第4章 新たな陰謀の影
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裁定の勝利から三日後、王都は静けさの中に微かなざわめきを孕んでいた。
アリア=フォン=リーデルは、執務机に並べられた報告書に目を通しながら、紅茶を一口含む。手元の茶器はかつて社交界で流行ったミネルヴァ焼だが、その華美な意匠にも彼女はもはや心を動かされなかった。
「……王太子の国外左遷も決まった。リリアーナ嬢の勘当も正式に発表された。裁定は終わったはず、なのに」
彼女の脳裏に残るのは、リリアーナが最後に呟いた一言だった。
「私だって、ただ言われた通りにしただけなのよ……あの人の、命令に」
“あの人”とは誰か。
自分を陥れた黒幕は、まだこの王城の中にいる。
ノックの音。
「アリア様、ユリウス様がお見えです」
「通してちょうだい」
ユリウス=グレイアムは、王妃付きの法廷魔導士。知性と冷徹を兼ね備えた男であり、先の裁定ではアリアの論戦を陰から支えた盟友でもある。
「こんにちは、侯爵令嬢。あなたの望んだ“正義”は、どうやら誰かの逆鱗に触れたようです」
「具体的に、誰の?」
ユリウスは手帳を開き、ある一族の名前を指差した。
「ギャラハント侯爵家。財務官僚として宮廷の財布を握っている。リリアーナ嬢の遠縁にあたる人物です」
アリアの瞳が細くなる。
「――彼が裏で糸を引いていた?」
「可能性は高い。あなたが“誓言裁定権”を使ったのを、彼は危険視しているはず。封印された法が再び使われた。つまり、貴族たちの“古い罪”もまた掘り返される可能性が出てきたから」
アリアは静かに椅子から立ち上がる。
「なら、掘り返してみましょう。誰がこの国の正義を捻じ曲げようとしているのか」
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その夜、アリアは王宮の文書管理室を訪れた。
普段は閲覧に貴族議会の許可が必要なはずだが、彼女には「特例」があった。
王妃カトレアからの、個人的な許可状である。
松明の光が、積み重ねられた羊皮紙の山を照らす。
そしてその中に、アリアは“おかしな帳簿”を見つけた。
「これは……医薬費の過払い? 王室御用達の薬剤師ギルドに、三倍の金額が振り込まれてる」
しかも、それはリリアーナが王城に正式に招かれた直後から始まっていた。
「つまり、王族に取り入るために、裏金のようなものが動いていたってこと?」
さらに調べを進めると、“教育部門”に関する記録も奇妙だった。
王立学園の修繕費用や、奨学金制度に関する予算が、なぜか「ギャラハント家」経由で処理されている。
アリアは息を呑んだ。
「この一連の流れ……政敵を貶めるための資金源だわ。リリアーナも、王太子も、ただの駒にすぎなかったのかもしれない」
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部屋を出たところで、誰かの足音が響いた。
慌てて書類を隠した直後、現れたのは――ユリウスだった。
「まさか、あなたが来るとは思ってなかったわ」
「僕も同じです。……ただ、今夜は警告に来た」
「警告?」
ユリウスの顔がいつになく真剣だった。
「これ以上この件に深入りすれば、あなたは“法”に守られる存在ではなくなる。貴族の内情に斬り込む者は、“反逆者”として処理されるのがこの国の慣例です」
アリアは、ほんの一瞬だけ迷った。
けれど、それはすぐに消えた。
「それでも私はやるわ。名誉を取り戻すだけじゃ、満足できない」
「正義を、終わらせたくないの」
ユリウスは目を伏せた。
「……ではせめて、敵の顔が見えるまで、単独では動かないでください」
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その夜。
ギャラハント侯爵家の執務室では、一人の男がワインを傾けていた。
顔は闇に沈んでいる。だが、指先で弄ぶ銀貨に刻まれた“王の紋章”が、それとなく彼の権力を示していた。
「リーデル家の娘か。面倒なことをしてくれた」
男は、銀貨をカチリと机に置いた。
「ならば――“事故”として処理するまで」
翌朝、アリアの部屋の扉が激しく叩かれた。
「アリア様、大変です! リーデル家の使用人が、王都郊外で襲われました!」
「何ですって……?」
急いで身支度を整えたアリアは、現場の報告書を確認した。
襲われたのは、文書管理室での調査に関わっていた使用人だった。命に別状はなかったが、持っていた調査資料は奪われ、馬車は燃やされていた。
「……これは明らかな脅し。私に手を引かせるつもりね」
彼女は冷静に分析しながらも、内心では怒りを募らせていた。
ユリウスが部屋に現れた。顔には見慣れない焦燥が浮かんでいる。
「敵が先に仕掛けてきたな。しかも手際が良すぎる。王宮警護隊すら出遅れた」
「ギャラハント侯爵の手の者かしら?」
「……あの家の諜報部門は王国随一。証拠は残さない」
アリアはゆっくりと深呼吸をした。
彼女の目に、覚悟の色が宿る。
「ユリウス。私に、裁定を開く権利はまだ残っている?」
「法的には――ある。ただし、今度は“貴族政治に対する越権行為”と見なされるかもしれない」
「いいわ。それでも、ギャラハント家の不正を裁く裁定を申し立てる。堂々と、法の場で」
ユリウスは沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「……ならば、準備はすぐに始めよう。君がこの国の“法”を貫ける唯一の存在であるうちに」
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王都中央裁定庁――その建物は、本来ならば貴族同士の争いを「形式的に裁く」ための飾りのような場だった。だが、今やアリアの登場によって、この場所は権力の不正を暴く戦場となりつつあった。
申立書の提出から二日後。
アリアは、再び裁定室の中央に立つ。
「本件は、ギャラハント侯爵家の国家資金横領および偽造文書による貴族名誉毀損に関する裁定です」
陪審の一人が目を細めた。
「このような大貴族に対しての裁定が正式に受理されたのは、数十年ぶりだ」
アリアは微笑を浮かべる。
「だからこそ、歴史を変える価値があると思いませんか?」
この時、彼女の手には一冊の「裏帳簿」が握られていた。
それは、かつてギャラハント家の帳簿管理をしていた老臣が密かに保管していたもの。アリアの調査と人脈により、密かに手渡された“証拠中の証拠”だった。
会場がざわつく中、奥の席に座る黒衣の男が、唇を歪めて笑った。
ギャラハント侯爵本人だった。
「ふん……小娘が、法を語るとは。滑稽だな」
だが、アリアは一歩も引かなかった。
「侯爵。貴方が笑っていられるのも今のうちです。貴族であろうと、法の前では等しく裁かれます」
その瞬間、廷臣の一人が密かに抜け出し、どこかへ駆けていった。
新たな策略が動き出していた――。
裁定庁の天井に光が差し込み、場内を照らしていた。
静寂。
その中で、アリアの声だけが凛として響いていた。
「ギャラハント侯爵が王立財務室を通じて操作していた裏金の流れ――すでに証拠として裏帳簿を提出済みです」
彼女はゆっくりと歩み出て、陪審席に向き直る。
「この帳簿には、薬剤ギルド、建築工匠組合、さらには王立学園への修繕名目の資金が、全てギャラハント家傘下の企業に還流していたことが記されています」
陪審員たちはざわついた。
公文書には記録されていない、しかし整然と記された“非公式の帳簿”。
「これだけでは証拠として不十分だ」
ギャラハント侯爵は冷ややかに笑う。
「文書などいくらでもでっちあげられる。書いた者を連れてこい。さもなければ、誹謗中傷として逆訴訟を起こす」
アリアは待っていたかのように、言った。
「それでは――証人を呼びます」
廷臣が扉を開けた。
静かに歩み入ったのは、一人の老人だった。
背中は丸まり、髪は白く、だがその目には揺るがぬ光があった。
「この方は、ギャラハント家に三十年仕えた帳簿役、リュシアン・ヘルヴェです」
場内に緊張が走る。
侯爵の顔色が一瞬で変わった。
「……ヘルヴェ、お前、生きていたのか」
「侯爵。私は貴方に口封じの金を渡され、家族と共に辺境へ追いやられました。だが、貴方が令嬢を陥れる姿を見て、黙ってはいられなかった」
ヘルヴェの声は、老いてなお確かなものだった。
「この裏帳簿は、私が書いた。間違いなくギャラハント家の命で、偽装を重ねた記録です」
静寂。
陪審員たちは顔を見合わせ、そしてゆっくりと頷き始めた。
公正と中立を誓う彼らにとって、決定的な一撃だった。
「ギャラハント侯爵。貴方の答弁を求めます」
裁定官の声が厳しく響く。
侯爵は立ち上がったが、もはや虚勢を張る余裕はなかった。
「……すべては、国家の安定のためだ。私財を増やすためではない。王室のために、必要な“政治的調整”だったのだ!」
「それを決めるのは貴方ではありません」
アリアの声は鋭く、そして誇り高かった。
「この国に必要なのは、“誤魔化し”ではなく、“透明な正義”です」
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三日後。
ギャラハント侯爵は王都貴族議会から全ての公職を剥奪され、国外追放処分となった。
その夜。
アリアは王宮の小さな庭園でユリウスと再会していた。
「……思っていた以上の成果ですね」
ユリウスは、珍しく笑みを浮かべていた。
アリアは静かに言った。
「でも、ここで終わりじゃないわ」
「ええ。むしろ始まりでしょう。あなたは、“法を使って貴族社会を正した最初の令嬢”として、記録されることになる」
アリアは星空を見上げた。
王都の空は静かで、それでいて確かに変わり始めていた。
「次は……誰のために戦おうかしら」
「その問いを持ち続けていれば、あなたは何度でも“逆転”できる」
そして、彼女はゆっくりと笑った。