偽りの人生
コンクリート片と金属が飛び散り、天井の一部が崩落した。
土埃が濃い霧のように舞い上がり、視界が一瞬消える。
誰も、動けなかった。
水島でさえ、わずかに身をすくませた。
落ちてきた“それ”は、人影だった。
埃の中で、かすかな咳の音。
「……っは……危なかった……」
その声に、私は思わず息を呑んだ。非常階段で会ったことがある。この病院を始めて訪れた時、大きな病院だから凄く迷ってしまったんだ。その際案内してくれた男性。確か、名前は……坂本さん?
地味な事務員の青年。だが、埃が晴れていくにつれて、私は理解した。
彼は事務員ではなかった。
灰色のスーツの下に、装甲ベスト。
耳には通信機。そして手には、伸縮式の警棒ではなく——
軍用の折りたたみ式制圧用バトン。
青年はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、恐怖も迷いもない。
ただ、任務を遂行する者の静かな光だけが宿っていた。
水島が、瞬間だけ表情を失う。
「……どうして、あなたがここに?」
青年は短く息を吐き、スーツの埃を払った。
「潜入期間、二年八か月。『イーヴィル・ペイシェント』特別捜査班——」
そして彼は、懐から警察手帳を取り出した。
「特命捜査官、真壁」
黒服の男たちがざわめいた。
「特命捜査官……? 冗談を——」
その瞬間、真壁は一歩踏み込み、ほとんど残像のように動いた。一番近くにいた黒服の腹部をバトンで打つ。鈍い音とともに、その男は膝から崩れ落ちた。
続いて横にいた二人目も、頭部に正確な一撃。即座に戦闘不能。
すべての動作が、滑らかで無駄がない。
しかし——
水島は、まったく動じずに微笑んだ。
「なるほど。ようやく敵の正体が見えてきましたね」
彼女の後ろで、すでに一人だけ残った黒服が、田代の首にナイフを当てていた。
「動くな、公安さんよ。この男の命が惜しければな」
田代医師の顔がさらに青ざめる。
真壁は動きを止め、冷たい視線を向けた。
「人質は卑怯だ」
「お前たちの領域じゃあるまいし、私たちにルールなんぞない」
黒服が嘲るように言った。
真壁はバトンを止め、目だけで状況を把握した。静かに一歩、後ずさる。
田代の唇が震える。
「……すまない……俺のせいで……」
「黙りなさい、竹内さん」
水島が冷ややかに言った。真壁はゆっくりと私たちの方へ視線を向けると、言った。
「状況は最悪だが……まだ手がある」
「何を——」
その瞬間、真壁の目がわずかに揺れた。
水島の夫、理事長・水島昭彦が、扉の向こうに立っていたのだ。
白髪交じりの髪、完璧に整えられたスーツ。
その手には、病院のIDカードではなく——黒い回路模様の刻まれた、小型の金属装置。小型の装置を手に持っていた。
「ご苦労だったな、妻よ。あとは私が片付けよう」
理事長は微笑んだ。
「ようやくお目にかかれましたね、公安さん。これが我々の“最終プロトコル”です」
装置の中央に光が灯る。
赤い、脈打つような光。
「実験体407号——」
理事長の声が、地下全体に反響する。
「あなたの本当の名前を、返しましょうか?」
空気が、凍りついた。鼓動が、耳の奥で破裂したように響く。
「……え?」
思わず口から零れたのは、否定でも質問でもない、純粋な混乱だけだった。
水島理事長は、にこやかに、しかしどこか哀れむような目で私を見ていた。私は確かに逃げるために偽装入院した。
でも、名前は本物のはずだ。戸籍も、身分証も——
「あなたは、八年前に一度“消えた”人間です」
鼓動が止まった気がした。八年前?
「そんなはずは——」
記憶を辿ろうとする。けれど、子供の頃の家族の顔が……ぼやけていく。
佐伯さんの顔から血の気が引き、田代は絶望の声を漏らした。
真壁だけが、静かに私を見た。
「——思い出すな。やつらの術中にはまる」
しかし理事長は、決定的な一言を吐いた。
「あなたの本当の名前は——」
その瞬間。
部屋全体の照明が完全に落ちた。
今度は非常灯すらつかなかった。
電子音、爆ぜる音、誰かの悲鳴。
そして——私の耳元に、誰かが囁いた。
「……また会えたね。“本当のあなた”」
完全な暗闇の中で、その声だけが異様な鮮明さで響いた。
懐かしい。でも、思い出せない。
誰の声だ?
「混乱しているね。当然だよ。八年分の記憶を消されているんだから」
囁く声は、優しく、どこか悲しげだった。
暗闇の中で、何かが私の手首に触れた。温かい。人の手だ。
「逃げよう。今のうちに」
「待って……あなたは誰——」
「後で説明する。今は信じて」
その瞬間、部屋の反対側で爆発音が響いた。
閃光が走り、一瞬だけ室内が照らされた。真壁が発煙筒を投げたのだ。煙と火の粉が舞い上がる。
真壁はもしや彼らと決戦を挑むつもりなのか?
謎の人物は私の手を引き、暗闇の中を走り出した。驚くほど的確に障害物を避けながら、部屋の奥へと向かう。
「待て!」
水島の声。
「407号を逃がすな!」
理事長の怒号。
背後から足音が迫る。だが、導いてくれる人物は迷わず、壁の一点に手をかけた。
ガチャリ、と音がして、壁の一部が開いた。
「こっち!」
私たちは隙間に滑り込んだ。壁が閉まり、追っ手の声が遠くなる。
真っ暗な通路を、私たちは走り続けた。
どのくらい走っただろう。
やがて、かすかな明かりが見えてきた。非常口の緑色の誘導灯だ。
そこで、ようやくその人物が立ち止まった。
「もう少し。外に出られる」
息を整えながら、私はその人物を見た。
誘導灯の薄明かりの中で、ようやく顔が見えた。
女性だった。三十代前半。長い黒髪を後ろで束ね、鋭い目をしている。
そして——どこかで見たことがあるような気がした。
「あなた……」
「久しぶり、凛」
彼女はそう言った。
凛——それは私の名前だ。でも、彼女の口調には、もっと深い親しみが込められていた。
「私は葉月。覚えてないよね、当然。でも、あなたは私の——」
その言葉が途切れた。
私の後ろで、何かが動く気配がした。
振り向くと、暗闇から水島が現れた。
一人ではなかった。両脇に黒服の男たちを従え、不敵な笑みを浮かべている。
「よくも逃げてくれましたね、407号。そして——」
水島の視線が葉月に向けられた。
「零号。八年前に消えたはずの実験体が、まさか生きていたとは」
零号——?
葉月の表情が険しくなった。
「水島……まだこんなことを続けているのか」
「あなたこそ」
水島は冷たく言った。
「八年前、最初の実験体として記憶を消去され、悪病に目覚め、任務に失敗し失踪した哀れな病人が、なぜ今さら戻ってきたの?」
私の頭が混乱する。
葉月が——零号? 最初の実験体?
「説明してください」
私は叫んだ。
「私は何者なんですか!?」
葉月は一瞬だけ、私の目を見つめた。その目には、深い後悔の色があった。
「凛……あなたは、私の妹だよ」
時間が止まった。
「妹……?」
「八年前、あなたは大学生だった。優秀で、将来有望な学生だった。でも——」
葉月の声が震えた。
「私が、あなたをここに連れてきたんだ」
「なぜ……」
「私が先に『イーヴィル・ペイシェント』の患者になった。完璧な休息を探して、逃げ場を求めた。そして——私は記憶を消され、新しい人生を始めることになった」
葉月は拳を握りしめた。
「でも、記憶消去の直前、私はあなたに連絡した。助けを求めた。そして、あなたは私を探しに、この病院に来た」
背筋が凍る。
「そこで、あなたは組織に捕まった。私を助けようとして——」
「ひどい話ですね」
水島が割り込んだ。
「感動的な姉妹愛。でも、現実はもっと残酷です」
彼女はタブレットを取り出し、画面を私に向けた。
そこには、八年前の私の写真があった。
髪型も、服装も、表情も——今の私とは全く違う。でも、確かに私だった。
その隣には、葉月の写真。
そして、二人が並んで笑っている写真。
「あなたたちは、『イーヴィル・ペイシェント』にとって、理想的なサンプルでした。同じ遺伝子を持つ双子の姉妹。性格も経験も異なる姉妹。そして、互いを助け合う強い絆を持っていた」
水島はにやりと笑った。
「ですが最初、凛さん。あなたには悪病の素養が見られませんでした。そこで、私たちは代わりに強烈な暗示と錯覚を与えて記憶を改竄していきました。そうして凛さんを一人の普通の人間として社会に戻したのです」
水島は言葉を区切り、私の反応を見た。
「つまり……私がここに来たのは……」
「偶然ではありません」
水島は微笑んだ。
「あなたがあのメールを受け取ったのも、ここに入院することを選んだのも、すべて私たちが誘導したのです。八年間の空白期間を経て、再び実験体としての役割を果たしてもらうために」
水島の目が輝いた。そこには狂信的な喜びがあった。
「あなたはついに、その潜在能力を開花させようとしている。私たちはそれを待っていた。そして、あなたの“完璧な休息”は、これから本格的に始まるのです」
私は膝から崩れ落ち、その傍で葉月が前に出た。
「もうやめろ、水島! 実験は終わりだ!」
「終わりではありません。むしろ、これからが本番です」
水島が手を挙げると、視界の端に、奇妙な何かが見えた。書き表すことのできない常に変形変貌変色する何かが、そこにはあった。理解しようとすればするほど、気が遠くなっていく。その何かを形容することはできないが、今わかるのは幻覚を見せられているということのみだ。
「ッ!」
葉月が思わず立ち止まる。それを見て、水島は冷笑する。
「407号。いえ、凛さん。あなたには3度目の"消失"を経験していただきます。そして今度は——」
水島は胸元から小型の装置を取り出した。注射器のようにも見える。
「完全なエージェントとして、私たちの組織に組み込まれるのです」
葉月は私の前に立ちふさがった。
「凛を渡すものか!」
「姉妹愛ですか。素晴らしいですね」
水島は冷ややかに言った。
「でも、実験体同士の感情など、私たちには何の意味もありません」
水島が一歩前に出た。
「さあ、あなたも悪病を発動させてください。まぁあなたの能力は男性にしか適用できませんが……」
水島の視線の先には、二人の黒服の男たちがいた。男たちは明らかに怯えており、後方へと一歩下がった。
「それに対し、私の悪病は異性関係なく、誰にでも、触れずとも、言葉一つだけで症状を引き起こすことができるのです」
水島の悪病はなんて強力なものなんだろう。考えれば考えるほど、もしかしたら今起きている出来事全てが悪夢なんじゃないかと現実逃避しそうになる。私はいったい何のためにこんな目に合わなければいけないのか。
「凛!あいつの言葉を聞かないで!それは悪病のトリガーの言葉よ!それで相手に影響を及ぼす!」
それに対し、私は動けない。さっきもそうだ。田代先生は悪病の影響を受けてしまい、私はあの能力をどうやって解除すればいいのかわからない。悪病を発症したものは自力で解くことは出来ないと考えていいのだろう。だが、能力を解除する方法は存在する。それは……感染者を殺すことだ。だが、そんなこと出来るはずがない。私も悪病を持っているらしいが、今の私に何ができるんだ?
「凛……ッ!!」
水島は高らかに笑った。もはや希望もない。逃げ出すこともできない。何もかも終わりなのだ。
「さぁ……二人の姉妹の脳に直接信号を送ってあげましょう!」
そう言って、水島はタブレット端末を操作する。
何かが終わったのだと思ったその時……背後の非常口が吹き飛ばされた。水島の足元に何かが転がる。
「なっ……!」
それは、彼女の夫昭彦だった。スーツのジャケットは焼け焦げ、白髪は乱れ、全身から煙が立ち昇り、喉から断続的な喘鳴が漏れている。
水島の表情が凍りついた。
「昭彦……?」
その瞬間、非常口の奥から複数の影が飛び出してきた——真壁と真帆、そして田代だった。
真壁は銃を構えていた。
「水島昭彦、水島千鶴、公務執行妨害および監禁罪で逮捕する!」
昭彦はそんな状態であるにもかかわらず、真壁を見据えて低く唸った。
「いやあ....流石特命捜査官さんだ……。この俺をここまでズタボロにするなんてな……だが……ここからは私達のターンだ。貴様らはもう詰んでいる」
理事長が懐から例の装置を取り出した。
「抹消プロトコル発動」
彼がボタンを押すと、病院全体に警報が鳴り響いた。
そして——床が揺れた。
「何が……」
真壁が顔色を変えた。
「まさか……爆破装置!?」
理事長は静かに笑った。
「この病院の地下には、すべての証拠が保管されている。それらを、今から消去する....貴様らも含めてな!」
天井から、粉塵が落ちてきた。
構造が崩れ始めている。
「逃げろ!今すぐ!」
真壁が叫んだ。
だが、私の足は動かなかった。このまま水島達と心中するわけにはいかない。だが、逃げる方向にはあの何かが蠢いていて、あれには近づきたくない。
葉月が私の肩を掴んだ。
「凛! 行くよ!」
私は彼女の手を握り返し、立ち上がった。断片的に思い出した記憶の中で、確かにそんな呼び方をされていた。私は逃げなければならない。葉月と一緒に。
「USBを渡しなさい、凛」
水島が私に迫り訴える。
彼女が手を伸ばした瞬間、葉月がそれを遮った。
「行け、凛! 私が時間を稼ぐ!」
「姉さん!」
記憶にはない。でも、心が叫んでいた。この人は、私の家族だと。
葉月は笑った。苦しげに、でも優しく。
「今度こそ、あなたを守る。約束だよ」
私は踵を返し、非常口へ向かった。天井が崩れ落ちる。真壁が私の腕を掴み、非常口へと引きずった。
「行くぞ!」
振り返ると、葉月が水島と対峙していた。崩れゆく病院の中で、二つの影が消えていく。
「姉さん!!」
私の叫びは、轟音にかき消された。




