入院
病室の白い天井を見上げながら、私は今日も完璧な咳をひとつした。
「コホン、コホン」
看護師の足音が遠ざかるのを確認してから、私は静かに上体を起こした。点滴スタンドを押しのけ、窓際まで歩く。足取りは軽い。当然だ。私は病気ではないのだから。
ここ、聖マリア総合病院の407号室に入院してから、もう三週間になる。診断名は「原因不明の慢性疲労症候群」。
なぜこんなことをしているのか?
答えは簡単だ。逃げるためだ。
外の世界には、私を待つものがある。会社では昇進試験が控えていて、実家の母は見合いの話を五件も持ってきている。友人たちは次々と結婚し、子どもを産み、幸せそうな写真をSNSに投稿し続けている。
みんな、私に期待している。
「頑張れ」「あなたならできる」「もう三十二歳なんだから」
その期待が、重い。
だから私は病気になることにした。誰も病人を責めることはできない。病人には優しくしなければならない。病人は休んでいいのだ。
窓の外を見ると、桜の花びらが風に舞っていた。四月。新しい季節。でも私はここにいる。この小さな病室という、完璧な避難所に。
そのとき、ドアがノックされた。
「失礼します」
聞き慣れない声だった。振り向くと、見たことのない医師が立っていた。三十代半ばくらいだろうか。細身で、どこか疲れた表情をしている。
「新しく赴任した医師の田代です。今日から、あなたの担当になります」
彼は私を見つめた。その目には、何か奇妙な光があった。
まるで、すべてを見透かしているような——
田代医師は、カルテも開かずに一歩、私のほうへ踏み出した。 その動きは静かで、音もなく、まるでこの病室の空気だけが異様に重力を失ったかのようだった。
「原因不明の慢性疲労症候群——」
彼は、私の診断名を口の中で転がすように呟いた。
「随分と、便利な病名ですね」
その言葉に、心臓が跳ねた。 汗が背中を伝う感覚がする。私は笑顔を保とうとしたが、頬の筋肉がわずかに強張るのを感じた。
「何か……問題でも?」
声が震えないように、意識的に低いトーンで応じる。
彼は首を少し傾け、まるで患者の反応を観察する生物学者のように私を眺めた。
「この三週間、あなたの検査データをざっと拝見しました」
彼はポケットから折り畳んだ紙を取り出し、広げることなく手の中で弄んでいる。
「血液検査、尿検査、脳波、MRI、心電図、唾液中のコルチゾール値——すべて異常値。さらに入院から一週間で体重が3キロ減少。これはどういう意味か分かりますか?」
私は何も言わなかった。言葉を探していたわけではなく、言葉を発する前に彼が何を言うのか、無意識に待ち構えていた。
「あなたは重篤な病気を患っているにも拘わらず……完璧と言っていいほど健康体のように見える。食事は摂り、睡眠も十分、皮膚は艶やかで、髪にも潤いがある。医学的には、理想的な状態に見えるのです」
彼は一歩近づいた。距離が縮まるにつれて、彼の瞳が輝きを増していくように見えた。喉が渇く。逃げ出したい衝動に駆られる。
「それでも...各検査の数値は異常値なんですよね先生?だったら私が入院するのは、当たり前......」
「あなたは病気じゃない」
田代は、私の言葉を切り捨てるように言った。 淡々と。 しかしその声音には、どこか“確信”を超えたもの——知っている者の響きがあった。
「あなたは逃げ場を必要としていた」
彼はそう言って、ポケットから何かを取り出した。
それは、白い封筒だった。 宛名欄には私の名前。 差出人欄には——
“聖マリア総合病院 臨床心理科 特別調査室”
そんな科、聞いたことがない。
「これはあなた宛に届いたものです」 と、田代は封筒を手渡した。 その瞬間、彼の指先がわずかに震えたのを私は見逃さなかった。
「驚かれるかもしれませんが……あなたがここに“避難”していることは、すでに把握しています」
私は息を呑む。 どうして? いつから?
田代は、桜の花びらが舞う窓の方をちらりと見てから、静かに告げた。
「あなたの“病気”は、あなた自身によって作られたものなのでは?」
封筒を握りしめた手が、わずかに震えた。指先に力が入りすぎているのに気づき、意識して緩める。その間に、田代医師はじっと私を見つめていた。観察されている、と感じた。
田代医師は眼鏡を白衣のポケットにしまい込み、ベッドの端に腰を下ろした。医師としては明らかに不適切な距離感だが、私は動けなかった。
「三週間前、あなたがこの病院に来る二日前」
彼は静かに語り始めた。
「あなたのスマートフォンに、一通のメールが届いていませんでしたか?」
心臓が跳ねる。
あった。確かにあった。
差出人不明の、件名のないメール。本文にはたった一行だけ。
『疲れたあなたへ。完璧な休息の方法を教えます』
私はそれをスパムだと思って削除した。はずだった。でも、なぜか記憶に残っていて、気づいたらそのメールに返信していた。
そのメールが、入院のきっかけとなった。
「覚えておられますか?」
「……ああ。確かにありました」
田代医師は少しだけ微笑んだ。
「"偽悪病患者支援プログラム"」
田代は重々しく言った。
「通称『イーヴィル・ペイシェント』。社会から逃避したい人々に、完璧な病気のシナリオを提供するサービスです」
私は思わず身体を硬直させた。口を開こうとしたが、うまく言葉が出てこない。
「あなたの症状、検査結果……全てがイーヴィル・ペイシェントによって無意識のうちに"プログラム"された可能性があります」
田代は静かに言った。確かに私はそのメールのやり取りで、さまざまな質問に答え、要求された指令をこなしていった結果、最後のメッセージにはこう書かれていた。
「これであなたは病気になりました。ゆっくり休んでください」
「冗談でしょう……?」
でも、心のどこかで納得している自分がいた。確かに、私は自然と「完璧な患者」を演じることができた。そして、周りも誰一人として疑わなかった。
「なぜ、あなたがそれを?」
私は尋ねた。田代は少し苦笑して、立ち上がった。
「実は」彼はゆっくりと言葉を選びながら語った。
「私も……かつて、そのプログラムの"受講者"だったからです」
窓の外で、風が強くなった。桜の花びらが激しく舞い、まるで何かから逃げるように空を駆けていく。
「そして今、私はプログラムから抜け出し、"特別調査室"の一員として、このプログラムを追っている。なぜなら——」
田代の声が震えた。私の腕をつかむ力が強くなる。
「このプログラムの本当の目的は、人々を単に休ませることではありません。彼らは最終的に——」
突然廊下から、看護師のカートを押す音が近づいてくる。田代医師は素早く、医師の表情に戻った。しかし、去り際に彼は私に小さく、しかし確かな言葉を残した。
「私と一緒に、このプログラムの正体を暴くか否か、考えておいてください。時間はあまりないかもしれません」
ドアが閉まる。
私の手の中には、まだ開封されていない白い封筒。
そして、自分の意思で選んだはずの「病気」が、実は誰かに用意されたものだったかもしれないという恐怖。
窓の外の桜は、もう散り始めていた。
封筒の端が、指の汗でわずかに湿っていた。 開けるべきかどうか、その判断すら誰かに操られているのではないか。そんな妄想めいた不安が胸の奥でふくらんでいく。
——トン。
ドアの向こうで誰かの足音が止まった。 看護師のカートではない。もっと軽く、もっと若い足音。 私は反射的に封筒を枕の下に押し込む。
「失礼しまーす。食事をお持ちしました」
現れたのは新人の看護助手、佐伯さん。まだ二十代前半だろう。小柄で丸顔の彼女は、いつも明るい笑顔で、この部屋に僅かな日差しのような温もりを運んできてくれる。そんないつも明るい彼女の声が、この瞬間だけ妙に不自然に聞こえる。 私は作り笑いを浮かべた。
「ありがとう。そこに置いておいて」
彼女は頷き、金属トレイを持って近づいてきた……が、途中でぴたりと足を止めた。 そして、壁の上部にある空調の吹き出し口をじっと見つめる。
「……あれ?」
「どうかしました?」
「あ、なんか……変な音、しません?」
私は耳を澄ます。 最初はなにも聞こえない。だが次第に、わずかな震動が空調の奥から伝わってきた。
——カチ、カチ、カチ。
機械的な規則音。 でも空調設備が出す音ではない。何かが内側で働いているような……。
「気のせいかな。 でもなんか……気味悪いから、メンテの人呼んだほうがいいかな……」
佐伯さんの表情が曇る。 私は慌てて言った。
「大丈夫よ。きっと埃か何かが引っかかってるだけ.......」
言い終える前に、 カチカチカチ——ッ! その音は急に早まり、まるで何かが内部で暴れているような異音へと変わった。 佐伯さんは青ざめ、後ずさった。
「やっぱりおかしいですよ!」
私はベッドから距離を取りつつ、空調口を見上げる。
すると—— 黒いものが空調の隙間に貼り付いていた。
最初は虫かと思った。 だが違う。 それは、四センチほどの黒い楕円形のデバイスで、赤いLEDが点滅している。 見覚えがあった。
——盗聴器。
なぜこんなタイミングで?胸の奥が凍りつく。
そのとき、空調の奥から、微弱な振動とともに“声”が漏れた。
『……聞こえていますか』
私は呼吸を止めた。 看護助手は気づいていないらしく、震えながらナースステーションに連絡しようとしている。
『次のステージへ進む準備は整いました。 残された時間は、あと——』
ビープ音とともに音が途絶えた。 同時に赤いLEDも消える。まるで録音メッセージを再生し終えたように。
佐伯さんは「とにかく呼んできます!」と逃げるように廊下へ駆け去っていった。
病室には、私ひとり。
私は枕の下から封筒を取り出し、しばらく見つめた。
——“完璧な休息”の次は、何が始まるの?
恐怖が、冷たい水のように体の中へ流れ込む。 でも、もう逃げているだけでは済まない。
私は封筒の端をゆっくりと裂いた。 白い紙がのぞく。
その一行目にはこう書かれていた。
『あなたは、選ばれた人間です』
背筋に電流が走る。 窓の外では、散りかけの桜の花びらが、不吉な螺旋を描いて舞っていた。
そのとき。 ドアの向こうで、また足音が止まった。
今度は——重い。 規則的で、軍靴のような、訓練された歩き方。
私は反射的に封筒を握りしめた。 心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
ノックは、なかった。
代わりに、鍵穴に何かが挿入される音。
ドアがゆっくりと開いた。
入ってきたのは、白衣を着た女性だった。四十代半ば、背筋がぴんと伸びている。首から下げたIDカードには「臨床心理科 主任 水島」と書かれていた。
「初めまして。407号室の患者さん」
彼女の声は穏やかだが、どこか機械的だった。笑みを浮かべているのに、目だけが笑っていない。
「水島と申します。田代医師から、あなたのケースについて引き継ぎを受けました」
引き継ぎ?田代医師はさっき、自分が担当になったと言ったばかりなのに。
「あの……田代先生は?」
「急な用事で病院を離れることになりまして」
水島は一歩近づいた。
「その封筒、開封されましたか?」
私は反射的に封筒を背中に隠した。
「まだ、です」
嘘だった。水島の視線が鋭くなった。彼女は明らかに、私が嘘をついていることに気づいていた。
「そうですか」
彼女は微笑んだ。
「では、私の前で開けていただけますか? プログラムの一環として、内容を確認する必要がありますので」
プログラム——彼女はそれを知っている。いや、むしろ関係者なのかもしれない。さっきの空調の盗聴器といい、彼女といい、この状況は偶然ではない。
「どうされました? 顔色が悪いようですが」
水島の声は優しさを装っていたが、その言葉には選択肢を許さない圧力があった。
彼女は白衣のポケットから、小さなタブレット端末を取り出した。画面を数回タップすると、私の病室の映像が映し出された。
それは——今、この瞬間の映像だった。
「驚かれましたか? この病室には、合計七台のカメラが設置されています。」
血の気が引いた。
「監視されていた……ずっと?」
「ええ。あなたがここに入院した瞬間から」
水島は淡々と続けた。
「『イーヴィル・ペイシェント』は、単なる逃避支援サービスではありません。私たちは、人々に実験を行い潜在能力を測定し、"本当の価値"を見つけ出すプログラムなのです」
「価値……?」
「あなたのような人材——高いストレス耐性を持ち、環境への適応力が高く、しかも自己抑制が強い——そういった人は、上位クラスになり得る資格を持っています」
水島は画面を切り替えた。そこには、三人の顔写真が並んでいた。
「彼らも、あなたと同じように能力を発現した方々です。今は私たちの組織で、新しい人生を歩んでいます」
写真の中の男女はみな、どこか虚ろな目をしていた。幸せそうに見えなかった。
「彼らは自ら選びました。社会のしがらみから完全に解放され、新しいアイデンティティで生きることを」
私の頭が混乱する。これは誘拐なのか、それとも本当に"選択"なのか。
そのとき、廊下から急な足音が近づいてきた。
ドアが勢いよく開き、田代医師が飛び込んできた。息を切らしている。
「水島! やめろ!」
水島は振り向き、冷たい目で田代を見た。
「田代さん。あなたはもう、この件から外れたはずでは?」
「外れたんじゃない。外されたんだろう!」
田代は私の前に立ちふさがった。
「彼女を連れて行かせはしない」
「あなたに止める権利はありません」
水島は冷静に言った。
「彼女は、すでに契約に同意しているのです」
「契約? 私は何も——」
「あのメールを開いた瞬間に、利用規約に同意したことになります。画面下部の小さな文字、覚えていませんか? 『本メールを開封した時点で、以下の条項に同意したものとみなします』と」
私の記憶を必死で辿る。確かに……何か小さな文字があったような気がする。でも、誰がそんなものを——
「そんなの無効だ!」
田代が叫んだ。
「法的に認められるわけがない!」
「法的?」
水島は笑った。
「田代さん、あなたもかつては理解していたはずです。私たちの組織は、法の外で活動しています。そして——」
彼女は再びタブレットを操作した。
画面に映ったのは、田代医師の写真だった。ただし、今よりずっと若く、別人のように生気のない表情をしている。
「あなた自身が、五年前に『イーヴィル・ペイシェント』で人生をリセットした一人なのですから」
田代の顔が蒼白になった。
「今の"田代優一"という人物は、私たちが用意した偽の経歴で医師免許を取得しています。あなたの本当の名前は——」
「黙れ!」
田代が水島へ駆け寄り、彼女の右腕を掴む。しかし水島は動じず、田代を振り払う。だが彼女の右腕が、細かく痙攣しているのが見えた。
「あなた.....使いましたね。発現した能力を」
「ああ.....あんたらに植え付けられた能力.....悪病を使ったんだ」
悪病……なんだそれ?私は聞いたこともない。ただ、この場の空気が明らかに歪んでいるのを感じた。明らかに、非現実的な何かが、目の前で起こっているように思えた。




