第二章:死神のお仕事
ノブに手をかけた瞬間、ドアが勢いよく開いて金色の影が飛び出してきた。俺は半身を開いて道を開ける。案の定、化け狐の舞椰が曲がれないナパーム弾の如く飛び出しズテーンとバランスを崩して転んだ。
「むっく!おかえり」
「その呼び方、許可してないから…」
「むっくが許したかどうかは関係ないのだよ♪」
舞椰は俺が帰宅すると、何度もあの調子で突っ込んできた。東京地検をはじめとして慣れない場所を沢山廻った三週間だった。相変わらず会話が成立しない舞椰がすぐに立ち上がる。俺が脱いだ靴を揃え、いつもの要領でキッチンまで誘導した。
「ジャーン!今日は奮発してモロヘイヤを入れるのです!名付けてモロラーメン!」
キッチンには韓国産の赤い即席ラーメンがグツグツ煮立ち、その横で不器用に千切られたモロヘイヤがスタンバイしていた。風呂を覗くと、お湯が湧いていた。俺はもう何年もチェーンの豚丼とシャワーで済ませてきた。舞椰との生活は徐々に俺の体温を高めてくれつつある。
「そんなに金は無いんだからな…モロヘイヤ、結構高いんじゃないの?」
「このモロヘイヤはボクさんからのプレゼントだよ!ほら、ボクさんって、歌い手活動してるでしょ?」
「お前、本当に歌詞とか覚えられるのかよ」
「ひどい!疑うの?」
「化け狐を信じろっていう方が無理だろ」
俺はリュックを放り投げ、床のクッションを調整した。安いローテーブルの足を広げると、舞椰が目の前に鍋を運んでくる。湯気がスパイシーな香りを漂わせながら、ほわりと部屋に広がる。
二人で手を合わせて「いただきます」と言った。
「むっく、今日どうだった?」
麺に息を吹きかけながら、おもむろに舞椰が聞いた。舞椰は感情の切り替えが早い。俺は不意を突かれて戸惑った。今日、判決の結果が下った。舞椰がずっと気にしていたことだった。
「…略式起訴らしい。罰金刑に留まった」
舞椰のラーメンを掴む箸が止まった。口がぽっかり開いていた。
「え!懲役じゃないなら…冥界の規則通り、まだ死神は続けられるのね!?本当に良かったーー」
「あぁ、うん…その件なんだけどーー」
お椀をテーブルの上に置いてから、打ち明けた。
「辞表…既に出しちゃってるんだ」
「ええっ!もう死神やらないの?…ごほっ!」
舞椰はむせたラーメンを必死で飲み込でいる。
「死神に戻ったら、俺はまた無惨な現場を飛び回り、大鎌で魂を引き千切っては冥界に納品するだけの…ノルマに支配される人生に逆戻りしてしまう」
「ボクさんだったら…一度で良いから、そんなに沢山の人を自分の力で動員してみたいと思うけどなぁ」
「歌を聞かせることと魂を刈り取ることは全然違うだろ」
舞椰は「どうなんだろうね」、と笑いながらスープを飲み干していた。
「東 室九郎さん、私がこれから下す決断、後悔させないでくださいね」
灰色のスーツに身を包む、聡明な検察官はそう言った。隣のタイプライターは眉を顰めていた。これからどうしたって、世間から色眼鏡で見られるのは避けられない。もう、ひっそりと暮らそう。俺は駆け抜けすぎたんだーー。
「ーーむっく、大丈夫?」
舞椰の声で現実に引き戻され、長く辛い三週間がようやく終わったと再認識した。仕事探しは明日からにして、羽を伸ばしたくなった。舞椰を初めて近所の街へ誘い出してみた。
「ちょっと羽を伸ばしに散歩へ行こうか」
「やった!何に化けて行こうかな♪」
「ややこしくなるから、そのまま来いって…」
***
一月の空気は冷たい。空に雲は無く、太陽が無遠慮に紫外線を放っていた。
家の近くの商店街には、100年を超える歴史がある。「三大銀座」なんて大袈裟な通称をひっさげて、色褪せた動物の描かれたゲートが通行人を迎えた。飲食店、雑貨屋、カラオケ、整体、スーパー、ケータイショップ。レトロな面構えの店が不揃いに連なり、マンションやアパートの並びと一体化している。
商う者。金を落とす者。遊びにくる者。暮らす者。単なる通行人。商店街には様々な人々の活気に溢れていた。窓から顔を出し洗濯物を干す主婦は、人の目を憚らず、騒音など気にしない様子だった。
そんな中、俺は突如、視界の中に違和感を抱いた。
舞椰はさっき鍋でラーメンを食べたばかりだと言うのに、ケバブ店とクレープ店を交互に指差しては飛び跳ねている。
今のはーー見間違えか?
「むっく?どうしたの。信号、青だよ?行こう?」
舞椰が俺の異変に気づいて振り返った。その後ろの人混みの上空に1つ、赤い数字が見えた。勘違いではなかった。
「死神の目が、戻ってるーー」
「え!?」
「大閻魔から認められた死神には見えるんだよ。死期が確定した人間の残りの時間が。その頭上に、カウントダウン形式で…」
真っ赤な数字と氏名ーー通称「終息時計」。しばらく見えていなかったのに。もう死神はやらないつもりなのに。俺は困惑していた。消えろ。そんな数字、もう見えなくていい。魂を狩る手の感覚を思い出してしまいそうになる。
「略式起訴だったから業務継続可能ってことで、大閻魔さんが戻してくれたんじゃない?」
「あのクソ大閻魔、俺の意志はお構い無しかよ…!」
「アヤカシの世界は、どこも人手不足だからねぇ。きっと戻ってきてほしいんじゃないかな」
「辞表まで書いて出したんだぞ…!」
「死神、辞めたいのに辞めさせてもらえないのウケるねぇ♪」
「ウケねーよ…!」
小さな交差点の向こう。駅に突き当たるまでずっと、商店街が伸びている。視界の中で数百名の人間が行き交い、人生を営んでいた。その中には数名、既に死期が確定している者がいる。
【02:21:35:16】イマダ・マサノリ
【05:08:46:33】ウエマツ・アイサ
3時間後だったり、5日後だったり。終息時計は今日も毎秒ごとに0へ向かって進み続けていた。死期は様々な必然の連鎖によって確定する。その特性上、ほとんどが数日以内から表記される。
アパートの窓の向こうで点滅する数字を見つけた。【00:00:00:00】スズムラ・ユウキ。
つい癖で右手を背中の後ろに回した。
その刹那、心臓がヒュンッと一泊打ち損じたような気がした。
上手く息が出来ない。脂汗が噴き出てくる。
「むっく、どうしたの…?」
「…何でもない。久しぶりの光景で少し疲れたみたいだ」
イップスーー。魂を狩る死神の大鎌を怖くて生成し損じたなんて言えなかった。視線の先で、スズムラ・ユウキの魂がふわりと浮遊し、別の死神の手で冥界へアテンドされていた。
おもわず魂の狩り跡に目が奪われた。半ば無理やり引きちぎったのだろう。肉体と最後まで繋がる「心のこり」の断面が不揃いで痛々しい。
死神の胸元には事故物件を多く取り揃える悪名高い不動産会社のエンブレムが見えた。最近は葬儀会社や緊急病棟に所属する死神が幅を利かせていたから、珍しい光景だ。社会の自然淘汰の原理は、死神の世界にも適用されていた。
ーー20XX年に厚生労働省が発表した人口動態統計によると、国内で年間175万人がその生を全うする。単純計算で毎日4800個の魂が冥界へ向かうことになる。一方で死神の人数にが限りがあった。人手不足の課題を解消する手立てはなく、大閻魔は「成果を上げろ、でも残業はほどほどに」と滅茶苦茶な論理を押し付ける。
刈り取り作業に手こずれば放置された魂は暴走し、ジバク化で地縛霊となって人間に災いをもたらす。魂の処理不行き届きで人間に与える悪影響をできる限り抑えること。それが死神の仕事だった。
数十メートル先に休めそうな公園を見つけたところで、舞椰が聞いた。
「ねぇねぇ、むっく、ボクさんの死期も見えているの?」
「見えないよ。まだ死期が確定していないからだろう」
「もしも見えたら、その時はボクさんの終息時計をストップさせてね!」
「死神は魂をアテンドするだけで、死期をいじる干渉はできねーよ」
確かに昨今の死神不足を考えれば、俺のような社畜気質の死神は大閻魔にとって都合が良い。でも俺は、まだ死神に戻るわけにはいかないと思った。
***
休憩に選んだ公園は都内では珍しく穏やかだ。金曜の昼間、公園には保育園帰りと思われる子どもたちと井戸端会議をする母親たちがいた。結局ケバブもクレープも買えなかった舞椰が隣でいじけていて面倒臭い…。
「折角のお出掛けだから美味しいもの食べたりしたかったのに」
「分かった分かった。帰るタイミングで腹が減ってたらな」
「ほんと!?」
どんな人生を送ってきたらそんなにコロコロと表情を変えられるのか。舞椰に関心していたのも束の間、サッカーボールを追う子どもたちが足を止め、「あっ!」と何かを指差した。ノスタルジックな音質のソレは徐々に公園へ近づいてきた。
時速15km/hくらいだろうか。振り返ると焼き芋トラックがイヤらしいほどにスロースピードでやってくる。「あら、どうします?」「いやぁ…ねぇ?」と、井戸端会議中の若ママたちは中身のないセリフで牽制し合っていた。園内からトラックへ向けて子どもたちが手を振る。フロントガラスに反射する光の加減で運転手の顔は見えない。ガッチリとした30代半ばの男性と見られる。
「焼き芋屋さんは子どもたちのヒーローなんだねぇ♪」
「そうだな、ってーーえ!?」
「焼き芋くださーーーい!!」
わざわざベンチの背もたれをカッコつけて飛び越えて、舞椰が遥か後ろへ駆けていく。お前が一番買う気満々じゃないか。そうツッコもうとした時、俺は息を呑んだ。
「なんで、このタイミングでーー」
思わず呟いた言葉は、誰にも聞かれぬまま冬の風に飛ばされた。トラックから降りた運転手は、綺麗な白い歯を覗かせて、舞椰や子どもたちに手を振り返す。
【00:03:19:47】ウラワ・ユウイチ
その命、残り3時間と少しーー。死期を示す「終息時計」がハチマキの巻かれた頭上で、真っ赤なカウントダウンを打ち続けていた。
***
「デザートのような甘さなら、シルクスイートですね。そしてーー」
「じゃあ、ボクさん、シルクスイート!」
「あ、全部説明しなくて大丈夫ですか?」
ウラワ・ユウイチが釜の中の芋をトングで転がし、冬でも健康的に日焼けした筋肉質な腕を見せつけた。舞椰は初めて会話する相手とは思えぬスピードでその距離を詰めていた。一番大きな芋が取り出され、厚紙に包まれる。舞椰はそれを受け取ると、嬉しそうに跳ねて笑った。
ウラワ・ユウイチが遠くの子どもたちにまた手を振る。昼めし時が近づいていた。母親たちに手を引かれ子どもたちはそれぞれの家へ帰り始める。
「二人で公園ですか?仲良しですね」
「えぇ、仲良しだなんてそんなっ!」
リップサービスを間に受ける舞椰が体をくねらせる。ウラワ・ユウイチは笑いながら、俺にも小ぶりの紅はるかを差し出した。
「初めましてのお客さんにはオマケです。何かのご縁だし、美味しかったらまた来てくださいね!」
俺が会釈してそれを受け取る時、軍手を外したウラワ・ユウイチの手が触れた。それにより脳内で通知音が鳴り【終息時計・インプット完了】と機械的なアナウンスがこだました。これで死を確認する通知を受け取れる。意識的にか、無意識的にかーー。仕事の癖がどうしようもなく体に染み付いている。
舞椰に紅あずまを預け、先にベンチへ帰るよう告げた。舞椰は直感的に何かを感じたのか、その場を動こうとしない。ウラワ・ユウイチは俺からお代を受けとって、そのまま離れようとしていた。俺の体は、死神の職務を拒絶する意志とは裏腹に、気づけば背中から大きな黒い羽を広げていた。
三週間ぶりの感覚だった。蒼白い光のベールで身を包み、地面から数センチだけ浮遊する。アヤカシの一族と、死期の確定した人間にしか視認できないーー死神モードをアンロックした。
「え…これは…?どういう仕組み…?」
ウラワ・ユウイチが目の前で目を丸くしていた。
「…ウラワ・ユウイチさんですね。」
「は、はいっ!?どこかでお会いしていましたっけ?」
その問いに、俺は穏やかに答えた。
「いいえ。今日が初めてです。ただし――」
ウラワ・ユウイチが唾を呑んで俺の言葉を待った。
「残念ながら、死神です」
ウラワ・ユウイチが一瞬凍りつき、無言で俺を見つめた。その後、ぎこちない笑顔を浮かべて言った。目が泳ぎ、動転している様子だった。
「あはは…面白いね。今、瞬時に変身するコスプレが流行っての?」
「今日の午後3時過ぎ、ウラワ・ユウイチの肉体ーーつまり魂のハコが再起不能状態になると確認がとれました」
「えーっと…うん…その、なんとリアクションしたらいいか…」
舞椰の息を呑む音が耳に届いた。アヤカシの一族には全て見えている。俺は舞椰に鋭い視線を送り、余計なことを言うなよと制す。
「え…」
ウラワ・ユウイチが僅かに地面から浮き上がる俺の足元に気づいたようだ。
「本当に…死神さん…ですか…?」
震え出すウラワ・ユウイチの声に、俺はゆっくり深く頷いた。
「その死は…食い止められるんですか?」
焦燥と期待が混じったその声には首を横に振って、通達を続ける。
「この死期は99%決まったことです」
ウラワ・ユウイチの顔に、脂混じりの汗が浮かんでいた。混乱した目で俺に訴えかけてくる。
「僕はどうして死ぬんでしょうか?」
終息時計には、死因が表示されない。死神はただ死後の魂を狩り冥界に連れていくことが仕事だからだ。
唯一、終息時計が進行する生前の人間に話しかける利点があった。それは、死後の魂を無理に狩らなくてもスムーズに冥界へ向かえるよう、魂と肉体を繋ぐ「心のこり」を細くしておけること。およそ3時間後、どこぞの死神がウラワ・ユウイチの魂を処理する時、作業が効率的に進むようになるだろう。もう死神はやらないと決めたのに、仕事を進める手が止まらなかった。
「生きているうちに、やりたかったこと、会いたかった人、伝えたかったこと。思い当たることはないですか?」
ウラワ・ユウイチはしばらく黙った後、ようやく言葉を絞り出す。
「今日で死んでしまうなら、先代の父に焼き芋トラックを終わらせてしまうことを謝りたい」
俺は無言で立ち尽くし、その続きを待った。
「実家に帰った妻と息子たちにも謝りたい。ギャンブル依存で家庭を壊してしまった。精一杯の贖罪の気持ちを伝えたい…です」
手放したもの、背負ったもの。ウラワ・ユウイチもまた、彼だけの物語を抱えて生きていた。
「実家、佐渡島なんです。新潟港から船で行く…」
離島の家族に直接会うことは叶わない。それは明白だった。ウラワ・ユウイチの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。舞椰はその涙の行方を見つめ、静かに地面に吸い込まれていくのを観察していた。
俺は黒い羽を閉じ、地面に降り立つと静かに光のベールを解いた。日常の景色が戻った。
「ーーあれ?煙が目に入ったかな?」
ウラワ・ユウイチは頬をつたう涙に気づき、それを手で拭い取る。目の下に軍手の煤の汚れが付着して混ざり、灰色の光を反射させた。舞椰はウラワ・ユウイチがお釣りを返そうとする手をズイっと押し戻し、ニッコリと笑って見せた。
「オマケの紅はるかの分も、ちゃんと払わせてよ♪ 好きな飲み物でも飲んで、ゆっくりしてね!」
舞椰は手をひらひらさせながら補足する。
「そうかい。じゃあ後で缶コーヒーをご馳走になるね。あ、お芋、熱々だからゆっくり食べてね!」
舞椰はずっと笑顔でウラワ・ユウイチを見つめている。
「あぁ、そうだ、大切な用事を思い出した!ちょっと早いけど、今日は店じまいだなぁ」
ウラワ・ユウイチは両腕を突き上げ伸びをした。舞椰が相槌を打った。
「うん、そうだね、それがいいよ♪」
公園のベンチで食べた焼き芋は、どちらもとっくに冷たくなっていた。
「焼き芋、食べやすい温度になっちゃったねぇ」
「3〜4分は魂と話したからな」
舞椰のシルクスイートを咀嚼する音が響いた。ねっとりとした甘さが口いっぱいに感じた後で、舞椰の嗚咽がゆっくりと漏れ出す。乾いた風が吹き、枯れ木の揺れる音の中、舞椰は祈るように短い言葉をつぶやいた。3時間後に命を燃やし切るトラック運転手に、その声が届かないことは知っていた。
***
15時43分、ウラワ・ユウイチの肉体が再起不可能状態となりましたーー。問い合わせてもいないのに、その声は一方的に俺という労働力へ通知を送った。間も無く現役の死神たちが持つ「死者リスト」にその名が追加される。結局あれから3時間ベンチに座り尽くした。舞椰は真っ赤に腫らした目をこちらに向けて、言った。
「…今、来たんでしょ。お知らせ的なヤツが」
「あぁ、冥界が通知を送りつけてきやがった。行く気なんてーー」
「行ってね…ちゃんと」
「大丈夫だって、数十分後にはノルマに追われた現役の死神がーー」
舞椰が俺のローブの端をギュッと握った。死神を始めた当初は、俺もこんなだった気がする。とっくに忘れた感情だ。それがどんな形をしていたのか、正直もう思い出せない。
「ーーったく、分かったよ。行きゃいいんだろ」
「ボクさん、先に帰ってるね。うんと美味しい料理を作って」
「即席麺だな。トッピング、特に無しでいいからな?」
「あい」
図太いのか繊細なのかーー絶妙に掴み切れない化け狐は、死神モードをアンロックして宙へ舞う俺を見上げて小さく手を振った。舞椰に怪しむ周囲の視線などお構いないで、見えなくなるまでずっと手を振っていた。
ソウル・リープ。ウラワ・ユウイチの顔、名前、死期を正確に脳内にイメージし、対象者の元へ瞬間移動した。さほど遠くない都内のコンビニの駐車場にその焼き芋トラックはエンジンがかかったまま停められていた。俺は死神の黒い翼を開いたままで近づき、車内を確認した。密閉されたトラックの運転席で蒼白い光の球体が漂っていた。ウラワ・ユウイチの魂だ。俺は刺激しないよう、そっと声をかける。
「ウラワ・ユウイチの魂ですね。これより冥界へアテンドします」
その球体は、再起不能になったウラワ・ユウイチの肉体と、俺の顔を交互に見遣る。置かれた状況を理解したようで、肉体と繋がる為の心のこりのか細い管をプチッと取り払い、ゆっくりこちらへ近づいてきた。急性のくも膜下出血だった。俺はその魂をそっと両手で包み込み、告げる。
「ご家族とは…話せましたか」
「家族にはしっかりと。オヤジは…繋がらなかったなぁ。まぁ仕方ないよ」
「どうか、あなたが穏やかに冥界へ辿り着けますように。責任を持ってお連れいたします」
「今日のこと、事前に教えてくれて、ありがとうね」
その場を離れ上空数十メートルから地上を見下ろした。かれこれ長時間居座る焼き芋トラックに、コンビニの制服を着た中年の男が近づく。「お客さん、買わないなら出てってね」そう言って何度か窓をノックした後、車中の異変に気づき110番を鳴らした。洗車されたばかりのトラックの荷台に『やきいもウラワ』のロゴがピカピカに映し出されている。
警察が駆けつけるのとほぼ同時に2体の死神が駆けつけた。双方はどちらがアテンドするかで口論を始めた。ウラワ・ユウイチの魂がとっくに肉体から離れていたと気付くのはしばらく後のことだ。あまりに迅速な処理。心のこりが大鎌で刈り取られた痕も無い。後日死神界で都市伝説として広まる、不可解な現場だった。
***
「死神ナンバー696、東 室九郎です」
「あぁ…は、入れ」
月がある辺り。灰色と朱色に光を放つ空の亀裂の、更に奥。そこにやっと冥界の入り口がある。門番たちは困惑していた。当然クビだと思った俺がまたここに来たのだから無理もなかった。コード番号通りに粛々と魂を整頓・管理するアーカイブセンターに辿り着き、ウラワ・ユウイチの魂を納める手続きを済ませた。「心のこり無し、ジバク化・クレームリスク極めて低…と」。担当が書類に納品時のスペックを書き込んで分厚いファイルに入れていく。ペーパーレスという発想が乏しい。この業界は全く合理的じゃない。
俺の冥界入りを聞きつけた大閻魔の側近・司命がやってきた。布から目だけを覗き、その小さな風体で俺を閻魔堂へ導いた。その重い鉄の扉を開くと、相変わらずバカデカい図体でそいつは姿を現す。大閻魔が心地良さそうな鉄鋼の椅子に座っていた。
「ハッハッハ!東 室九郎、やっぱりお前、狂ってるよ!最高だわ!」
俺の10倍はある巨体が震え、堂内の空気が揺れた。大閻魔が手を叩く度に壁がジンジンと振動音を発している。急な角度で見上げ続けると首が軋むから閻魔との会話はあまり好きじゃない。
「現世で精神がイカれたお前の為に、へなちょこの妖狐が一芝居打って減刑ーー。確かに禁固刑ではないから即刻解雇の対象ではないがーーお前の辞表はあの媒介区役所にもう受理されちまったぞ。もう手続きが進んでいる!」
やはり遅かったかーー。名実共に職場を失った俺はついに立ち尽くす。
「それなのに…ワシが死神スキルを試しに返還したまさに当日!お前はノコノコと魂を納品しにまた冥界へやってきた!やってきちまったんだ!ハッハッハァー!おめぇ、筋金入りの死神サイボーグじゃねーかよ!」
こいつこそが、俺をぶっ壊れるまで死神として追い込んだ張本人だった。確かに、もう協力などする気がないのに、なぜ俺はまたここにいる?
「魂を納品する達成感を思い出しちまったろう。お前に花屋?工場?無理無理!死神の動きしか出来ない、潰しの聞かないお前はーーーこれからもワシの為に魂を納品し続けるんだよ」
あの職場には戻れないはずーーイマイチ話が読めなかった。
「喜べ。仕事の腕はワシが認めている…『死亡者リスト』は機密情報だから与信の足りんお前には共有できんが…」
大閻魔が嬉しそうに電卓を叩き打ち、その数字を見せつけた。こいつが嬉しそうな顔をしている時、マジでろくなことが起きない。
「一件あたり、これくらいでどうだ。お前の実力ならタワーマンション暮らしも夢じゃないんじゃないか?」
「はぁ…というと…」
俺の力無い相槌とは裏腹に、大閻魔は突然その場で立ち上がって叫んだ。冥界全域が揺れる。司命も思わず耳を塞いだ。俺は大閻魔が叫んだ言葉の意味をいまいち掴みきれなかった。しかし確かにこう聞こえたわけでーー。
「冥界史上初の『フリーランス死神』に任命する!労働基準法の適用しないカオスな世界で無限に働き続けよ!東 室九郎ぉおおーーー!ワハハハ!」
どうやら最悪の状況に陥ったことに気付いた。コイツといると俺はダメになる。絶対に死神なんて続けるもんかーー俺は改めて花屋になる夢を固く誓った。
***
自宅に戻ると、舞椰がベッドの隅で壁側を向き、静かに横たわっていた。舞椰は、居候のくせに頑なに床で寝なかった。玄関を開けた時、舞椰が飛び出して来なくて拍子抜けした。鍋にはオクラと謎の葉っぱが盛られ、その下に伸び切った即席麺が覗いていた。
三週間ぶりに死神スキルを行使した感覚がまだ体に染み付いていた。舞椰を起こさぬよう、ベッド手前のスペースにそっと身を捩る。舞椰が目を閉じたまま寝返りを打ち、こちらに擦り寄って俺の心音に耳を澄ます。
「どうして最初から終わるのが確定しているのに、生まれるんだろうねぇ…」
いつもなら蹴り飛ばするところだが、静かに啜り泣きながら寝言を囁く化け狐を起こすと面倒くさそうなのでやめた。
生まれること。
死ぬこと。
全ての生命体に共通して訪れるたった二つの平等なイベントだ。ウラワ・ユウイチの二つ目のイベントが今日だった。それだけのこと。人間は、悲しいとか、早すぎるとか、いちいち感想を添えて意味をつけようとしたがる。
舞椰のシャンプーの匂いを感じたから、自分がまだシャワーを浴びていないことに気づけた。俺は今日、フリーランスの死神になった。これから身に降りかかるあれこれを想像するのがあまりに面倒で、瞳を閉じた。ウラワ・ユウイチに手を振る舞椰は、最後まで満面の笑顔を見せていた。