第1章 断罪の宴
王城の大広間には、まるで芝居でも始まる前のような、妙な緊張と浮き立った空気が漂っていた。
煌びやかなシャンデリアの光の下、上級貴族たちが静かに、しかし好奇と侮蔑をないまぜにした視線で、中央の少女を見下ろしている。
侯爵令嬢アリア=フォン=リーデルは、真紅の絨毯の上に一人、立たされていた。
「侯爵令嬢アリア=フォン=リーデル。そなたとの婚約は、ここに破棄とする」
玉座に座した王太子セドリック=オルディナ=レオンハルトの声が、高らかに響いた。
空気が震えた。
重厚な王族の声、集まった貴族たちのざわめき、そして少女の心の中で、何かが音を立てて崩れていく気がした。
「理由は明白だ。そなたが、私の愛するリリアーナ嬢に対し、悪意ある中傷といじめを行ったからだ」
その名が出た瞬間、アリアの視線が静かに向けられた。
玉座の横に立つ少女――リリアーナ=エデルミーナ。
彼女は金の巻き髪を揺らし、袖口で目元を拭っていた。
「ひどいですわ、アリア様……。わたくし、何もしておりませんのに……っ」
細く震える声。涙。小さな肩が揺れている。
まるで絵に描いたような、“被害者”だった。
「この場には証言もある。いじめの内容を書き記した手紙、複数の侍女の証言。すでに貴族評議会も確認済みだ」
セドリックは冷ややかな目でアリアを見下ろした。
アリアは沈黙していた。
それがまるで罪を認めたように見えたのか、集まった貴族の誰かがくすりと笑う。
「悪役令嬢の断罪劇、開幕かしら」
「よもや本当に“手を出した”とはな」
「まぁ、王子様がリリアーナ嬢をお選びになるのも当然ですわよねぇ」
冷笑、侮蔑、憐れみ――否応なく耳に飛び込む声に、アリアの瞳がわずかに伏せられる。
(なるほど。そう来たのね)
頭の奥が、じんじんと熱を帯びる。
(そうだった。私は……)
アリアは自分の中で、確かに何かが目覚めるのを感じていた。
⸻
《弁護士・綾瀬律子。東京地裁、民事第四部担当。弁護実績76件、勝率92パーセント》
オフィス街の喧騒。プレゼン資料の山。証拠写真。ICレコーダー。被害者の涙。加害者の嘘。
――そして、過労。連日の深夜帰宅。栄養ドリンクと頭痛薬。職場の天井。
《あのとき、私……死んだのね》
灰色の空と、救急車のサイレンの残響。
アリアの脳裏に、前世の記憶が洪水のように押し寄せる。
(あの世界で私は、「法」で戦った。正義と嘘を区別するために。理不尽な社会を変えるために)
そして今、この世界。
理不尽な“断罪”を前に、令嬢として黙って吊られる?
冗談じゃない。
彼女はゆっくりと顔を上げた。瞳の奥には、かつて法廷で戦った“戦士”の冷ややかな光が宿っていた。
⸻
「異議あり」
その一言は、すべての騒音を、沈黙に変えた。
「――なに?」
セドリックが一瞬、眉をひそめた。
「私は、その婚約破棄と断罪を認めません。むしろ、逆訴訟を求めますわ」
「そ、訴訟だと?」
「ええ。“婚約破棄”には根拠が必要ですわ。誓約破棄には罰則があると、貴族法第十六条にも記されております。……もっとも、皆様は普段読まれていないのでしょうけれど」
にっこりと、微笑む。
王族、貴族、廷臣、全員が固まった。
「あ、あなたに、そんな権限があるはずが――」
「ありますわよ。誓言裁定権――かつてこの王国に存在した、民間に対する名誉回復制度。侯爵家リーデル家は、その裁定官の家系。私には、その申請権があります」
「な……!?」
騒然とする場内。
その中央で、アリアは一歩、絨毯の先へと踏み出した。
「私は、この場で“名誉棄損と誓約破棄による損害”を訴えます。王太子セドリック殿下、およびリリアーナ=エデルミーナ嬢――あなた方に、“嘘を告げた罪”を問いましょう」
場内は一瞬でざわめきに包まれた。
「何を言い出すのだ、アリア」――声が怒気を帯びる。
「そんな古い制度など、もう存在しないはずだ」
王太子セドリックは、王座の奥で険しい表情を浮かべた。
しかし、王妃カトレアが静かに立ち上がった。
「待ちなさい」
その声には威厳があり、会場のざわつきを一瞬で鎮めた。
「誓言裁定権は、確かに長らく使われていなかった。だが法としては残っている」
「民間の権利を守るため、名誉回復のために使われることもある」
「私は、この令嬢の申し立てを受け入れる」
会場の空気が一変した。
王妃の支持により、アリアの「裁定請求」が公式に認められたのだ。
「これより暫定的に、王宮の一角に裁定室を設け、双方の主張を審理する」
王妃の言葉に、貴族たちは半信半疑の面持ちで頷いた。
アリアは内心で拳を握りしめた。
(これが、私の戦いの始まり――)
⸻
その夜。
王城の重厚な石壁に囲まれた一室で、アリアは文書に目を通していた。
「婚約破棄の根拠は、リリアーナの被害証言といじめを記録した書簡」
「だが、その手紙の筆跡には疑いがある。細部を分析すれば、偽造が判明するだろう」
隣室からは、王太子側の廷臣たちの動揺する声が聞こえる。
「異世界の法律家が相手とはな……」
「今までの常識は通用しない」
アリアは笑みをこぼした。
「理論と証拠。これが私の武器。貴族の虚飾には、もう騙されない」
⸻
翌日。
王宮に仮設された裁定室で、最初の弁論が始まった。
貴族や廷臣が見守るなか、アリアは毅然と立った。
「まず、証拠とされる手紙の筆跡検証について指摘します」
「この手紙は、私の筆跡とは明らかに異なります」
「そして、いじめとされる行為の時間軸にも矛盾があります」
アリアは現代の弁護士時代に培った理詰めで、詳細な論点を次々と示した。
それは、貴族社会にとっては未知の論法だった。
対する王太子側は慌てふためき、言葉を濁した。
「だが、この手紙はリリアーナ嬢の証言と一致している」
「それが証拠だ」
アリアは冷笑した。
「証言は感情の産物。筆跡と物証に勝るものはありません」
法廷魔法の専門家、王妃の腹心ユリウス=グレイアムが静かに立ち上がった。
「筆跡検証魔法を用い、真偽を判定します」
魔法の光が文書に走り、筆跡の真偽が浮き彫りになる。
「この手紙は偽造と断定します」
会場から驚きの声が漏れた。