10+306 疑い
母性という言葉がある。自分よりも小さなもの、弱いものを守りたいと思う感情のことを指し、特に我が子には最大級の情動でもって発露されるらしい。生まれた時から備わっている機能なのか徐々に養われるものなのか。いずれにしろ私には縁遠い。
父性という言葉がある。母性同様、子どもの成長に不可欠な環境要素の一つとされ、励まし、見守り、独立心を促すための装置として機能するという。
母性は女、父性は男に帰属するらしいが、あの男の持つ特性は母性ではないかと私は思う。
* *
ネコと別れてワシの駅に戻った時、改札は薄暗く、構内の電気が切られていることが遠目にもわかった。
ワシの駅で電気が使えるのは、駅の頭首のクマタカが不在の時だ。反対に電気が使われていないことは、クマタカが帰駅したことを意味する。男たちが駅を発ってからそれほど時間は経っていない。夫は今日は塔に行くと言っていたから、運が良ければ帰りは明日以降になることも期待したのに何故。私は大急ぎで改札に飛び込んだ。
そして駅の構内の狂騒に思わず立ち止まった。誰もが松明を片手に走りまわっている。壁際の燭台に火を灯せばいいだけなのに、そんな手間さえ失念してしまうほど、ワシたちは慌てふためいていた。
「何があったの?」
すれ違いざまの女を呼び止め事情を聞く。
「そんなのこっちだってわかんないわよ!」
女は感情的にまくしたてて走り去った、私をノスリの女と知らないはず無いのに敬語さえ使わずに。
女だけではない。行き交う誰もが明らかに動揺し、興奮し、恐怖を覗かせている。アイが消えたことと関係があるのだろうか。あの後の状況をヨシキリにでも説明させたかったが、男たちが帰って来ているならばあの娘を探している時間など無い。私は一目散に自室に走った。
閉ざされた扉を開くと目の前に夫が立っていた。鼻からぶつかりそうになった私は慌てて踵で踏ん張る。通路を右往左往していた男女同様、夫も松明を手にしていた。反対の腕には息子。
「かっか!」
息子の声と共に夫が振り返る。
まずい。夫よりも後の帰宅などあってはならないのに。どこにいて何をしていたか、嘘だとは証明のしようがない作り話を頭の中で練り上げる。だが自分の着衣の乱れを思い出して、作りかけた作り話を削除した。汗が噴き出る。髪も整えていない。こんな姿になる原因を含んだ日常を『ノスリの妻』は送っていない。
床に下ろされた息子が抱きついてきた。息子の頭を撫でながら今後の対策を考える。自分の迂闊さを呪い、想定外の出来事を想定しきれなかった無能さを怨みながら、夫を殺すか、息子ともども殺すかを考える。
「かっか?」
その位置は殺しにくい。両方一気に仕留めるためには、先の場所に戻ってほしいのに。気付かぬうちに細めていた目で無邪気な視線に微笑み返せずにいると、夫の手の平が伸びてきた。
「大丈夫か」
何が?
「お前は何もされてないか?」
何をされた可能性を聞いているの?
「………あなた、は?」
適切な回答が思い当たらない時は逆質問。子どもでも知っている安易な手段で何とか返すと、
「俺は問題無い。でもイヌワシがやられた」
さらに想定外の回答をよこされた。
『やられた』? 攻撃を受けたという意味か? 誰から、どこで、いつ、何故、どうやって。
「い…ぬワシさんの容態は?」
「『ようたい』?」と聞き返され、こんな単語さえこの男には難し過ぎる言い回しだったと知る。
だがまだいける。まだ夫は気付いていない。まだ夫婦関係は使い続けられそうだ。
糸口を探せ、打開策を見つけろ、動揺するな、平静を装え、
「今はどんな様子なの?」
まずは状況把握に徹さなくては。
「発狂っつうのか? とにかく暴れて叫んで手に負えなくなっちまった。とりあえず縛ってハチクマたちが見張ってる」
「発狂!?」
素っ頓狂に聞き返してしまって、慌てて口を閉じる。絶対に怪しまれたと思ったが、
「お頭の機械を覗き込んだりするからだよ」
私の懸念は杞憂に終わったらしい。夫は鼻筋に皺を寄せて横を向きながら松明の火を燭台に移し、手元の火を吹き消した。
『お頭の機械』とはクマタカが常に持ち歩いている薄板のことだろう。クマタカは駅の電気を落としている間も、しばしあれでアイと会話している。地上でも使えるらしいからクマタカ専用の携帯式アイといったところだ。
ではアイがイヌワシを何らかの方法で攻撃したということだろうか。一度消えたアイが攻撃的になって復活したのか?
「……お頭は?」
私が尋ねると夫は「大丈夫だ」と即答した。
「何もされてなかった。お頭は『選別』でいる方だったんだろ。けどイヌワシが弾かれた理由がはっきりしないし、『選別』基準も曖昧だ。現にハゲワシも何もされなかったけどイヌとハゲの差なんて何かあるか? お頭が機械の電源切ったからイヌ以外はやられなかったけどそのせいであれが何なのかはわからず仕舞いだし…」
「『選別』?」
夫の話に混乱を隠しきれず、口をついた言葉さえ気づかないまま私は頭の中を整理する。
アイがワシの男たちを『選別』した、クマタカは『選別』によって『いる方』だったから何もされず、そうでなかったイヌワシは攻撃を受けて発狂した。
『いる』は『要る』か? おそらくそうだろう。
しかし『選別』の基準は夫たちにもわからなくて、イヌワシ以外の犠牲者を出さないためにクマタカによって駅の電気は落とされた。いや、クマタカが落としたのはあの薄板の電源の方かもしれない。そして駅でも同じことが行われ始めたと考えた男たちは、塔へ行くはずだった予定を変更して急遽帰駅した。流れとしてはこんなところだろう。
だが不明な点はまだある。駅の電気が落とされていた理由は判明したが、アイが突如として男たちを攻撃し始めた理由が皆目見当もつかない。
アイは私たちを徹底的に監視する。本当は管理もしたいのだろうけれども塔のような設備も電気も不足しているから、ワシの駅では監視と口出し止まりだった。
しかしアイの監視は私たちの安全確保が目的だったはずだ。現にアイはそう言っていたし、実際にそうなのだろうことを私も肌で感じていた。そのアイが攻撃?
―アイは皆さんが大切です―
どうも腑に落ちない。
「アイはどうしてそんなことを」
私は呟くように疑問を投げかけた。恐らくこの男は答えられないと知りながら、会話としては自然な受け答えだと考えたからだ。
しかしそれは墓穴だったらしい。
「は?」
夫から想定外の反応が返ってきた。
「アイじゃねえよ。アイは消えただろ。それからあれが出てきたんだろ?」
夫が当然と言わんばかりに私を否定した。その目に訝りの色が差す。
アイじゃないのか? あれとは何だ? 自分の過ちに気付いた時には取り返しのつかない事態になっていた。
「……ウ、お前今までどこにいた」
半面を炎に照らされながら、夫が刺すように私を見る。
「……え?」
動揺を押し殺して、本気で何を言われているのかわからないと言わんばかりに私は夫を見つめ返す。
「惚けんな。今までどこにいたって聞いてんだ」
しかし夫の不審は拭えない。
「お前、駅の外にいたんじゃねえのか? でなきゃ『あれ』を見てない訳ねぇだろ」
夫の視線の鋭さが増す。控えめだった声量が増していく。
「よく見りゃ服も汚ぇし髪も乱れてるし何をしたらそんなになるっつんだよ」
齟齬を探すように、汚物を蔑むように睨み下ろして、
「なんで駅の外にいた? 何しに出てた? 亭主の不在中にお前はどこで何してたって聞いてんだろ答えろッ!!」
夫は私を怒鳴り付けた。
息子が涙ぐむ。夫から隠れるように私の後ろに回り込み、ぎゅっと上着を握りしめる。
「おい、ウ!!」
夫が迫る。二の腕を掴まれる。逃げ場のない男の腕力の中で、
「………ごめんなさい」
怯える女の声で私は言った。




