本当の自分
田代が私の反対側から肩を支えた。
顔中に血が流れているのに、彼の目だけは不思議と冷静だった。
「凛さん……行くんです。彼女の選択を、無駄にしないで」
その瞬間、爆風が背後から吹き抜けた。
病院全体が一つの生き物のように震え、床が波打つ。
——ドォンッ。
私は真壁と田代に挟まれるようにして非常階段を転がり落ちた。
視界が何度も白く途切れた。
空気なのか粉塵なのかもわからない何かが肺に入り、息ができない。
ようやく外気に触れたとき、私は地面に倒れ込み、激しく咳き込んだ。
夜風が冷たかった。
だが背後では、病院がゆっくりと沈んでいくように崩れ続けていた。
佐伯さんが膝をつき、崩落する建物を呆然と見つめた。
「……葉月さん」
田代は顔を歪め、何かを言おうとして言葉にならない。
真壁だけが、震える拳を握りしめたまま、低くつぶやいた。
「まだ終わってない……データは残った。凛さんが持ってる」
私はハッとしてポケットを探った。USBメモリは無事だ。
だが——そのUSBを見つめた瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。
「……待って」
震える声が、自分のものとは思えなかった。
田代が私に視線を向けた。
「どうしました?」
「これ……何か、違う。これ、本当に……」
USBメモリが手のひらで熱を持ち始めた。鼓動のように、微かに振動している。ただの記憶媒体ではない。生きた何かだ。
真壁が目を細めた。
「念のため調べます」
彼は袖から取り出した小さな検知機をUSBにかざした。機械のランプが赤く点滅する。
「……これは……」
真壁の表情が硬くなる。
「通常のUSBじゃない....。データ保存形式が一般的な規格と異なります」
「どういうこと……?」
「つまり——これを今我々が内部を閲覧することは出来ないってことです。おそらく、我々の技術を超えた高度な暗号化がかかっています」
私は息を呑んだ。
「じゃあ、中のデータを読む方法は……」
「今のところ、私たちにはない。」
そのとき、私の携帯が震えた。画面には、番号ではなく、たった一つの名前が表示されていた。
『H』
私は息を飲んだ。
その文字を見ただけで、身体の奥が反応した。
懐かしく、でも恐ろしい。
震える指で通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
ノイズ混じりの向こうから、低い、聞き慣れた声が返ってきた。
『——凛。生きてるね。よかった』
それが誰の声なのか、私は気づいてしまった。
葉月でも、水島でも、田代でもない。
八年前、記憶を消される前に——私がもっとも信頼し、
そしてもっとも憎んだ、「誰か」の声。
『まだ終わらないよ。USBにあるのは“片側”だけだ』
真壁、田代、佐伯さんが同時にこちらを見る。
『もう一つのデータは、君自身の中にある。凛。八年前、君は——』
そこまで言った瞬間、通話がブツリと切れた。
私は携帯を握りしめたまま、呆然と夜空を見上げた。
粉塵が星の光を曇らせていた。
—私の中に、データ?
田代が静かに言った。
「凛さん。……何を聞いたんですか?」
私はゆっくりと振り返った。
「八年前……私は、『イーヴィル・ペイシェント』の実験に——」
言葉が喉で止まる。
思い出そうとした瞬間、頭の奥で激しい痛みが爆発した。
「っ……!」
地面に膝をつくと、崩壊しつつある病院の方から、
誰かの声が聞こえた気がした。
——“凛、走って。後は、私が”
幻聴か、それとも記憶の残滓か。
佐伯さんが支えてくれた。
「まずは安全な場所へ行こう。凛さん、まだ追手が来るかもしれない」
しかし、私は立ち上がりながら、ある考えに飲み込まれていった。
USBの中のデータ。
私の中のデータ。
Hと名乗る人物。
零号=葉月。
そして、消えた実験体たち。
——八年前の私が、何をしたのか。
その答えは、まだ目を背けるにはあまりにも大きかった。
私は拳を握った。
「行こう。全部……思い出すために」
そのとき、遠くでサイレンの音が鳴り響いた。
夜が、途方もない陰謀の底へと沈んでいく。
真壁が素早く周囲を見渡した。
「警察だ。だが、味方とは限らない」
「どういうことですか?」
私は尋ねた。
「『イーヴィル・ペイシェント』の影響力は、想像以上に深い。警察組織の中にも、組織のエージェントが潜んでいる可能性がある」
真壁は私たちを促した。
「病院の裏手に車を停めてある。急ぐぞ」
私たちは崩れ続ける病院から離れ、暗い駐車場へと走った。
真壁の車は黒いセダンだった。四人が乗り込むと、真壁は素早くエンジンをかけた。
車が動き出す。バックミラーに、炎上する病院が映った。
その中に、葉月がいるかもしれない。
いや——まだ生きているはずだ。私はそう信じたかった。
「凛さん」
田代が後部座席から声をかけた。
「さっきの電話……誰からだったんですか?」
私は携帯を見つめた。
「わかりません。でも……知っている気がする。『H』という名前に、記憶が反応している」
佐伯さんが横から覗き込む。
「暗号化されたメッセージでしょうか?」
「そうかもしれません」
私は頷いた。
車は夜の街を疾走した。ネオンが窓の外を流れていく。
「どこへ向かうんですか?」
私は尋ねた。
「公安の安全な施設」
真壁は答えた。
「そこでUSBの中身を解析する。そして、あなたの記憶を——」
「待ってください」
私は遮った。
「電話の相手は言いました。『もう一つのデータは、私の中にある』と」
車内が静まり返った。
田代が困惑した表情で言った。
「中にある……とは?」
「わかりません。でも、八年前の記憶と関係がある。私が何かを知っていて、それが消されている」
佐伯さんが震える声で言った。
「もしかして……記憶消去じゃなくて、記憶の封印……?」
真壁がブレーキを踏んだ。
車は信号で停止した。真壁は振り返り、私を見た。
「凛さん。あなたの体に、何か埋め込まれているものはありませんか? 傷跡、マイクロチップ、インプラント——」
私は首を振った。
「何も……」
だが、その瞬間、頭の奥でまた激痛が走った。
「っ……!」
記憶の断片が、稲妻のように脳裏を駆け抜けた。
——白い手術室。
——手首に注射針。
——「これで、すべてを忘れられます」という声。
——そして、葉月の泣き顔。
「思い出した……」
私は呟いた。
「手首……」
私は震える手で、左手首のブレスレットを外した。
普段からつけている、シンプルな銀色のブレスレット。いつから身につけていたのか、思い出せなかった。
それを外すと、手首に小さな傷跡があった。
まるで、何かを埋め込んだような——
「これは……」
真壁が素早く手首を確認した。その目が鋭くなる。
「マイクロチップだ。皮下に埋め込まれている」
佐伯さんが息を飲んだ。
「それが……データ?」
「おそらく」
真壁は言った。
「生体認証と連動した記憶装置。あなたの脳波、心拍数、特定の感情状態——それらが揃わなければ、データは取り出せない」
田代が前のめりになった。
「つまり、凛さんが八年前の記憶を取り戻さない限り、データは読み取れないということですか?」
「その通りだ」
私は手首を見つめた。
八年間、私はこれを身につけていた。知らずに、秘密を体の中に隠して。
「どうやって取り出すんですか?」
真壁は深刻な表情で答えた。
「専門の施設が必要だ。そして——」
彼は言葉を選んだ。
「記憶を無理に取り戻そうとすれば、あなたの精神に深刻なダメージを与える可能性がある。『イーヴィル・ペイシェント』の記憶消去技術は、単なる催眠術ではない。脳の神経回路そのものを書き換えている」
私の心臓が跳ねた。
「でも……やらなければ、真実はわからない」
その瞬間、私の携帯が再び震えた。
また『H』からだった。
今度は、テキストメッセージ。
『聖マリア病院の崩落は序章。次は、公安の施設が標的だ。真壁を信じるな。彼もまた、"卒業生"の一人だから』
私は凍りついた。
真壁を見ると、彼は前を向いたまま、何も言わなかった。
「真壁さん……」
私は震える声で尋ねた。
「あなたも……『イーヴィル・ペイシェント』の……?」
信号が青になった。
真壁は車を発進させた。
沈黙が続いた。
やがて、彼は静かに答えた。
「……その通りだ」
車内の空気が凍りついた。
「十二年前、私は警察官だった。だが、ある事件で部下を失い、精神を病んだ。そのとき、『イーヴィル・ペイシェント』に誘われた」
真壁の声には、深い疲労が滲んでいた。
「私は記憶を消去され、新しい人生を与えられた。公安の潜入捜査官として」
「じゃあ……あなたの目的は?」
私は尋ねた。
真壁はバックミラー越しに私を見た。
「組織を内部から崩壊させること。そして——」
彼は一瞬、躊躇した。
「十二年前、私が失った部下の名前は……葉月だった」
私の呼吸が止まった。
「葉月……姉さんが、あなたの……?」
「そうだ。彼女は元警察官だった。私の部下で、優秀な刑事だった。だが、ある事件で負傷し、PTSDを発症した。そして——」
真壁は拳を握りしめた。
「私が、彼女を『イーヴィル・ペイシェント』に紹介してしまったんだ」
車が急カーブを曲がった。ビルの谷間を抜け、高速道路へと向かう。
「葉月は記憶を消去された。だが、彼女は自分の意思で、組織に戻ってきた。あなたを救うために」
私は拳を握りしめた。
姉は、警察官だった。
私を守るために、自分の記憶を犠牲にした。
そして今、再び私を守るために——
涙が溢れそうになった。
「真壁さん」
田代が言った。
「つまり、あなたは組織の一員でありながら、組織を裏切っている?」
「裏切っているというより、贖罪だ」
真壁は答えた。信号が赤になり、車は停止した。
「十二年前の過ちを償うために、私はここにいる」
佐伯さんが小さく言った。
「でも……『H』は、あなたを信じるなと……」
その瞬間、前方に黒いバンが現れた。
車線を塞ぐように停車している。
真壁は急ブレーキをかけた。タイヤが悲鳴を上げる。
バンのドアが開き、黒服の男たちが降りてきた。
「罠か!」
真壁が叫んだ。
だが、後方にも別の車が迫ってきていた。
完全に挟まれた。その瞬間、私の携帯に再度の通知が来た。相手は……Hだ。
『右の路地。今すぐ。私が迎えに行く』
私は叫んだ。
「右! 右の路地に!」
真壁は一瞬迷ったが、ハンドルを切った。
車は急激に右折し、狭い路地へと突入した。
背後で銃声が響いた。
フロントガラスにヒビが入る。
「くそっ……!」
路地の先に、別の車が待っていた。
白いSUV。
その運転席から、人影が降りてきた。
街灯の光に照らされて、その顔が見えた。
私は声を失った。
それは——葉月だった。
生きていた。
傷だらけで、服は焼け焦げているが、確かに生きていた。
そして、その隣に立っていたのは——背の高い男性。
三十代後半、鋭い目をした、どこか軍人のような佇まい。
彼が、『H』なのか。
真壁の車が停止した。
葉月が走り寄ってきた。
「凛! 無事だったのね!」
私は車から飛び降り、姉に抱きついた。
「姉さん……生きて……!」
「ごめん、心配かけた」
葉月は笑った。
「でも、まだ終わってない」
彼女は私の手首を見た。
「チップ……まだある?」
私は頷いた。
「誰が……これを?」
葉月は隣の男性を見た。
「彼が説明する。彼こそが——」
男性が一歩前に出た。
その目は、深い悲しみと決意に満ちていた。
「初めまして、凛。私の名は——」
彼は静かに告げた。
「橋爪英人。あなたの——元婚約者だ」
その瞬間、世界がひっくり返った。
「……元、婚約者?」
自分の声が、自分のものではないように震えていた。
英人は、静かに頷いた。
街灯が彼の横顔を照らし、その影が長く路地に伸びる。
「信じられないのも無理はない。凛、君は——八年前、記憶を消される直前、私と結婚する予定だった」
頭の奥がぐらりと揺れた。
耳鳴りがして、遠くでサイレンがまだ鳴っている。だが、すべてが遠い。
「嘘……」
私は後ずさった。
葉月が肩に触れようとしたが、私は避けてしまった。
英人は手を広げ、敵意がないことを示した。
「突然こんな形で言うつもりはなかった。だが、時間がない。君の中にあるデータは、僕が設計したものなんだ。そして、君の記憶を取り戻す鍵は、僕の中にある」
「何……? どうしてあなたの中に?」
真壁が低い声で言った。
「……橋爪英人。お前が“卒業生”の一人だったとはな」
英人は真壁を一瞥した。
「そうだ。だが、私は組織を裏切った。『イーヴィル・ペイシェント』の根幹を揺るがす“鍵”を、凛の中に隠したのは私だ」
私は呼吸を忘れていた。
「……どうして、そんなことを……私に?」
英人はゆっくりと近づき、しかし触れようとはしなかった。
「君が一番、信頼できたからだ。組織にとって都合の悪いデータを託せるのは、君しかいなかった」
「でも……私は、その記憶を……」
「消された。彼らに」
英人の声は、苦しむように震えていた。
「君は私を守ろうとして、組織の研究棟に侵入した。だが、捕まった。そして——君と私は、婚約者だったという記憶ごと、切り取られた」
胸の奥がズキリと痛んだ。
私は、知らない誰かのために涙が溢れそうになった。
だが——真壁が銃を下ろさずに英人を見据えた。
「信じられない話だな。なぜ今になって姿を現した?」
英人は短く息をついた。
「凛がチップにアクセスできる状態になったからだ。今日、病院が崩落した時点で、その“鍵”が起動した。組織は凛がデータを保持していると気づいた。だから公安の施設を狙う。真壁、お前も狙われる」
佐伯さんが怯えた声で尋ねた。
「じゃあ……公安は安全じゃないの?」
英人は頷いた。
「ああ。公安の上層部には“卒業生”が潜んでいる。真壁を殺すことで、凛を孤立させるのが狙いだ」
葉月が言った。
「だから、私は英人と合流した。凛を救うために」
SUVが夜の街を疾走した。
後部座席で、私は左手首を見つめていた。小さな傷跡。そこに埋め込まれた、八年分の秘密。
助手席の英人が振り返った。
「凛。記憶を取り戻す方法は二つある」
彼の声は穏やかだが、その目には覚悟があった。
「一つは、専門の施設で外科的にチップを取り出し、強制的にデータを読み取る方法。ただし、君の脳への負担は計り知れない」
「もう一つは?」
「君自身が、自然に記憶を取り戻すこと。感情の鍵が揃えば、チップは自動的に解放される」
葉月が運転席から言った。
「でも、それには時間がかかる。組織は今この瞬間も、私たちを追っている」
真壁が窓の外を警戒しながら言った。
「公安の施設は使えない。橋爪の言う通りなら、すでに包囲されているだろう」
田代が小さく呟いた。
「じゃあ、どこへ……?」
英人が地図アプリを開いた。
「郊外に、私の研究所がある。そこなら、安全にチップの解析ができる」
佐伯さんが不安そうに尋ねた。
「組織に見つからない保証は?」
「ない」
英人はきっぱりと言った。
「だが、他に選択肢はない」
私は英人を見た。
「あなたは……八年間、ずっと私を探していたんですか?」
英人は少しだけ笑った。悲しげな笑顔だった。
「探していたというより、見守っていた。君が新しい人生を始めたとき、僕は君の記憶に何も残っていないことを知った。そして——」
彼は視線を落とした。
「君が幸せそうに見えたから、僕は距離を置くことにした。でも、『イーヴィル・ペイシェント』が再び君を狙っているとわかったとき、もう黙っていられなくなった」
私の胸が締め付けられた。
八年間。
彼は一人で、すべてを背負っていたのか。
「なぜ……私なんかに、そこまで……」
英人は私の目を見た。
「君は『私なんか』じゃない。凛、君は——」
彼の言葉が途切れた。
前方に、バリケードが見えたからだ。
警察車両が道を塞いでいる。
「検問か?」
葉月が速度を落とした。
真壁が身を乗り出した。
「いや、違う。あれは——」
警察車両の中から、黒服の男たちが出てきた。
「組織だ!」
葉月は急ハンドルを切った。SUVは横道に突入し、住宅街を抜けていく。
背後から、複数の車が追ってきた。
「しつこい……!」
銃声が響いた。後部の窓ガラスにヒビが入る。
私は伏せながら、英人に叫んだ。
「このままじゃ、研究所に着く前に捕まる!」
英人は何かを決意したように頷いた。
「凛。今から、君に強制的に記憶を呼び起こす方法を試す」
「でも、脳への負担が——」
「時間がないんだ!」
英人は懐から小さな装置を取り出した。スマートフォンくらいの大きさで、画面には複雑な波形が表示されている。
「これは記憶誘導装置。君の手首のチップと同期して、封印された記憶を刺激する」
彼は私の左手首に装置を近づけた。
ピピピ……と電子音が鳴る。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
「っ……!」
激痛。
視界が歪み、過去の映像が奔流のように流れ込んできた。
——八年前。
——大学の研究室。
——白衣を着た英人と、笑顔で話している私。
——「来月、式を挙げよう」という彼の声。
——「うん」と答える私。
そして——
——葉月の苦しむ姿。
——「助けて、凛。私、何かされてる……」という電話。
——病院に駆け込む私。
——地下の研究棟。
——そこで見た、人々の無表情な顔。
——水島夫婦の冷たい笑み。
——「あなたの姉は、もう存在しません」という言葉。
私は叫んでいた。
「やめて……!」
だが、記憶は止まらない。
——英人が助けに来た。
——「凛、逃げるんだ!」
——でも、私は逃げなかった。
——英人のパソコンから、組織の全データをコピーした。
——そして、自分の体にチップを埋め込んだ。
——「これなら、絶対に見つからない」
——英人の涙。
——「凛……君まで失いたくない……」
——「大丈夫。私の記憶は、あなたへ帰っていく場所を知っている」
そして——
——注射。
——意識が遠のく。
——「申し訳ありませんが、あなたには消えていただきます」という水島の声。
——最後に見たのは、英人の絶望した顔。
「ああああああッ!!」
私は叫んだ。
涙が止まらない。
すべてを思い出した。
私は、姉を助けるために。
英人を守るために。
そして、この狂った組織を止めるために——
自分の記憶を犠牲にしたのだ。
「凛!」
英人が肩を掴んだ。
「大丈夫か!?」
私は彼を見た。
涙で霞む視界の中で、彼の顔がはっきりと見えた。
「……英人」
初めて、心からその名前を呼んだ。
「君を……ずっと待ってた」
英人の目が潤んだ。
「凛……」
だが、感動の再会は長く続かなかった。
前方に、巨大なトレーラーが現れた。
道を完全に塞いでいる。
葉月が急ブレーキをかけた。
車が止まる。
トレーラーの上から、水島夫婦が降りてきた。
そして、その背後には——数十人の黒服の男たち。
完全に包囲された。
水島千鶴が拡声器を持って言った。
「407号。いえ、西条凛さん。もう逃げ場はありません」
理事長の昭彦が続けた。
「あなたの記憶が戻ったことは、チップの信号でわかっています。さあ、データを渡しなさい」
英人が銃を構えた。
真壁と葉月も武器を手にする。
だが、相手は多すぎる。
私は立ち上がった。
「凛! 何を——」
田代が止めようとした。
私は車のドアを開けた。
「もう、いいんです」
外に出ると、夜風が冷たかった。
水島夫婦が近づいてくる。
「賢明な判断です」
千鶴が微笑んだ。
私は左手首を見せた。
「これが欲しいんですよね」
「その通り」
私は英人を見た。彼は歯を食いしばっていた。
「凛……何をする気だ……?」
私は小さく笑った。
「英人。私、やっとわかった」
過去の自分。守りたかったもの。そして、失いたくなかった人たち。
「私は、あなたのために——」
私は水島夫婦に向かって言った。
「このチップを、差し出します」
「凛!!」
英人が叫んだ。
「理解が早いですね。組織の一員としてふさわしい」
そういいながら受け取ろうとした昭彦の手を、私は交わした。
「ただし——条件があります。私の仲間たちを、傷つけないでください」
水島夫婦は顔を見合わせた。
「ふふっ」
笑い声が響いた。
「馬鹿な女ね」
瞬間、昭彦が突然お腹を抑えて倒れ伏す。水島夫妻が異様に驚いているので、それは夫妻の仕業ではないことがわかる。
「ッ!」
私の仕業だ。私が彼の体内に悪病を発症させた。理由は明白だ。水島昭彦が青ざめた。息苦しさでたまらないはずだ。もちろん、すぐに治すことは可能だが、そんな気持ちになることはない。
「よくも!」
水島が激怒した。当然だ。自身の夫が病魔に犯されているのだから。この状況だからこそ、彼女の怒りは頂点に達する。彼女は私に近づき、頬を叩いた。衝撃が走り、私はよろめいた。殴られるとは思わなかったので少しの油断があった。だが、動じることはない。なぜなら彼女も、発症のトリガーを引いたからだ。
「がはッ!!」
瞬時に吐血した。私は内心ほくそ笑む。悪病を発症させたのは理事長だけではない。目の前でふらふらとなった水島にも発症させた。
「す、ストレスで……発症したのか……」
「そんなこと言う暇あれば、早く治療したらどうです?」
その言葉を吐き捨てるように言う。
「自分の悪病がどんなに治療が難しいかをわかっておきながら……」
私は一歩一歩前進し、彼らの首に手をかける。
「私が殺したいと思えば、あなた方はあっという間に死んでしまうんですよ」
その言葉を口にしたとき、彼らの目が恐怖に染まる。
水島夫妻は悪病を持つ患者たちに様々な命令を下し、組織の覇道に邪魔な人々に悪病を植え付けた。彼らがそうして得てきた不当な利益を考えれば、今ここで殺すほうが世のためだと感じる。
「この世界に、あなた方が必要なのでしょうか?」
そう言い放ち、私はさらに力を込めようとすると……
「やめろ凛!!」
後ろから抱きしめられた。英人だった。彼は、私を止めようとする。私は彼を振り払おうとする。だが、彼は強く抱きしめている。そして、彼は諭すようにこう言った。
「殺しても何も変わらない……!こんなことをしても……何も救われない……!」
私は……
「離してください!!あんたに、私の何がわかるっていうんだ!」
怒りを露わにする。そして、彼に対して嫌悪の目を向ける。
「何がわかるんだって?わかっているに決まってるだろう!!」
そんな私の目に対抗するように、彼は私を睨みつけた。私は、その態度に拍子抜けする。
「わかるに決まってるだろう……!君とずっと一緒だったんだから」
「違う!!何もわかってない!!」
「わかってない!?じゃあ教えてくれ!!どうして……そんなに苦しい顔をしてるんだ!?」
心臓がドクンと音を立てる。そして、私は絶句した。
遠くから、無数のサイレンが近づいてくる。
今度は、本物の警察だった。
水島夫婦は絶望した表情で立ち尽くした。
黒服の男たちが逃げ始める。
だが、すでに包囲網は完成していた。
警察車両が次々と到着し、組織のメンバーを拘束していく。
「くっ……!もう、終わりだ……」
私は彼らに悪病を使うことを止めた。もはや水島夫妻は完全に敗北したのだ。警察が彼らを取り押さえ、連行していく。こうして、ようやく長い闘いが幕を閉じる。
「これで……終わりですか?」
英人は頷いた。
「ああ。長い戦いだったけど、ようやく終わった」
葉月が駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
「凛……よく頑張ったね」
私は姉の背中に手を回した。
「姉さんも……ずっと、守ってくれてたんですね」
「当たり前でしょ。あなたは私の大切な妹なんだから」
真壁が私たちに近づいた。
「西条凛。いや、あなたの本当の功績は、公安が正式に記録します」
「いえ……私は、ただ——」
英人が私の肩に手を置いた。
「君がいたから、ここまで来れたんだ」
私は頷いた。
田代と佐伯さんも、無事だった。
二人は警察に事情を説明している。
すべてが、ようやく終わろうとしていた。
私は英人を見た。
「私たち……八年前は、婚約者だったんですよね」
英人は優しく微笑んだ。
「そうだよ」
「でも、私の記憶はまだ完全じゃない。あなたとの思い出も、まだ断片的で……」
「いいんだ」
英人は私の手を取った。
「また、一から作ればいい。今度は、誰にも邪魔されずに」
私は涙を拭った。
「もう一度……恋人からやり直しますか?」
英人は笑った。
「喜んで」
夜空に、朝焼けの兆しが見え始めていた。
長い夜が、ようやく終わろうとしている。
もう、誰も「患者」になる必要はない。
逃げる必要もない。私たちは、ようやく——本当の自分として、生きていける。




