として光の線が浮かび上がる。
(これは……!)
あまりのことに、ノエルは目を見開いたままその地面を見つめた。
光と魔力を放ちながら瞬く間に描かれていくそれは、まぎれもなく魔法陣だ。
(そんな、何で!?)
理由など、分かるわけがない。
ただ、間違いないのは――……!
ノエルは焦りながら、アイリスの姿を探した。
だって、他に考えられないだろう。
これが今日この日、この場所を狙って仕掛けられた罠だというのなら、その狙いなど決まっている。
その目的が彼か、若しくは彼女かまでは、読み切れないけれど。
それでも、これが危険な前兆であると、ノエルの中で警告が鳴り響く。
首を回したノエルの瞳と、たまたまこちらを振り向いたアイリスの青のそれとが、かちりと合う。
瞬時にノエルは、逃げて、と唇を動かした。
だって彼女は、ノエルの幼馴染にとって何より大切な人なのだ。
そんな相手にもしものことがあったら、彼がどれ程傷つくか。
ノエルの頭にあったのはその想いだけだった。
なのに。
(え?)
ノエルの目の前の魔法陣が、光を明滅させながら奇妙に蠢いていた。
何らかの意図を感じさせるその様子に、一瞬ノエルの気が取られる。
(――何?)
思わずノエルが目を凝らした、その僅かな時間のことだった。
ぐん、としなる鞭のように魔法陣の光の線が伸び、ノエルの体へと巻き付く。
これは、一体何なのだ。
しかし理解が追い付くその前に、ノエルはそのまま強い力に引き摺られ――、気づいたときには光の中へと呑み込まれていたのだった。
まず、とぷん、と水中に沈みこむときに似た感覚がした。
次いで、何かをくぐるような奇妙な衝撃が全身に伝わって来る。
不快さにも似た違和感に顔を歪めたとたん、ノエルは自分がどこかに出たのだということを察した。
真っ先に感じたのは、鼻先を掠める樹木の香りだった。
次いで耳へと届いたのは、ノエルがよく知る音色。
雨音と錯覚しそうなその響きは、揺れる葉ずれの音だ。
ノエルはいつの間にか閉ざしていた瞳を開き――、声にならない悲鳴をもらした。
淡い月明かりに浮かび上がる真っ黒な森の木々を背景に、一つの人影が立っている。
フード付きの外套を身につけてはいるものの、上背のあるその輪郭から相手が男性であることはすぐに分かった。
ノエルは知らない、見たこともない男だ。
だが男は現れたノエルを見て、驚愕しているようだった。
「何故……。どうして、アイリス様ではなく」
思わず零れたらしき言葉に、ノエルは彼の狙いが自分ではなかったことを悟る。
けれど、その事実は到底喜べるようなものではなかった。
いや、この場に攫われたのが彼女でなかったのは良かったのだが。ただ、そうかといって人違いでこの場へと連れ出されたのは、ノエルにとっても災難でしかないわけで。
(それはむしろ、私の台詞では?)
反射のように、ノエルは心の中でそんな反論をする。
その呟きが聞こえたわけでもないだろうが、ノエルと男の疑問に答えるように後ろから声が聞こえてきた。
「どうしても何も、貴方様のご指示に従っただけですが」
感情を窺わせない、高くも低くもない平坦な声音だった。まるでさらさらと流れる砂のように、捉えどころがない。
それでも、声質から話しているのが男だということくらいは分かったが。
「何を言っているんだ!? 魔力を目当てにすれば、魔法陣を使ってアイリス様を呼び寄せることは可能だと、おまえはそう説明しただろう!」
ノエルの視線の先にいる男が、苛立たしげにそう叫ぶ。
そうして彼が一歩踏み出した途端、被っていたフードがずれ、隠れていた髪と顔が露わになった。
夜の暗がりのせいで定かではないが、随分と明るい髪色をしているようだった。さすがに顔立ちや瞳の色までを見て取るのは不可能だったが。
「それとも、私を謀ったのか!?」
きらめく髪を乱した男はノエルの存在を忘れたかのように声を荒げる。
しかし、もう一方の男は落ち着き払った様子だった。
「いいえ。魔法陣は正しく作動しました。貴方は仰いましたよね。あの村の中にいる人間のうち、最も強い魔力を持つ者を呼び出すように、と」
それを聞いたとたん、ノエルの心臓がどくりと大きな音をたてた。
冷たい汗が、ノエルの背を伝い落ちる。
(ちょっと待ってよ? ……ああ、でも)
確かにそうだ。純粋な魔力量だけを取れば、実は主人公であるテオよりもアイリスの方が総量は上だった。
戦闘職であるテオやリオンは武力も必要とされるが、彼女のメインは援護や治癒だ。
どうしても体力面では劣る分、魔力でそれを補っていたのだから、そりゃあ三人の内で最も強い力を持つのは彼女だろう。
だとしたら、それを目印にするという考え自体は間違ってはいない。
……間違ってはいないのだ、本来ならば。
ただ、今回に関してはあり得ない例外があっただけで。
あまりの巡り合わせに、ノエルは頭が痛くなった。
それはそうだ。普通、『聖女』よりも強い魔力を持つ人間の存在なんてまず想像すらしない。
(いや、まあ、そんなの当事者であるおまえが言うなって話なんだけど)
とはいえ、こちらにもちゃんとそれ相応の事情はあるのだが。
そもそも、自分が魔力を枯渇寸前まで使い続けなければならなかったのは、《石》の封印を守る為だった。
そして当初ノエルは、己の持ち得る全ての魔力を使い果たしてでも、少なくともあと数十年くらいは保つ封印を完成させるつもりだったのだ。
それなのにノエルは何故か、肝心のその《石》からスノウを孵化させてしまった。
本当に、これっぽっちもそのつもりはなかったというのに。
そして、一年前にスノウが孵ったことで、《石》は完全にその力を失い消失している。
つまり、このイレギュラーはひとえにスノウの誕生に尽きるとも言えるのだ。
またその結果として、ノエルには生来持っていた魔力の全てが戻っていた。
しかも、一年かけて完全回復したノエルの魔力量はというと……、正直自分でもこれは非常識だろうと思うレベルである。
それでもまさか、アイリスを差し置いて魔法陣が作動するほどだとは思いもしなかったが。
何しろ『ノエル』は、せいぜいただの負けヒロインなのである。
(でもここで、この人たちに謝罪するのも違うしなあ……)
人違いで巻き込まれた身としては、なんとも好い迷惑だ。
というか、誰が相手であっても人攫いという行為は断じて推奨すべきものではないのだが。
(……あれ?)
全く想定外の人物の出現に、明らかにうろたえている男に目を遣ったノエルはふと気づいた。
自分が直接この相手に会ったことはない。それは確かだが――、何かが引っ掛かる。
(うーん……?)
自身が置かれた状況も忘れ、片っ端から記憶を引っ繰り返したノエルは、先程の男の発言を思い返したところで目を見開いた。
(そう言えば、『アイリス様』って言ってた声に、どこかで聞き覚えがあるような……?)
そこで、ようやく思い至ったノエルは、とっさに顔を向けた。
(あ、あーっ! 分かった、思い出した!)
合致した記憶に、思わず両手を合わせたくなった。
(そう、いた! ヒロインに横恋慕する、いわゆる当て馬キャラ! あれって、間違いなくこの人よね!?)
そこまでいけば、芋蔓式にその名前も設定も出て来る。
(ええっと、『カルミア・グリーヴェル』だったっけ? 子爵家の息子で、ゲームだと平民出のテオに色々嫌味を言って絡んだりしてたわよね? アイリスに治癒してもらった件ですごく彼女に心酔していて――)
そこまでの情報を頭の中に羅列したところで、ノエルははたと瞬いた。
ここにいるのがその『カルミア』なのは間違いないだろう。
しかし何故、彼はここへと現れたのだ?
……どう考えても、嫌な予感しかないのだが。
「仕方がないですね」
そして、ノエルのその懸念を裏付けるかのように、感情の読めない男の声が囁いた。
「では、貴方をお連れしましょう。私にとっては、別にどちらでも構いませんのでね」
その言葉の与える衝撃は、非常に大きかった。
少なくとも、ノエルの思考が一瞬停止するくらいには。
といっても、即我に返りはしたが。
(ふ、ふざけんなーっっっ!)
なんだその、厚顔無恥としか形容しようのない言い草は!
だが、ノエルからしてみれば張り倒したくなるような台詞をほざいた男は、どうやら本気らしい。
しかし、その発言に異論があるのはもう一人の誘拐犯――カルミアも同じのようだった。
「何を言っているんだ? あの粉い物の勇者からアイリス様を引き離し、神殿にお連れするのが私たちのすべきことだろう」
カルミアの口振りは、彼が心の底からそう思っていると伝わるものだった。
どうやらカルミアには自分を連れ去る気はないらしい。けれども、現状においてその回答が最適解かどうかは別の話だ。――少なくとも、彼にとっては。
カルミアに声を掛けられた男は、彼の発言にふっと笑ったようだった。
そうと悟った瞬間、ノエルはほとんど反射的に動いていた。
「うわっ!」
唐突にカルミアが姿勢を崩し、その場へと倒れ込む。
一拍置いて、そこに一片の布地がひらりと漂った。
鋭く切り裂かれたそれは、彼が被っていたフードの一部だ。
……どうやら、ぎりぎり間に合ったらしい。
ノエルは振り返り、後ろにいた男をきっと睨みつけた。
フードを目深にしているせいでその表情は分からないが、今はそれ以上に大事なことがあった。
「どういうことです!?」
動揺のせいもあってか、問い質す声は自分の耳で聞いてもきつく鋭いものだった。
けれども怒気すら滲ませるノエルを、男はむしろ興味深そうに見た。
「これは、貴方がしたことですか。ここで魔力は使えない筈なんですが」
思わぬ暴露に、ノエルはとまどう。魔力が使えないとはどういうことだ。
そう思い周囲を見回したところで、男の言っている意味を理解した。
今の今まで気が付かなかったが、ノエルの立っている空間は明らかに隔離されていた。
目視で見て取ることはできないが、おそらく自分は魔法陣の内部に閉じ込められているのだろう。
魔力の流れで、それが分かる。
(成程、この魔法陣の中にいる人間は、魔力を封じられるわけか)
つまり、外部に魔力の影響を及ぼすことができないということだ。
それなら、当然先程のノエルの行動は疑問に思うことだろう。
だが――甘い。
ノエルはふっと、唇の端を吊り上げた。
――ざあああああっ……!
強風にあおられたように、周りを取り囲む木々が一斉に枝を揺らし、互いの葉と葉を打ち鳴らす。
叩き付ける驟雨のごとき響きに、ノエルは己の声ならぬ呼び掛けにそれらが応えてくれたことを確信した。
生まれてからずっと、自分はここで過ごして来た。
そしてその長い間、己の持ち得る力の大半をこの地へと注ぎ続けて来たのだ。
その優勢は、そうそう覆されるものではない。
それはたとえ、こうして魔法陣の中に捕らえられていたとしても。
ひっきりなしに降り注ぐ大量の葉が、くるくると渦を巻きながら、地に膝を着いたカルミアを囲う。
ノエルに彼を助ける義理はないのだが、やはり目の前で死なれるのは後味が悪すぎた。
男の方も、そんなノエルの意図を察したらしい。
「面倒なことをなされますね。どうせすぐに終わるのですから、おとなしくしてくださればよいものを」
そうして男が一歩を踏み出す。
その瞬間、地中から突き出た木の根がうねりながら、その足下に絡みついた。
根はそのまま彼の全身に巻き付こうとしたが、直後に現れた炎に燃やされ、ぼろぼろとその場に崩れる。
ノエルは舌打ちをしたくなった。
この暗闇だ。ほとんど地面の様子など見えないだろうからと、下からの攻撃を狙ったのに。
まあ、さっきカルミアを引き倒すのにも同じことをしたので、それで読まれたかもしれないが。
(……この魔法陣、思った以上に厄介ね。この辺りには私の魔力が染み込んでるから、それで多少の魔術は使えるけど)
それでも、こちらの分が悪いことは確かだった。
この相手では、多少時間が稼げれば御の字というところだろう。
涼しい顔を保ちつつもノエルが焦っているのがばれているのか、男は悠然たる態度だ。
こんちくしょう、と心中でノエルは毒突く。
なら、他に打開策は――……。
そう、必死で考えを巡らせていたノエルの耳に、いきなり馴染んだ響きが飛び込んで来た。
「キュウ――――――――――ッ!」
次いで、ぽすっと後頭部に軽い衝撃が伝わって来る。
そのまま頭部に乗っかって来る重みが何かなど、考えるまでもない。
(ス、スノウ―――――っ!!)
真上なので見えないが、実に嬉しそうにしがみついてくる子竜の気配に、ノエルはくらりと目眩を覚えた。
キュウキュウッ、キュウッ。
スノウは小さな前脚でぺしぺしとノエルの頭を叩きながら、訴えるように鳴き声をあげている。
これは多分、文句を言っているのだろう。
おそらくは、村の中心部へと戻る前に、ノエルに危険だからと置いて行かれたことについての苦情だ。
けれども、お願いだからこんな時くらいは空気を読んで欲しい。
分かってはいないにせよ、それでも非常に危険な状況なのである。
とはいえ、飼い主というか育て親は他ならぬ自分だ。ゆえに、文句を言ったところでブーメランのごとく我が身に返って来るだけなのだが。
そういった諸々に本気で頭痛を感じているノエルの上で、スノウはそんなことは完全に無視といわんばかりである。
どうしたものかと考えかけたその先で、聞き覚えのある声がした。
「どこの馬鹿がこんなことを企てたのかと思えば、エンリ、おまえか」
深く、体に響く声。
スノウに続き、思いがけない存在の登場に、ノエルはぎょっとした。
昼間の一件に加え、どうしてここに、のパート2である。
現れた人影に、ノエルの中で湧き上がるのは、安堵とは程遠い肌が粟立つような恐怖心だった。
思い返せば、最初の出会いはまだ良かったのかもしれない。
だが、あのときは日の光の下だったが、今の彼は夜の暗がりの中、か細い月明かりを受けて佇んでいるのだ。
――そう、ゲームの『ノエル』が最期を迎えたあの時のシーンのように。
(~~~~~~~~~~~~~~っ!!)
嫌過ぎる相似に、ノエルが反射的に泣きそうになっていると、リオンはゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
片手に剣を携え近づいて来るその様子はひどく落ち着き払っていて、危ないことなど何もないと言いたげだ。
それでも、その姿にノエルの心臓は先程以上に激しく暴れだした。
彼は一応――一応は、敵ではない筈だ。
理性ではそうだと分かっているが、やはり怖いものは怖いのである。
そして、生まれたときから抱えているこの恐怖に比べれば、ここに自分を連れ攫った男たちに対する不安など吹き飛ばされる程度のものでしかなかった。
……比べる対象がそれなのかとは、多少思わなくもないが。
しかし、ノエルのそんなぐちゃぐちゃな思考を余所に、リオンは冷静この上ない口振りで言った。
「そこにいるのはグリーヴェルか。エンリの口車に乗せられでもしたのか?」
「……アークライト」
硬い声でカルミアが口にしたのはリオンの家名だった。そう言えば、この二人は知り合いだったか。ゲームでは何度か彼らが会話する場面があった。
「こいつに何を吹き込まれたんだ。アイリスを神殿に連れ戻せとでも言われたか」
その口調は静かだった。
逆にそれに煽られたように、カルミアが声を張り上げる。
「っ、当然だろう! あんな、あんな辺境出の男に……!」
(その辺境の住民がここにもいるんですが? まあ、ここが辺境なのは事実だけど)
しかしそれは関係ないだろう、と心の中でノエルはつっこむ。
また同時に、奇妙な違和感も覚えた。
ゲームのカルミアは嫌味なところのある男ではあったが、基本単純、よく言えば純粋な性格だ。
彼の性分からすれば、アイリスやテオに直談判することはあっても、この遣り口はちょっとそぐわないのではないだろうか。
(だとしたら――)
そして、自分が気づく程度のことを、この(リオ)男が察していないということはまず有り得なかった。
ノエルはそろりと、彼がエンリと呼んだ男を窺う。
やはりリオンのことを警戒しているのか、その視線はそちらに向けられたままだ。
だったらどうにかこの隙に、と思うのだが。
(って、何なのよ、この魔法陣! すんごい堅いんだけど!?)
堅固に過ぎるだろう。まあ、『聖女』を捕獲するのなら、これくらい頑丈でなければ無理かもしれないが!
渋面になりつつも、どこかに突破口はないものかとノエルは魔法陣へと目をこらす。
すると唐突に、キイン、と甲高い音が鳴った。
はっと顔を上げると、降り下ろされたリオンの剣をエンリが真っ黒な鏡のような板で受け止めているのが見えた。
エンリが手にしているのは武器ではない。彼は手ぶらのようだったから、おそらく魔術で生み出したのだろう。それにしても随分と器用なものだが。
しかし、言いたくはないが彼のその判断は正しい。
テオの聖剣もそうだが、リオンの手にあるそれも相当な特別製の筈だ。
生半な武器ではすぐに破壊されて終わりだろう。それなら、魔術で防ぐ方がいい。
勿論、それだけの力量があるという前提があっての話だが。
(そりゃあ、この無闇矢鱈に強固な魔法陣を見れば、それくらいしてのけるでしょうけど!)
そしてそれ以上に、リオンと遣り合えるという時点で、このエンリという男がとてつもない要注意人物なのは確定である。
(何だってそんなのがこの村に来てるのよ。アイリスが目的っぽかったけど、私でもいいみたいなことも言ってたし)
しかも、カルミアについてはこれで用済みと片付けようとしたのだ。
そんな物騒なろくでなしなど、危険極まりない。
とはいえ自分の心情としては安全な場所に避難一択だとしても、この馬鹿みたいに強力な魔法陣から解放されるのは、簡単ではないだろう。
時間をかければ可能かもしれないが、今はそんな余裕はない。
(あー、もー!)
仕方がない、これ以外に手が見つからないのだ。
嫌だ嫌だと思いつつも、ノエルは己の頭上へと声を掛けた。
「スノウ」
「キュウッ?」
ノエルの頭に乗ったままゆらゆらと気儘に揺れていたスノウが、相変わらず緊張感のない声でそう鳴いた。
……できれば、もうちょっと危機意識というものを持ってくれないだろうか。
いや、恐慌状態に陥ってこの場で暴れられても、それはそれで困るのだけれども。
ノエルは両手を伸ばし、スノウの小さな体躯を持ち上げて自分の目の高さにまで下ろした。
スノウはおとなしくされるがままだ。この丸っこい体型でそうされていると、それこそぬいぐるみのようである。
ノエルはまん丸な藍色の目を覗き込みながら言った。
「スノウ。私はここから出たいんだけど、この邪魔なの壊せる?」
この魔法陣は中に入って来ることは問題ないが、外へ出るとなるとかなり難解な術がかけられている。
しかも、ご丁寧にも内部からでは魔力を使えないという仕様だ。
だが、それはあくまで人間相手の制限である。
「できそう?」
重ねて尋ねると、スノウはキュウッと一声発した。
次いで、ふわりと体を浮かせてノエルの手から離れる。
(……本当に、どうしてこの子って飛べるのよ?)
見る度に、どう考えても物理法則を無視しているだろう、というようなちんまりとした双翼をはたたかせ、スノウはノエルの周囲をゆっくりと飛び回る。
一体何をしているのかとノエルは考えたが、その行動の意味するところにすぐに気づいた。
スノウがふわふわと空中を漂うごとに、明らかに魔法陣の光が弱まって行くのだ。
それは力尽くで断つのでも、破壊するのでもなく。
(あー、そういうことね)
納得したところで、ノエルは足を一歩前へと踏み出した。
ここまでくれば、抵抗も何もないようなものである。
魔法陣の境を踏んだその瞬間、ノエルの力を封じていた目に見えない鎖がぶつりと切れたのが分かった。
ありがたいことに、魔法陣が破られたときの反動はほとんどないも同然だった。
まあ、その力の大半をスノウに吸収されていたのだから、当然ともいえるのだが。
ノエルは日頃の悩みの種であるスノウの底なしの大食漢ぶりに珍しくも感謝しつつ、まずはとカルミアを見た。
途中から変に静かになっていたので、気になっていたのだ。
しかし注意深い足取りでノエルが近くに寄っても、彼は何の反応も返さなかった。
どこか虚ろな眼差しで、ぼんやりとしている。
(……これは、『聖女』様にみてもらった方がよさそうね)
それでも念のためにと、ノエルはカルミアの周囲に守護の結界を張った。
それから改めて、対峙している男たちへと目を向ける。
キンカンバチバチとかなりやかましい音がしているとは思っていたが、案の定だった。
「…………………………………………………………………」
視界に飛び込んで来た妙に見晴らしの良い風景に、ノエルは言葉を失う。
自分が目を離していたのは、ほんのわずかな時間の筈だ。
しかし、その短い合間にこれとは。
夜の風の中に、焼けたような苦い匂いが漂っている。
あちこちで人一人の体の幅よりもはるかに太い幹を持つ木々が何本も倒れ、草の繁っていた地面は焦げた跡があった。
そしてそれをやったであろう当人たちはというと、剣と魔術を用い、未だに戦闘を繰り広げている。
これは、どうしたものか。
援護が可能ならここはするべき場面だろうが、ノエルには戦闘の経験などほぼないようなものだ。
そんな自分が下手に手出しをしては、逆にリオンの足を引っ張る可能性もおおいにあった。
(ど、どうしよう。どうするべき!?)
考えあぐねておろおろと二人を見ていると、今度は肩の上にと戻って来たスノウが小さく鳴いた。
「キュッ?」
それは、どうしたの、とでも言っているような響きだった。
耳元の鳴き声に、ノエルがそちらへと意識を向けた、その直後。
「――ノエル!」
そう呼ぶ声が、空気を大きく震わせた。
「ノエル、無事か!?」
息急き切って駆け寄って来たテオは、取る物も取り敢えずといった様子だった。
魔物を相手にするために飛び出して行ったとのことなので着替える時間もなかったのだろうが、祝宴のためにと整えたせっかくの衣装が台無しである。
その格好と、彼が単独で来たことにノエルは微妙に悩んだ。
何だって一人で来たんだとか、どうしてここが分かったんだ、とかまあ色々と言いたいことは浮かぶのだが。
しかしこの場で自分がまず言うべきことは、一つだろう。
ノエルは戦闘を続けている二人を指で示した。
「テオ。リオンさんを手伝って、あの人を捕まえて欲しいんだけど」
説明を省いた簡潔な依頼にも関わらず、テオはあっさりと頷いた。
「分かった」
腰に佩いていた鞘から聖剣を引き抜き、リオンの援護へと飛び込む。
そのまま即座に連携を取った彼らの動きは、流れるように無駄のないものだった。
これならすぐに片が付きそうだと、ノエルがそう思った、そのときだった。
「――――――キュウウウウウッ!!」
明らかにいつもとは異なるスノウの鋭い声が鳴り響くのと同時に、リオンとテオが弾かれたようにその場を飛び退いたのだ。
そしてその直後に、嵐がうねるのに似た重々しい音が鳴り響いた。
――――ごおおおおおおっ!
その音とともに爆発的な勢いで地表へと吹き出したのは、まるで地獄の業火を思わせるような、黒々とした炎だった。
本来であれば最も高温の火というのは白い色をしていた気がするのだが、しかしこの禍々しい黒炎にそんな理屈は通用しなさそうだ。
やばい、と直感したのは、おそらくノエルだけではなかっただろう。
突如として出現した人の背を遥かに超える高さの火の柱に、赤い髪の青年と銀の髪の青年が慎重に距離を取る。
ほんのわずかに広がった隔たりと、注意を向ける先の分散。
そのために仕向けられたのだと、気づいたときには遅かった。
すでに意識の外に追いやっていた、存在すら置き去りにしていた魔法陣が、再び光を放ち始める。
まだ記憶に生々しい先刻の一件を思い返し、ノエルは即座に走り出した。
無論、肩口のスノウを腕の中に抱き込むのも忘れない。
そしてノエルがある程度離れたところで、それとは真逆に一人分の影が魔法陣の上へと駆け込んだ。
エンリのその行動に、彼と対峙していた二人がわずかに逡巡する。
制止すべきかどうか、迷ったのだろう。
だがそれは、相手には十分な時間だった。
ノエルの腕の中のスノウが、キュウッと鳴く。
声にひかれて視線を落とすと、スノウは何故かじっと炎の壁の向こうを見ているようだった。
「……え?」
自然とその目の先を追いかけたノエルは、揺らめく火の波に覗く人影に気が付く。
魔法陣の中に、影が二つ立っていた。
(――もう一人!?)
カルミアを囲む結界は問題なく維持されている。だから、彼ではない。
それなら、あそこにいるのは?
しかしノエルがそれを口に出す前に、いつの間にか現れていたもう一人はすでに動いていた。
――……ヴゥン!
無数の虫の羽音を連想させる、幾重にも重なる音が空気を震わせる。
「てめ、待て!」
「エンリ!? おまえ……!」
テオの叫びに、リオンの驚愕の声が被さる。
けれども呼び掛けられている方はそんな言葉には見向きもせず、魔法陣を起動させた。
しまった、と思ったが、ここまで来たらもう手遅れだ。
完全に発動してしまった魔術の流れを断ち切るのには、恐ろしいほどの力が必要とされる。
そうであるからには、結果はすでに定まっていた。
歯噛みする思いで見守るノエルたちの前で、溢れるような光を纏った魔法陣はその役目を果たし、それからまるで何事もなかったように消え去った。
一体、あれは何だったのだ。
あの場にいた二人の男と、その目的。それに、突然村へと現れた魔物。
分からないことだらけだ。だが、ひとまずとは窮地を脱した今、最優先すべきは村の状況の確認である。
ノエルは何ともすっきりしない気分を抱えつつも、テオとリオン、そして気絶したカルミアと共に村へと戻った。
付け加えると、カルミアはテオの肩に担ぎ上げられて運搬され、ノエルは頭の上にスノウを張り付けた状態での帰還だ。
ノエルとしてはスノウのことは抱きかかえるか、せめて肩の上に乗ってもらって移動をしたかったのだが、すっかりご機嫌斜めとなった子竜はこちらの言うことを全く聞いてくれなかったのだ。
ちなみにその原因は、テオにある。
スノウと初対面であるテオは、改めてその姿を目にするなりこう言ったのだ。
――何なんだ? この、まん丸いのは。
いや、ノエルとしても正直その気持ちは分からないでもないが、もうちょっと言い様があるだろう。
そして、それを聞いたスノウはキュウキュウと盛大に抗議をし、ふてくされたようにノエルの髪にしがみついてきたのだ。
夜の森の中を歩くのだから、拗ねるにしてももっと安全な場所を選んでくれないだろうか。
しかし、ノエルのそんな胸中など知らないと言わんばかりに、スノウは頑として頭上から下りなかったのである。
頭部と足下に気を払いながらの獣道同然の帰路を、それでも一度も転ぶことなく辿りつけたのは、本当に幸いだった。
といっても、うっかり足を滑らせそうになる度にリオンに腕や肩などを掴まえられることになった道中は、非常にノエルの心臓に悪かったのだが。
そうしてなんだかんだありつつも夜明けを迎える前に到着した村は、道中テオから聞いたとおりに最小限の被害で収まっていたようで、ある程度落ち着いているように見えた。
ノエルが突然姿を消したことに関してはごく一部の者だけに伝えられていたそうで、幸いにも村長の家を訪れて説明するだけで済んだ。
更にはその場に同席していたリオンの、今は休ませるべきだとの助言も手伝い、その後すぐに帰宅が叶ったのは本当に助かったと言えるだろう。
それからようやく帰れた自宅で、ノエルは気絶するように眠り込んだのだ。スノウ付きで。
◇◇◇◇◇
そして、そんな肉体的にも精神的にもとてつもなく疲れることになった結婚式の日から一週間後のことである。
(……何で、この人がここにいるのよ)
もう、一体何度目になるかもしれない疑問を今回も胸の中に思い浮かべ、ノエルはそろりと視線を動かした。
明るい午前の日差しが降り注ぐ中、ノエルの視界に映るのは緩やかに流れる小川と、その周囲に茂る瑞々しい緑の草だ。
ここは村の近くを流れる川の上流にあり、登って来るにはちょっと傾斜が急なため、普段はあまり人の来ない穴場なのだ。
ゆえに当然ながら、人の気配はとても少ない。
というか、この場にいるのはノエルともう一人だけだ。
文字通り、二人きりである。
顔が引き攣りそうになるのを堪えつつ、ノエルがひそかに退路を探していると低めの男の声がした。
「そんなに身構えられると困るな」
その言葉通りに少しだけ悩んだような顔で、男は――リオンは続けた。
「本当に、話をしたくて来たんだが、時間をもらえないだろうか」
真正面から見据えられ、ノエルは思わず身を引いた。
その表情も声音にも、敵意は一切感じられない。
それは分かるが、生まれて十八年間、心身に染みついている恐怖心はそうそう拭えるようなものでもないのだ。
ノエルの意思とは無関係に、呼吸が浅くなり心拍数は上昇していく。そうして体がそんな反応をしていては、必然的に思考も低下しようというものである。
勿論、リオンには何の責もない。しかしノエルのこれはもう生存本能のようなものなので、自分としても如何ともし難い。
新緑を揺らす風の音と穏やかなせせらぎが響く川辺で、ノエルは断崖絶壁に立たされたような心境だった。
(ど、どうしよう……)
形振りかまわずこの場から逃げ出したいが、この相手はそんな真似を許してはくれないだろう。
それでも往生際悪くノエルが目を彷徨わせていると、背の高い草の下からころころと転がって来る白い物体が見えた。
ひょこりと現れたその姿に、ノエルはそれまで感じていた息苦しさを思わず忘れる。
転がりながら、ノエルの足元まで寄って来たスノウがキュウッと鳴いた。
「……………………………………………………………」
一体、いつの間にここに来ていたのだ。草の合間に紛れていたようだが、体高が低すぎていたことに気づかなかった。
それに、いくらなんでもその移動手段は怠惰すぎやしないだろうか。
近距離では歩くよりも飛ぶよりもそれが早いのかもしれないが、曲がり形にも竜がこれでいいのか? 本当に。
非常に微妙な気持ちでノエルは身を屈め、千切れた草の葉や小さな花びら、草の種諸々を全身にまぶしたスノウを抱き上げた。
白い体躯に緑の草やピンクや黄色の花びら、そして茶色の種などがとても目立っている。
これは、家に帰ったら風呂で丸洗いするしかないだろう。
がっくりと肩を落としながら、ノエルはリオンへと体を向けた。
あまりにも仕様も無い子竜の姿を目にしたからか、がちがちに強張っていた身体から少し力が少し抜けたようだ。
とりあえず、多少の会話をするくらいならできそうだった。
「お話とは、何なのでしょうか」
疲労感を漂わせるノエルとその腕の中で寛いでいるスノウを交互に見たリオンは、何とも言い難い様子で口を開いた。
「ああ、その竜についてだ」
ノエルは一度目を閉じた。
心の中で深い息を吐き、瞼を上げる。
「大神殿のお考えはどうなのですか」
この一週間で、何らかの審議がされたことは間違いないだろう。
じっと見るノエルに、リオンは静かに言った。
「貴方の保護下にあるうちは静観するということになった。ただ、そうでなくなった場合は神殿でその竜を預かることになるが」
ノエルの黒い双眸が、大きく見開かれる。
「それは、寛大すぎる話ではありませんか」
うまい話には裏がある、という。
少なくとも神殿がそんなに甘いとは思いがたい。
警戒心を強めるノエルに、リオンは落ち着いた口調で答えた。
「疑うのも無理はないが、余計な手出しをする方がむしろ危険だという意見が通った。《石》の状態であれば神殿内で管理下に置くのが最善だっただろうが、その竜はすでに生物として存在しているからな。安易に所有できるものではないし、扱いを間違えれば、あの《邪竜》の二の舞になりかねない」
出された《邪竜》という言葉に、ノエルの顔も苦くなった。
テオの聖剣によって倒された、魔物と呼ばれた竜。
あれもまた、《聖魔の石》によって生み出されたものだった。
だが、その裏にあった悲劇を、ノエルは知っている。
痛ましい過去にノエルが思いを馳せていると、リオンは言った。
「俺がこの村に来たのは、まああの二人の結婚式に呼ばれたからという理由もあるんだが、他にも目的があってのことでな」
思いがけない話の転換に、ノエルは瞬いた。
「公式にはどこにも残っていないんだが、大神殿の記録にだけは書き記されていることがあってな。各地に封じられた遺物に関するものもその一つで、その記載の中にこの村の名があった」
「……一体、どんな記載があったんですか」
ひやりとするものを覚えながらも、ノエルはその先を促した。
(聞かなくても、なんとなく分かるけど)
そもそも、こんな国の端っこにある辺境の地で、聖剣に選ばれる勇者が現れること自体がおかしいのだ。
何かあるのかと、普通なら思う筈である。
「王都から遠く離れた国境近くの土地に《聖女》であった女性が移り住み、村を作ったというものだ。そして彼女はその村にソルと名をつけたのだと」
そこでリオンはふっと息をついた。
「その女性の名はセライア。名高い勇者の一人として知られているセヴァルの姉だったそうだ」
それは、この村では結構よくある名前だ。ちなみに、今は亡きノエルの祖母もその名だった。
「そして、彼の《聖女》がその地に留まることを選んだのには理由があった。――それが、その竜の……。いや、その前身の《石》だ。《聖女》は生涯《石》の力を封じ続けたが、それでもその死後いつまでも維持できるようなものではない。ゆえに、いつかその封印はとける。だから、いずれその日が来たら神殿は動かなければならないと……、そう備えていたんだが」
リオンの紫の目が、物言いたげにノエルの腕の中を見る。
しかしその視線を向けられている当の存在はと言うと、くわぁ、と口を開き呑気に欠伸をしていた。
おまけに眠くなって来たのか、そのまま目を閉じてもぞもぞと丸くなる。
(こら、こんな状況で昼寝なんかするんじゃない)
あんたの処遇にも関わる話なんだぞ、と胸中でぼやきながらノエルはスノウを抱き直す。
確かに、とてつもない厄災を引き起こしかねない《石》が、いつの間にかこんな姿になっているとはさすがに神殿側も思わなかっただろう。
まあ、ノエルとしても、この事態は完全に想定外だったのだが。
「だが、神殿の一部に、遺物である《石》を使おうなどと考える奴らがいてな。そいつらが馬鹿げた行動に出る前に手を打つ必要があるということで、俺はここに来た」
つまり、神殿の意向で派遣されたということか。
「アイリス様の件は――」
「あいつの魔力が欲しかったんだろう。遺物は大量の魔力を必要とするからな。しかもアイリスは魔力量は多くても、純粋な戦闘力はそこまで高くない。利用するにはうってつけだ」
説明するリオンの声音は淡々としていたが、そこには紛れもない苛立ちが滲んでいた。
「では、あのエンリという方も?」
ノエルが己を拐かそうとした男の名を口にすると、リオンはちょっと言葉を探すような表情になった。
「元々は神殿に属していたが、禁忌とされる魔術に手を出したことで破門されている。もっと言うと、本来は拘束される筈だったのが、逃げられたんだ。まさかこの地に現れるとは、こちらも予想外だった」
迂闊だった、と零すリオンの様子に嘘は感じられなかった、
「しかも、カルミアの馬鹿まで唆すとはな」
苦々しく続けられた話に、ノエルははっとした。
その件については、ノエルも気になっていたのだ。
「あの方は、大丈夫だったんですか。アイリス様の治療で正気を取り戻したそうですけど、ここ最近の記憶がなくなっていたと聞きましたが」
ノエルがカルミアの言動に覚えた違和感は正しかったようで、どうやら彼は魔術によって暗示にかけられていたようだった。
ただ、完全に本人の意思に反するような暗示を掛けるのは非常に強い力を必要とするから、カルミアがアイリスやテオに色々と思うところがあったことは間違いないだろうが。
それでも、こんな風に仕向けられなければ彼が動くことはなかっただろうと思えば、やはり多少の同情の念はわく。
「アイリスは治癒に長けているが、催眠や精神に働きかける魔術については専門外だ。だから念のため、神殿にいる専門家に診てもらえるよう伝えておいたんだが、幸い問題は何もなかったらしい。とはいえ、本人は何も覚えていないそうだが」
リオンは安心したような、そしてそのことに本人としては不満を抱いているような、実に微妙な顔だった。
まあ、これまでのカルミアとの関係を思えば、素直に喜ぶのには抵抗があるのかもしれない。
(そういえば色々あった筈だしね)
だが、それはそれでいいにしても。
「では、あの方にお話をうかがうことはできないということですね」
この件についてはノエルも想定していたことではあったが、腹の立つ遣り口だ。
しかも――。
「……あのとき、もう一人いましたよね」
リオンとテオがエンリを詰める直前、二人を妨害しそして見事に逃げ果せたあの黒い影。
全身をフードで覆っていたから、外見上で分かることはあまりない。
エオンと大差ない背丈と体つきから、おそらくは男性だろうということ。そして、あれほどまでに強力な魔術を使えるということくらいか。
何しろ、聖剣を持つテオと、リオンの隙を突いてみせたのだ。どんな実力だ。
(敵にするにはすっごく厄介な相手だってことは確実だけど)
ノエルは内心で呻いた。
本音を言えば、この問題を直視したくはない。だが、目を逸らしたところで何も解決しないのも事実なのだ。
「あのお二人が、これで引き下がると思われますか」
直接聞いたわけではないから、彼らが何を望んでいるのか、何をしようとしているのかは今のところ不明だ。
けれど、《聖女》のような大物を狙い、そして実行に移すような輩だということははっきりしている。
今回の件は偶然にも自分が罠にかかり、更にはリオンとテオの到着が間に合ったから事無きを得たが――それでも実行犯の二人には逃げられたのだ。
おまけにあのときのエンリは、連れて行くのは自分でもアイリスでもどちらでも構わないと言っていたのである。
そんな彼らが、本当にこのまま手を引くのだろうか?
どちらかと言えば願望を込めて聞いたノエルに、リオンは静かに首を横に振った。
「正直、その可能性はかなり低いな」
そこで彼は一度息を吐き、続けた。
「あいつは、本当に諦めが悪いんだ」
それは、ノエルにしてもこれっぽっちも嬉しくない断言だった。
(一難去ってまた一難……)
何故だ。何故、よりにもよって闇落ちのフラグを解決したと確信した二人の結婚式の当日に、そんな面倒事が新たに押し掛けて来るのか。
(モブの負けヒロインにそんな波乱万丈の展開なんていらないから! っていうか、さっさと退場させて!)
本来、物語のエピローグとは平和に平凡に終わるのが正しい在り方である。
恐怖心もどこかに置き去り、誰にともなくノエルが心の中で訴えていると、再びリオンが口を開いた。
「だから俺が、君の護衛を務めることになった」
その瞬間、ノエルの動きがぴたりと停止した。頭の中が白一色に染まる。
(――――――――――――――――え?)
何だろう。何か今、意味不明な言葉が聞こえた気がするが。
これはきっと空耳だろう、そうであれ。
だが、現実逃避のように己に言い聞かせるノエルの切なる希望を無視し、リオンは容赦なく続ける。
「大神殿の判断はその竜のこともあってのことだ。テオと聖剣があってようやく倒すことが叶ったあの《邪竜》も、かつて《石》から生み出された。けど、あの竜があんな風になったのは、欲に駆られ過ちを犯した者たちのせいだ。その力を手に入れようと、《石》から竜を孵した人間を追い詰めた挙句に殺めた。あんな愚行を二度と起こさせるわけにはいかない。けれどもおそらくその竜を君の側から引き離すことは不可能だろうし、それに、下手に手出しをして刺激したら、何が起きるか分からないからな」
「…………………………………………………………」
リオンの言いたいことは理解できる。できるが――、だとしても、だ。
(後半部分の話は分かるよ!? 分かりたくないけど! でも、何でそこで、貴方が護衛にってことになるわけよ!?)
そう思ったところで、ノエルははたと気づいた疑問を口にした。
「で、でも。その、本来貴方がお護りすべきなのは《聖女》様でしょう?」
物語のかなり早い時期にテオがアイリスと出会った時点で、リオンはひそかに彼女の護衛という任に着いていた筈だ。
ついでにつけ加えると、ゲームでのリオンは決して態度に出さなかったが、実はアイリスにほのかな恋心を抱いていたという設定があった。
でも、彼が抱えている裏の事情やテオとアイリスが互いに惹かれ合っているということ、大事な友情など諸々の理由からリオンはその感情を押し隠すという選択をしたのである。
だったら、彼が護る相手はアイリスだけにしてくれてよいのだ。
自分としても、その方がありがたい。
しかし本気でそう思っているノエルの前で、リオンはあっさりと言った。
「いや。確かに、《聖女》であるアイリスは神殿として護るべき存在だ。でももう、本当の意味で彼女を守るべき者は、俺じゃなくてテオだろう。何しろあいつはアイリスの伴侶なんだから」
そこでリオンはふっと笑った。
「さすがに、新婚の夫婦に張り付くのは無粋だろう?」
ノエルの口元が引き攣る。
そりゃあ、結婚してまだ一週間しか経っていない二人には、お邪魔虫もいいところだろう。
だが、それはこちらにとっても似たようなものだ。
(本当に本気で、貴方の護衛なんていらないんですけども!?)
そんな本音を喉元に押し止め、ノエルはどうにかこの状況を打破できないものかと頭を捻る。
「あの二人でしたら、貴方が傍にいることをむしろ喜ぶと思いますけど」
苦し紛れのノエルの主張に、リオンは少し呆れた顔になった。
「まあ、それはそうだけどな。けど、あれだけくっついているなら、アイリスは大丈夫だろう。むしろ、狙われやすいのは君の方だ」
リオンの明言に、ノエルの肩がびくりと跳ね上がる。
魔物であれば、余程の上級が相手でもノエルは怖いとは思わない。けれど、それが人となれば話は別だ。
先日のように自衛くらいなら問題ないけれども、それでもいざというときに人間を攻撃することができるのかと問われれば――……。
言葉に詰まるノエルに、リオンははっきりと言った。
「自覚がないようだが、君の立場は非常に危険だ。本当だったら安全な場所に移ってもらいたいが、エンリの件もあるからな。あいつは神殿内について相当深いところまで知っているから、大神殿でも安心できるかというと難しい。だったらまだ、この村にいる方がいい。それに、ここにはテオもアイリスもいるしな」
当人を置き去りに、さくさくと話を進めないでほしい。
けれどもそんな内心を暴露するわけにもいかずにノエルが言葉を探していると、腕に抱えていた重みが身じろぐ気配がした。
視線を落とすと、スノウが藍色の瞳を瞬かせながらリオンをじいっと見つめている。
起きたスノウに気づいたリオンも、同じように小さな竜を見返していた。
(……ん? え、あれ?)
ノエルはそこでふと気づいた。
そういえば、あのときスノウが飛び込んで来たのとほぼ時を同じくして、リオンはあの場へと現れた。
スノウに待っていてもらうようにと頼んだ場所と、魔法陣が出現した村の中心部はそれなりに距離があるし、しかも自分が引きずり出された魔法陣は森の中とその三点は見事にばらばらだ。
本当に今更の疑問だが、リオンはどうやってノエルのいる地点が分かったというのだろう?
スノウはいい。ノエルの魔力によって孵ったこの子は、離れていても自分がどこにいるかを感じ取れる。
あと、テオもいい。彼の事だ、詳しい理屈など何もなく、野生の勘でノエルを探し当てたのだろう。そこら辺について深く考えても無意味だ。
けれど、この男は違う。
(……何で?)
こくり、とノエルの喉が鳴った。
いいや、あのときだけではない。祝宴を抜け出したときも、そして今も、リオンはまるで自分がここにいること知っていたかのように、姿を見せた。
知りたくない、けれど知らないのも怖かった。
スノウを抱える腕に力を込め、ノエルは無意識に一歩後退った。
緊張に身を固くしたノエルを、リオンが怪訝そうに見る。
その深い紫の目を真っ直ぐに見つめ、ノエルは唇を開いた。
「……あのとき、貴方はどうして、私があそこにいると分かったんですか」
低く硬い声に、リオンははっきりと苦笑した。
「不審者扱いは困るな。一応ちゃんとした理由があってのことだ」
それでも無言でノエルが様子を窺っていると、リオンは手を持ち上げ、胸元から何かを取り出した。
青色をした、細く長いもの。
随分と色褪せて見えるそれは、紐だろうか。
「たいしたことじゃない。これに残った魔力を手掛かりに、君の居場所を探し当てただけだ」
その言葉を聞いた途端、ノエルの脳裏にいつかの記憶がよぎった。
そう言えば、随分と昔にこんな色の組紐を作ったことがある。
そして自分はそれを――……。
(――あ、思い出した)
今の今まで忘却していたが、あの青の組紐は村を発つ時にノエルがテオに持たせたものだ。
ただテオは、その裏にあった意図については知らないだろう。
何せノエルは、それを単なる結び紐として渡したのだから。
(だってねー、お手製の組紐って何か執着してるみたいだったんだもの。厄除けとか浄化とか色々な効果はこっそり付けてたけど、でも、私としてはあくまで安全を祈るお守りとしての意味しかなかったし)
それに、下手にそんな物を手渡せば、それこそ負けヒロインの行動っぽい。
あくまでノエルとしては特別な意味などなく、テオやその同行者達の無事も願っての行為だったのだ。
だから、薬や魔具などを入れる皮袋の口に組紐を結わえ、それごと餞別としたのである。
(どうせ道中で失くすだろうと思ってたから、完全に忘れてたわ)
なのに何故、そんな物がリオンの手にあるというのだろう。
内心の疑問が顔に出ていたのか、リオンは組紐を置いた手のひらを静かにノエルの前に差し出した。
こうして近くで見ても、間違いない。確かにこれは自分が作った物だ。
「これのおかげで、何度も命拾いをした。――本当に、助かった」
深い声にそう言われ、ノエルは思わずリオンの顔を見上げた。
整った繊細な面差しは、ともすれば冷たくすら感じるほどに整っている。
だが今、そこに浮かぶ表情はあたたかだった。
「何だかんだあって言うのが遅れたが。ありがとう、おかげで助かった」
真摯な声音に、ノエルは正直戸惑った。
悪意や害意であればどうとでも対処できる。だが、こうして純粋な感謝を向けられるとは思いもしなかったのだ。
しかも、誰にも気づかれないだろうと想定していただけに尚更である。
(おまけに言っているのがこの人だなんて、何て返せばいいのよ)
ノエルが情けなく眉を下げていると、ふっと吹き出す音がした。
「でも、良かったのか? これがどれほど凄い物だったのか、テオは全く気づいていないぞ」
気遣うような響きに、少々驚きつつもノエルは首を振る。
「何かの役に立てばいいと――、渡した理由はそれだけでしたから」
本当に、それだけだった。
テオもアイリスも、そして目の前に立つこの男も、無事に生還できるように――。
そう、自分が願っていたのは真実だ。
願いは叶った。だから、もういい。
あと自分が望むとすれば、日々の平穏だけである。
ノエルが心底からそう思っていると、リオンはごく自然に言った。
「じゃあ、これはテオに返さなくてもいいんだな」
「ええ。もう必要ないでしょうし」
すでにその役目は終えたのだから、何も問題はない。
ノエルは当然と頷き、スノウを片腕に抱えたまま、もう一方の手を持ち上げた。
後は、自分がそれを受け取るだけだ。
何の疑問もなく、ノエルはそう思っていた。
と、いうのに。
「……え?」
リオンは手の上にある組紐をゆっくりと握り込み、その手を静かに引き戻した。
(はい?)
思いがけないその行動に、ノエルの目が丸くなる。
「え? あの?」
「もう必要ないんだろう?」
リオンの口調はあまりにもさらりとしていた。
そのさり気なさは、ともすれば流されそうになるくらいだったが――、いやいや待て。
(何かしれっと言われたけど、つまり、この人は組紐に残った魔力を手掛かりにして私の居場所を突き止めていたのよね? いや、そのおかげで私が魔法陣で飛ばされた先が分かったんだろうけど。あと、最初に会ったとき、森の中なのに私がこの人の接近に気づかなかったのもそうよね?)
誘拐もどきの件に関しては助かったのは事実だが、しかし。
遠ざけられたリオンの長い指に絡む青の組紐に視線を向けていたノエルは、とてつもなく嫌な予感を覚えた。
もしかしたら自分は、とんでもない失言をしたのではないだろうか。
そうして言葉を出せないでいるノエルを、リオンの紫の目が意味深に見つめている。
ノエルの頭の中で、警告音が鳴り響く。
それはしきりに、危ない、逃げろ、と訴えている。
こんなときのノエルの危機感の精度はかなり確かだ。――でも、いくら感知できたとしても、この危機はどうやって回避しろというのか。
(取り返す? こいつ相手に? そんなの無理に決まってるし!)
いつの間にかカラカラに乾いていた口から、ノエルは声を押し出した。
「その組紐を、渡してもらいたいのですが」
よく分からないが、とにかくこの男がこれを持っているのは非常によろしくない。
しかしノエルの要求を、リオンはきっぱりと断った。
「それはできない。君が姿を消したあのとき、俺がその行方を追えたのはこれがあったからだ。次がないとは限らないし、そのときこれがあるのとないとでは、取れる対応が大きく異なって来る。勿論、そんなことが起こらないに越したことはないが」
万が一の時を思えば備えは必要だと、譲らないリオンにノエルは倒れたくなった。
「いや、だから護衛なんていいですからっ! 私のことなんて気にしないでください!」
冗談ではない。
いくら護衛という名目とはいえ、日々この男に張り付かれるなどとても自分の神経が保たない!
だが心からそう主張するノエルに、リオンは一切動じることなく言い切ったのだ。
「関係ない」
「はあっ!?」
いっそ晴れやかとすら言える笑みを浮かべた男は、面白がるようにノエルを見つめて続ける。
「君の意思は関係ない。これは俺の意思だ。俺が護る、俺がそう決めた」
揺らがない声と言葉に、ノエルは顔を引き攣らせた。
何故だ。何がどうしてこんなことになっているのだ!
クライマックスも迎え、物語はめでたしめでたしで幕を閉じたのではなかったか。
闇落ち死亡エンドからは逃れられた筈なのに、こんなのは詐欺ではないか。
しかしこの場合、退路は一体どこにあるのだ。
内心たらたらと冷や汗を流しながらも、ノエルは必死で逃げ道を探す。
けれども、混乱中の頭でろくな考えが出て来るわけもない。
――ゆえに、気づくのが遅れた。
さくり、と草を踏みしめる音をノエルが耳にした、その直後。
不意に暗くなった視界に視線を上げると、まさしくノエルのその目前にリオンが立っていた。
「えっ」
だが、とっさに身を引く前に、伸びて来たリオンの手がノエルの髪を一房掬い取る。
そうして青の組紐ごとノエルの黒髪を軽く握った彼は、あろうことかその手を持ち上げ、そこに唇を落としたのだ。
「――――――――――っ!」
ありえない光景に、ノエルは言葉を失う。
しかも、至近距離で目にした顔の秀麗さと軽く伏せられた睫毛の長さは、女であるノエルの方が嫉妬したくなるほどで。
声も出せないまま、ノエルがはくはくと唇を動かしていると、リオンの紫の目が笑った。
「誓う。君を護る。――必ず」
あたかも挑むように宣言した男は、何かを決めた顔をしていた。
おいこら、ちょっと待て。
(だから、何でこうなるわけよ――――――っ!?)
心中で絶叫するノエルの胸元で、腕に抱えられたスノウが小さくキュッと鳴く。
けれども呆れの滲むその響きは、幸か不幸かノエルの耳には届かなかった。
ざあっという音と共に、向き合って佇む二人に強い風が吹き付ける。
緑の若葉と草の上を吹き渡る青嵐は、平穏とはほど遠い日々の始まりを告げていた。




