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イーヴィル・ペイシェント ─悪病の患者たち─  作者: シガ


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4/4

本当の自分

田代が私の反対側から肩を支えた。


 顔中に血が流れているのに、彼の目だけは不思議と冷静だった。


「凛さん……行くんです。彼女の選択を、無駄にしないで」


 その瞬間、爆風が背後から吹き抜けた。

 病院全体が一つの生き物のように震え、床が波打つ。


 ——ドォンッ。


 私は真壁と田代に挟まれるようにして非常階段を転がり落ちた。

 視界が何度も白く途切れた。


 空気なのか粉塵なのかもわからない何かが肺に入り、息ができない。

 ようやく外気に触れたとき、私は地面に倒れ込み、激しく咳き込んだ。

 夜風が冷たかった。


 だが背後では、病院がゆっくりと沈んでいくように崩れ続けていた。

 佐伯さんが膝をつき、崩落する建物を呆然と見つめた。


「……葉月さん」


 田代は顔を歪め、何かを言おうとして言葉にならない。

 真壁だけが、震える拳を握りしめたまま、低くつぶやいた。


「まだ終わってない……データは残った。凛さんが持ってる」


 私はハッとしてポケットを探った。USBメモリは無事だ。

 だが——そのUSBを見つめた瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。


「……待って」


 震える声が、自分のものとは思えなかった。

 田代が私に視線を向けた。


「どうしました?」

「これ……何か、違う。これ、本当に……」


 USBメモリが手のひらで熱を持ち始めた。鼓動のように、微かに振動している。ただの記憶媒体ではない。生きた何かだ。


 真壁が目を細めた。


「念のため調べます」


 彼は袖から取り出した小さな検知機をUSBにかざした。機械のランプが赤く点滅する。


「……これは……」


 真壁の表情が硬くなる。


「通常のUSBじゃない....。データ保存形式が一般的な規格と異なります」

「どういうこと……?」

「つまり——これを今我々が内部を閲覧することは出来ないってことです。おそらく、我々の技術を超えた高度な暗号化がかかっています」


 私は息を呑んだ。


「じゃあ、中のデータを読む方法は……」

「今のところ、私たちにはない。」


 そのとき、私の携帯が震えた。画面には、番号ではなく、たった一つの名前が表示されていた。


『H』


 私は息を飲んだ。

 その文字を見ただけで、身体の奥が反応した。


 懐かしく、でも恐ろしい。

 震える指で通話ボタンを押す。


「……もしもし?」


 ノイズ混じりの向こうから、低い、聞き慣れた声が返ってきた。


『——凛。生きてるね。よかった』


 それが誰の声なのか、私は気づいてしまった。

 葉月でも、水島でも、田代でもない。

 八年前、記憶を消される前に——私がもっとも信頼し、

 そしてもっとも憎んだ、「誰か」の声。


『まだ終わらないよ。USBにあるのは“片側”だけだ』


 真壁、田代、佐伯さんが同時にこちらを見る。


『もう一つのデータは、君自身の中にある。凛。八年前、君は——』


 そこまで言った瞬間、通話がブツリと切れた。

 私は携帯を握りしめたまま、呆然と夜空を見上げた。

 粉塵が星の光を曇らせていた。


 —私の中に、データ?


 田代が静かに言った。


「凛さん。……何を聞いたんですか?」


 私はゆっくりと振り返った。


「八年前……私は、『イーヴィル・ペイシェント』の実験に——」


 言葉が喉で止まる。


 思い出そうとした瞬間、頭の奥で激しい痛みが爆発した。


「っ……!」


 地面に膝をつくと、崩壊しつつある病院の方から、

 誰かの声が聞こえた気がした。


 ——“凛、走って。後は、私が”


 幻聴か、それとも記憶の残滓か。

 佐伯さんが支えてくれた。


「まずは安全な場所へ行こう。凛さん、まだ追手が来るかもしれない」


 しかし、私は立ち上がりながら、ある考えに飲み込まれていった。


 USBの中のデータ。

 私の中のデータ。

 Hと名乗る人物。

 零号=葉月。

 そして、消えた実験体たち。


 ——八年前の私が、何をしたのか。


 その答えは、まだ目を背けるにはあまりにも大きかった。

 私は拳を握った。


「行こう。全部……思い出すために」


 そのとき、遠くでサイレンの音が鳴り響いた。

 夜が、途方もない陰謀の底へと沈んでいく。

 真壁が素早く周囲を見渡した。


「警察だ。だが、味方とは限らない」


「どういうことですか?」


 私は尋ねた。


「『イーヴィル・ペイシェント』の影響力は、想像以上に深い。警察組織の中にも、組織のエージェントが潜んでいる可能性がある」


 真壁は私たちを促した。


「病院の裏手に車を停めてある。急ぐぞ」


 私たちは崩れ続ける病院から離れ、暗い駐車場へと走った。

 真壁の車は黒いセダンだった。四人が乗り込むと、真壁は素早くエンジンをかけた。

 車が動き出す。バックミラーに、炎上する病院が映った。

 その中に、葉月がいるかもしれない。


 いや——まだ生きているはずだ。私はそう信じたかった。


「凛さん」


 田代が後部座席から声をかけた。


「さっきの電話……誰からだったんですか?」


 私は携帯を見つめた。


「わかりません。でも……知っている気がする。『H』という名前に、記憶が反応している」


 佐伯さんが横から覗き込む。


「暗号化されたメッセージでしょうか?」

「そうかもしれません」


 私は頷いた。

 車は夜の街を疾走した。ネオンが窓の外を流れていく。


「どこへ向かうんですか?」


 私は尋ねた。


「公安の安全な施設」


 真壁は答えた。


「そこでUSBの中身を解析する。そして、あなたの記憶を——」

「待ってください」


 私は遮った。


「電話の相手は言いました。『もう一つのデータは、私の中にある』と」


 車内が静まり返った。

 田代が困惑した表情で言った。


「中にある……とは?」

「わかりません。でも、八年前の記憶と関係がある。私が何かを知っていて、それが消されている」


 佐伯さんが震える声で言った。


「もしかして……記憶消去じゃなくて、記憶の封印……?」


 真壁がブレーキを踏んだ。

 車は信号で停止した。真壁は振り返り、私を見た。


「凛さん。あなたの体に、何か埋め込まれているものはありませんか? 傷跡、マイクロチップ、インプラント——」


 私は首を振った。


「何も……」


 だが、その瞬間、頭の奥でまた激痛が走った。


「っ……!」


 記憶の断片が、稲妻のように脳裏を駆け抜けた。


 ——白い手術室。

 ——手首に注射針。

 ——「これで、すべてを忘れられます」という声。

 ——そして、葉月の泣き顔。


「思い出した……」


 私は呟いた。


「手首……」


 私は震える手で、左手首のブレスレットを外した。

 普段からつけている、シンプルな銀色のブレスレット。いつから身につけていたのか、思い出せなかった。

 それを外すと、手首に小さな傷跡があった。

 まるで、何かを埋め込んだような——


「これは……」


 真壁が素早く手首を確認した。その目が鋭くなる。


「マイクロチップだ。皮下に埋め込まれている」


 佐伯さんが息を飲んだ。


「それが……データ?」


「おそらく」


 真壁は言った。


「生体認証と連動した記憶装置。あなたの脳波、心拍数、特定の感情状態——それらが揃わなければ、データは取り出せない」


 田代が前のめりになった。


「つまり、凛さんが八年前の記憶を取り戻さない限り、データは読み取れないということですか?」

「その通りだ」


 私は手首を見つめた。

 八年間、私はこれを身につけていた。知らずに、秘密を体の中に隠して。


「どうやって取り出すんですか?」


 真壁は深刻な表情で答えた。


「専門の施設が必要だ。そして——」


 彼は言葉を選んだ。


「記憶を無理に取り戻そうとすれば、あなたの精神に深刻なダメージを与える可能性がある。『イーヴィル・ペイシェント』の記憶消去技術は、単なる催眠術ではない。脳の神経回路そのものを書き換えている」


 私の心臓が跳ねた。


「でも……やらなければ、真実はわからない」


 その瞬間、私の携帯が再び震えた。

 また『H』からだった。

 今度は、テキストメッセージ。


『聖マリア病院の崩落は序章。次は、公安の施設が標的だ。真壁を信じるな。彼もまた、"卒業生"の一人だから』


 私は凍りついた。

 真壁を見ると、彼は前を向いたまま、何も言わなかった。


「真壁さん……」


 私は震える声で尋ねた。


「あなたも……『イーヴィル・ペイシェント』の……?」


 信号が青になった。

 真壁は車を発進させた。

 沈黙が続いた。

 やがて、彼は静かに答えた。


「……その通りだ」


 車内の空気が凍りついた。


「十二年前、私は警察官だった。だが、ある事件で部下を失い、精神を病んだ。そのとき、『イーヴィル・ペイシェント』に誘われた」


 真壁の声には、深い疲労が滲んでいた。


「私は記憶を消去され、新しい人生を与えられた。公安の潜入捜査官として」

「じゃあ……あなたの目的は?」


 私は尋ねた。

 真壁はバックミラー越しに私を見た。


「組織を内部から崩壊させること。そして——」


 彼は一瞬、躊躇した。


「十二年前、私が失った部下の名前は……葉月だった」


 私の呼吸が止まった。


「葉月……姉さんが、あなたの……?」

「そうだ。彼女は元警察官だった。私の部下で、優秀な刑事だった。だが、ある事件で負傷し、PTSDを発症した。そして——」


 真壁は拳を握りしめた。


「私が、彼女を『イーヴィル・ペイシェント』に紹介してしまったんだ」


 車が急カーブを曲がった。ビルの谷間を抜け、高速道路へと向かう。


「葉月は記憶を消去された。だが、彼女は自分の意思で、組織に戻ってきた。あなたを救うために」


 私は拳を握りしめた。

 姉は、警察官だった。

 私を守るために、自分の記憶を犠牲にした。

 そして今、再び私を守るために——


 涙が溢れそうになった。


「真壁さん」


 田代が言った。


「つまり、あなたは組織の一員でありながら、組織を裏切っている?」

「裏切っているというより、贖罪だ」


 真壁は答えた。信号が赤になり、車は停止した。


「十二年前の過ちを償うために、私はここにいる」


 佐伯さんが小さく言った。


「でも……『H』は、あなたを信じるなと……」


 その瞬間、前方に黒いバンが現れた。

 車線を塞ぐように停車している。

 真壁は急ブレーキをかけた。タイヤが悲鳴を上げる。

 バンのドアが開き、黒服の男たちが降りてきた。


「罠か!」


 真壁が叫んだ。

 だが、後方にも別の車が迫ってきていた。

 完全に挟まれた。その瞬間、私の携帯に再度の通知が来た。相手は……Hだ。


『右の路地。今すぐ。私が迎えに行く』


 私は叫んだ。


「右! 右の路地に!」


 真壁は一瞬迷ったが、ハンドルを切った。

 車は急激に右折し、狭い路地へと突入した。

 背後で銃声が響いた。

 フロントガラスにヒビが入る。


「くそっ……!」


 路地の先に、別の車が待っていた。

 白いSUV。


 その運転席から、人影が降りてきた。

 街灯の光に照らされて、その顔が見えた。

 私は声を失った。


 それは——葉月だった。


 生きていた。

 傷だらけで、服は焼け焦げているが、確かに生きていた。


 そして、その隣に立っていたのは——背の高い男性。


 三十代後半、鋭い目をした、どこか軍人のような佇まい。

 彼が、『H』なのか。

 真壁の車が停止した。

 葉月が走り寄ってきた。


「凛! 無事だったのね!」


 私は車から飛び降り、姉に抱きついた。


「姉さん……生きて……!」

「ごめん、心配かけた」


 葉月は笑った。


「でも、まだ終わってない」


 彼女は私の手首を見た。


「チップ……まだある?」


 私は頷いた。


「誰が……これを?」


 葉月は隣の男性を見た。


「彼が説明する。彼こそが——」


 男性が一歩前に出た。


 その目は、深い悲しみと決意に満ちていた。


「初めまして、凛。私の名は——」


 彼は静かに告げた。


「橋爪英人。あなたの——元婚約者だ」


 その瞬間、世界がひっくり返った。


「……元、婚約者?」


 自分の声が、自分のものではないように震えていた。

 英人は、静かに頷いた。


 街灯が彼の横顔を照らし、その影が長く路地に伸びる。


「信じられないのも無理はない。凛、君は——八年前、記憶を消される直前、私と結婚する予定だった」


 頭の奥がぐらりと揺れた。

 耳鳴りがして、遠くでサイレンがまだ鳴っている。だが、すべてが遠い。


「嘘……」


 私は後ずさった。

 葉月が肩に触れようとしたが、私は避けてしまった。

 英人は手を広げ、敵意がないことを示した。


「突然こんな形で言うつもりはなかった。だが、時間がない。君の中にあるデータは、僕が設計したものなんだ。そして、君の記憶を取り戻す鍵は、僕の中にある」

「何……? どうしてあなたの中に?」


 真壁が低い声で言った。


「……橋爪英人。お前が“卒業生”の一人だったとはな」


 英人は真壁を一瞥した。


「そうだ。だが、私は組織を裏切った。『イーヴィル・ペイシェント』の根幹を揺るがす“鍵”を、凛の中に隠したのは私だ」


 私は呼吸を忘れていた。


「……どうして、そんなことを……私に?」


 英人はゆっくりと近づき、しかし触れようとはしなかった。


「君が一番、信頼できたからだ。組織にとって都合の悪いデータを託せるのは、君しかいなかった」

「でも……私は、その記憶を……」

「消された。彼らに」


 英人の声は、苦しむように震えていた。


「君は私を守ろうとして、組織の研究棟に侵入した。だが、捕まった。そして——君と私は、婚約者だったという記憶ごと、切り取られた」


 胸の奥がズキリと痛んだ。

 私は、知らない誰かのために涙が溢れそうになった。

 だが——真壁が銃を下ろさずに英人を見据えた。


「信じられない話だな。なぜ今になって姿を現した?」


 英人は短く息をついた。


「凛がチップにアクセスできる状態になったからだ。今日、病院が崩落した時点で、その“鍵”が起動した。組織は凛がデータを保持していると気づいた。だから公安の施設を狙う。真壁、お前も狙われる」


 佐伯さんが怯えた声で尋ねた。


「じゃあ……公安は安全じゃないの?」


 英人は頷いた。


「ああ。公安の上層部には“卒業生”が潜んでいる。真壁を殺すことで、凛を孤立させるのが狙いだ」


 葉月が言った。


「だから、私は英人と合流した。凛を救うために」


 SUVが夜の街を疾走した。

 後部座席で、私は左手首を見つめていた。小さな傷跡。そこに埋め込まれた、八年分の秘密。

 助手席の英人が振り返った。


「凛。記憶を取り戻す方法は二つある」


 彼の声は穏やかだが、その目には覚悟があった。


「一つは、専門の施設で外科的にチップを取り出し、強制的にデータを読み取る方法。ただし、君の脳への負担は計り知れない」

「もう一つは?」

「君自身が、自然に記憶を取り戻すこと。感情の鍵が揃えば、チップは自動的に解放される」


 葉月が運転席から言った。


「でも、それには時間がかかる。組織は今この瞬間も、私たちを追っている」


 真壁が窓の外を警戒しながら言った。


「公安の施設は使えない。橋爪の言う通りなら、すでに包囲されているだろう」


 田代が小さく呟いた。


「じゃあ、どこへ……?」


 英人が地図アプリを開いた。


「郊外に、私の研究所がある。そこなら、安全にチップの解析ができる」


 佐伯さんが不安そうに尋ねた。


「組織に見つからない保証は?」

「ない」


 英人はきっぱりと言った。


「だが、他に選択肢はない」


 私は英人を見た。


「あなたは……八年間、ずっと私を探していたんですか?」


 英人は少しだけ笑った。悲しげな笑顔だった。


「探していたというより、見守っていた。君が新しい人生を始めたとき、僕は君の記憶に何も残っていないことを知った。そして——」


 彼は視線を落とした。


「君が幸せそうに見えたから、僕は距離を置くことにした。でも、『イーヴィル・ペイシェント』が再び君を狙っているとわかったとき、もう黙っていられなくなった」


 私の胸が締め付けられた。

 八年間。

 彼は一人で、すべてを背負っていたのか。


「なぜ……私なんかに、そこまで……」


 英人は私の目を見た。


「君は『私なんか』じゃない。凛、君は——」


 彼の言葉が途切れた。

 前方に、バリケードが見えたからだ。

 警察車両が道を塞いでいる。


「検問か?」


 葉月が速度を落とした。

 真壁が身を乗り出した。


「いや、違う。あれは——」


 警察車両の中から、黒服の男たちが出てきた。


「組織だ!」


 葉月は急ハンドルを切った。SUVは横道に突入し、住宅街を抜けていく。

 背後から、複数の車が追ってきた。


「しつこい……!」


 銃声が響いた。後部の窓ガラスにヒビが入る。

 私は伏せながら、英人に叫んだ。


「このままじゃ、研究所に着く前に捕まる!」


 英人は何かを決意したように頷いた。


「凛。今から、君に強制的に記憶を呼び起こす方法を試す」

「でも、脳への負担が——」

「時間がないんだ!」


 英人は懐から小さな装置を取り出した。スマートフォンくらいの大きさで、画面には複雑な波形が表示されている。


「これは記憶誘導装置。君の手首のチップと同期して、封印された記憶を刺激する」


 彼は私の左手首に装置を近づけた。

 ピピピ……と電子音が鳴る。

 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


「っ……!」


 激痛。

 視界が歪み、過去の映像が奔流のように流れ込んできた。


 ——八年前。

 ——大学の研究室。

 ——白衣を着た英人と、笑顔で話している私。

 ——「来月、式を挙げよう」という彼の声。

 ——「うん」と答える私。


 そして——

 ——葉月の苦しむ姿。

 ——「助けて、凛。私、何かされてる……」という電話。

 ——病院に駆け込む私。

 ——地下の研究棟。

 ——そこで見た、人々の無表情な顔。

 ——水島夫婦の冷たい笑み。

 ——「あなたの姉は、もう存在しません」という言葉。


 私は叫んでいた。


「やめて……!」


 だが、記憶は止まらない。

 ——英人が助けに来た。

 ——「凛、逃げるんだ!」

 ——でも、私は逃げなかった。

 ——英人のパソコンから、組織の全データをコピーした。

 ——そして、自分の体にチップを埋め込んだ。

 ——「これなら、絶対に見つからない」

 ——英人の涙。

 ——「凛……君まで失いたくない……」

 ——「大丈夫。私の記憶は、あなたへ帰っていく場所を知っている」


 そして——

 ——注射。

 ——意識が遠のく。

 ——「申し訳ありませんが、あなたには消えていただきます」という水島の声。

 ——最後に見たのは、英人の絶望した顔。


「ああああああッ!!」


 私は叫んだ。

 涙が止まらない。

 すべてを思い出した。

 私は、姉を助けるために。

 英人を守るために。

 そして、この狂った組織を止めるために——

 自分の記憶を犠牲にしたのだ。


「凛!」


 英人が肩を掴んだ。


「大丈夫か!?」


 私は彼を見た。

 涙で霞む視界の中で、彼の顔がはっきりと見えた。


「……英人」


 初めて、心からその名前を呼んだ。


「君を……ずっと待ってた」


 英人の目が潤んだ。


「凛……」


 だが、感動の再会は長く続かなかった。

 前方に、巨大なトレーラーが現れた。

 道を完全に塞いでいる。

 葉月が急ブレーキをかけた。

 車が止まる。

 トレーラーの上から、水島夫婦が降りてきた。

 そして、その背後には——数十人の黒服の男たち。

 完全に包囲された。

 水島千鶴が拡声器を持って言った。


「407号。いえ、西条凛さん。もう逃げ場はありません」


 理事長の昭彦が続けた。


「あなたの記憶が戻ったことは、チップの信号でわかっています。さあ、データを渡しなさい」


 英人が銃を構えた。

 真壁と葉月も武器を手にする。

 だが、相手は多すぎる。

 私は立ち上がった。


「凛! 何を——」


 田代が止めようとした。

 私は車のドアを開けた。


「もう、いいんです」


 外に出ると、夜風が冷たかった。

 水島夫婦が近づいてくる。


「賢明な判断です」


 千鶴が微笑んだ。

 私は左手首を見せた。


「これが欲しいんですよね」

「その通り」


 私は英人を見た。彼は歯を食いしばっていた。


「凛……何をする気だ……?」


 私は小さく笑った。


「英人。私、やっとわかった」


 過去の自分。守りたかったもの。そして、失いたくなかった人たち。


「私は、あなたのために——」


 私は水島夫婦に向かって言った。


「このチップを、差し出します」

「凛!!」


 英人が叫んだ。


「理解が早いですね。組織の一員としてふさわしい」


 そういいながら受け取ろうとした昭彦の手を、私は交わした。


「ただし——条件があります。私の仲間たちを、傷つけないでください」


 水島夫婦は顔を見合わせた。


「ふふっ」


 笑い声が響いた。


「馬鹿な女ね」


 瞬間、昭彦が突然お腹を抑えて倒れ伏す。水島夫妻が異様に驚いているので、それは夫妻の仕業ではないことがわかる。


「ッ!」


 私の仕業だ。私が彼の体内に悪病を発症させた。理由は明白だ。水島昭彦が青ざめた。息苦しさでたまらないはずだ。もちろん、すぐに治すことは可能だが、そんな気持ちになることはない。


「よくも!」


 水島が激怒した。当然だ。自身の夫が病魔に犯されているのだから。この状況だからこそ、彼女の怒りは頂点に達する。彼女は私に近づき、頬を叩いた。衝撃が走り、私はよろめいた。殴られるとは思わなかったので少しの油断があった。だが、動じることはない。なぜなら彼女も、発症のトリガーを引いたからだ。


「がはッ!!」


 瞬時に吐血した。私は内心ほくそ笑む。悪病を発症させたのは理事長だけではない。目の前でふらふらとなった水島にも発症させた。


「す、ストレスで……発症したのか……」

「そんなこと言う暇あれば、早く治療したらどうです?」


 その言葉を吐き捨てるように言う。


「自分の悪病がどんなに治療が難しいかをわかっておきながら……」


 私は一歩一歩前進し、彼らの首に手をかける。


「私が殺したいと思えば、あなた方はあっという間に死んでしまうんですよ」


 その言葉を口にしたとき、彼らの目が恐怖に染まる。

 水島夫妻は悪病を持つ患者たちに様々な命令を下し、組織の覇道に邪魔な人々に悪病を植え付けた。彼らがそうして得てきた不当な利益を考えれば、今ここで殺すほうが世のためだと感じる。


「この世界に、あなた方が必要なのでしょうか?」


 そう言い放ち、私はさらに力を込めようとすると……


「やめろ凛!!」


 後ろから抱きしめられた。英人だった。彼は、私を止めようとする。私は彼を振り払おうとする。だが、彼は強く抱きしめている。そして、彼は諭すようにこう言った。


「殺しても何も変わらない……!こんなことをしても……何も救われない……!」


 私は……


「離してください!!あんたに、私の何がわかるっていうんだ!」


 怒りを露わにする。そして、彼に対して嫌悪の目を向ける。


「何がわかるんだって?わかっているに決まってるだろう!!」


 そんな私の目に対抗するように、彼は私を睨みつけた。私は、その態度に拍子抜けする。


「わかるに決まってるだろう……!君とずっと一緒だったんだから」

「違う!!何もわかってない!!」

「わかってない!?じゃあ教えてくれ!!どうして……そんなに苦しい顔をしてるんだ!?」


 心臓がドクンと音を立てる。そして、私は絶句した。

 遠くから、無数のサイレンが近づいてくる。

 今度は、本物の警察だった。

 水島夫婦は絶望した表情で立ち尽くした。

 黒服の男たちが逃げ始める。

 だが、すでに包囲網は完成していた。

 警察車両が次々と到着し、組織のメンバーを拘束していく。


「くっ……!もう、終わりだ……」


 私は彼らに悪病を使うことを止めた。もはや水島夫妻は完全に敗北したのだ。警察が彼らを取り押さえ、連行していく。こうして、ようやく長い闘いが幕を閉じる。


「これで……終わりですか?」


 英人は頷いた。


「ああ。長い戦いだったけど、ようやく終わった」


 葉月が駆け寄ってきて、私を抱きしめた。


「凛……よく頑張ったね」


 私は姉の背中に手を回した。


「姉さんも……ずっと、守ってくれてたんですね」

「当たり前でしょ。あなたは私の大切な妹なんだから」


 真壁が私たちに近づいた。


「西条凛。いや、あなたの本当の功績は、公安が正式に記録します」

「いえ……私は、ただ——」


 英人が私の肩に手を置いた。


「君がいたから、ここまで来れたんだ」


 私は頷いた。

 田代と佐伯さんも、無事だった。

 二人は警察に事情を説明している。

 すべてが、ようやく終わろうとしていた。

 私は英人を見た。


「私たち……八年前は、婚約者だったんですよね」


 英人は優しく微笑んだ。


「そうだよ」

「でも、私の記憶はまだ完全じゃない。あなたとの思い出も、まだ断片的で……」


「いいんだ」


 英人は私の手を取った。


「また、一から作ればいい。今度は、誰にも邪魔されずに」


 私は涙を拭った。


「もう一度……恋人からやり直しますか?」


 英人は笑った。


「喜んで」


 夜空に、朝焼けの兆しが見え始めていた。

 長い夜が、ようやく終わろうとしている。

 もう、誰も「患者」になる必要はない。

 逃げる必要もない。私たちは、ようやく——本当の自分として、生きていける。

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