10+298 ネズミ
「いったぁ……」
痛みを口にしながらネズミはその場で胡坐をかく。開腹口からは小腸が垂れさがり、ゆっくりと伸縮を繰り返す肺の奥で、小刻みに脈動する心臓が覗いている。三本脚にその体勢は難しくないか、とヤマカガシは変なところを気にしながらその姿を凝視していた。
別に珍しくはない。ヤマカガシだってヘビの端くれだ。開腹手術も負傷者の処置も、一通りのことはそれなりにこなしてきた自負はある。
だが開腹中に動く者などいない。確かにこの男には麻酔も何も使っていないが、それでも全く動かなかったのだ。だから思う存分観察ができたのだ、動かなかったから。それなのに。
胡坐をかいたネズミは、気だるそうに左側の腕の一本を胸前に持ってきた。じっと手の平を見つめると、やがてその中に右側の手の指先を突っ込む。顔を歪め、歯を食いしばり、咳払いのような気合いの声と同時に右側の手は何かを掴んで引っ張りだした。
ネズミが息を吐く。引っ張りだした何かを面白くもなさそうに眺めて指先で潰し、
「コジネズミ……」
鼻で笑って床に投げ捨てた。
転がって来たそれがひしゃげた銃弾だと気付いた時、ヤマカガシはそれが何を意味するのかを考えようとした。しかし頭は全く働かない。使い過ぎた後の原動機みたいに熱くなった頭部とは裏腹に、首から下は悪寒に震えて硬直する。
抉れた手の平を見下ろしていたネズミが、「ん!」と言って三つの眼球を細めた。するとみるみるうちにその手の平の穴は塞がったから、ヤマカガシは混乱の極みに陥る。
「トガちゃん」
ネズミが目尻を下げて笑った。ヤマカガシはびくりとする。びくりと不随意に動くのに、随意的には動けない。
ネズミは次に、開腹された胴体を見下ろした。大きく深呼吸すると再び気合いを込めるような音を発し、肩を怒らせ顔を赤らめる。と、開腹部位はじたばたと動き始めた。
垂れさがっていた小腸はあるべき場所に引っ込み、切られた皮膚は伸びるように這うように、隣り合った相手を見つけるべく蠢いて触れあって、やがて手を取り合うように結びついて口を閉じる。後に残ったのは傷痕も何もない、まっさらな男の肌だけだ。
「……これか」
ネズミが息を切らせながらぼやく。
「これはきついわ、シチロウ」
何のことだ?? 何を先からぼそぼそと、呟きほくそ笑み悲しんでいる? 動けないヤマカガシは声の出し方も忘れて固唾を呑む。どこかから落ちてきた水滴が目にしみたが、それはヤマカガシの脂汗だった。
次にネズミは周囲を見回すと、一本の手を床に置いた。数秒後にその手の平を眼前に持ってくると、
「あのおっさん……、まあいっか」
また何事かを呟いた。
そして突然、顔を上げた。
イシガメが変な音を発する。ヤマカガシは瞼と黒目を動かすのがやっとだ。イシ、逃げれま、立てま! そう思うのに口も体も動かない。
だがネズミが見ていたのはジュウゴだった。ネズミは数本の手でジュウゴを揺さぶり、
「ジュウゴ? ジュウゴ、起きな」
まるで幼子に昼寝の終了を教えるかのような優しげな声で語りかけた。同じくジュウゴに縋りついていたイシガメは、目を白黒させて口を開く。
「『起きな』って……? ジュウゴ、生きてんの?」
イシガメは相手がネズミであることを失念してしまったらしい。目の前の化け物に向かってあまりに普通に話しかけたから、化け物自身も驚いて三つの目を瞬かせた。ネズミはしばし鼻の奥で唸って眉根を顰めていたが、
「お前、ジュウゴと仲いんだね。じゃあ、いいよ」
苦笑しながらイシガメの頭頂部を軽く叩いた。
ヤマカガシの喉の奥で変な声が出た。本当はイシガメの名を呼びたかったが、言うことを全く聞かない体は中途半端な反応だけ寄こす。だから全く意図しないことになる。化け物の注意を引いてしまう。
ネズミと目が合った。ヤマカガシは動けない。気色悪さとおぞましさと恐怖でおののき、わななき、情けないことに先とは別の涙が滲んできた。
その自分を庇うように叔従父が動いた。
シュウダはヤマカガシを体当たりで後ろに追いやり、入れ替わるようにしてネズミと対峙した。シュウダに押し退けられたヤマカガシは、踵で数歩下がって尻を付く。尾てい骨がかなり傷んだはずなのに何も感じないで視線を固定し、自分のいた場所を奪った叔従父の背中を見つめる。その背中が両手で小銃を構えて、ネズミの額に銃口を押し当てて、引き金を引いた。
押し当てていたはずだった、ネズミの額に。命中しないはずがなかった、接触していたのだから。
だがネズミが首を振り銃弾を避ける方が早かった。
しかし避けきれなかったのだろう。ネズミの左耳は破裂して流血が始まる。
「いったぁ」
ネズミが再び痛みを口にする。しかし今度は気だるさがない。心底腹立たしげに、つくづくうざったそうに舌打ちすると、三つの目でシュウダを睨み上げた。
「ごみがさあ、」
シュウダの握る小銃の銃身をネズミは二本の手で掴む。握る。潰す。そして、
「うちのジュウゴに何をしたあああッ!!!!」
怒号。いや、地響き。およそ生き物が発する声とは思えない圧に空気が震えた。
シュウダが怯む。その隙にネズミはシュウダから小銃を奪い取る。立ちあがると同時に数本の手で銃身を振りかぶり、全身を使ってシュウダ目がけて振り下ろした。
「シュウダッ!」
「「「お頭!!」」
最初に動いたのはイシガメだ。叫ぶなりネズミに飛びつき、背後からその腰に腕を回してシュウダから引き離そうとする。
しかしネズミにとってはイシガメなど何の妨げにもならなかった。
「せっかく見逃してやったのに」
白けた目でイシガメを見下ろすと、次の瞬間には肘打ちでその鼻を打ち砕いていた。イシガメが跳ぶ。後ろに飛ばされる。背中から壁にぶつかり、頭が触れて後頭部を強打し、目を開けたまま項垂れてずるずると床に落ちると動かなくなった。
「イシッ!!」
クサガメが大声で兄に向かって駆け出した。しかし辿り着く前にネズミがそれを阻む。ネズミの太い腕に喉から正面衝突したクサガメは、首から下だけ数歩歩いて後ろに倒れた。その腹目がけてネズミは足を踏み下ろす。くの字に跳ね上がった体はネズミの後ろ蹴りで兄の横に飛ばされた。
「小銃! 小銃持ってこられ!!」
「イシクサッ!!」
「誰か!」
先までの静寂と愚鈍さが嘘のように俄かに騒然とする。ヘビもカメも入り乱れて負傷者の運びだしとネズミの無力化を試みる。だが後者を目指した者から負傷していき、運び出しも困難になり、狭い戸口の前はごった返す。
ネズミは複数の腕で駅の者たちを蹂躙した。クサガメを救い出そうとしたキボシイシガメは、後頭部を掴まれて顔から壁に叩きつけられた。直近で小銃を構えたジムグリは片手で払われ、装填していた銃弾はあらぬところへ飛んでいく。ネズミに金梃で殴りかかったホウシャガメは足首を取られて振り回された後に投げ捨てられ、その間にもネズミは執拗にシュウダを小銃で殴り続けていた。
ヤマカガシは動けない。腰が抜けたままネズミの暴走を見つめている。叔従父も動かない。動かないのにネズミは殴って、殴って、このままでは死んでしま…
「撃て!!」
ヒバカリの掛け声でヤマカガシの金縛りは解けた。その先にはいくつもの銃口。自分含め仲間もいるのに、こんな狭い室内なのに。ヤマカガシが反射的にその場に伏せるや否や、頭上で一斉に発砲音が踊った。
これにはネズミも堪えたらしい。三本の腕で頭を隠した。胸に命中する。脇腹を貫く。防御した三本の腕は穴だらけでもちろん流血も見られたが、腕の間から覗く眼光は鋭いままだ。
「いったいなあ」
ネズミがヒバカリたちに振り返る。棍棒と化した小銃を握りしめて歩き出す。発砲したヘビたちは恐怖に硬直した。犠牲が増える、駅が無くなる! 最悪の未来を予想してしまったヤマカガシを、
「カガシ君ッ!!」
ヒバカリが怒鳴りつけた。ヒバカリは迫りくるネズミに対峙しながら必死に訴える。なぎ払われていく仲間たちと引き換えに、駅の頭首の救出を切願する。ヤマカガシは声もなく了解し、抜けかけた腰でようよう起き上がると叔従父に駆け寄った。
「シュウダ!」
返事はない。辛うじて首を守ったようだが殴られ続けた背中の衣服は割け、殴打の生々しい痕が覗いて血まみれという表現が相応しい。立たせるのは困難で、担ごうにも中年太りで酒浸りの体はぜい肉まみれで重すぎる。ヤマカガシは背中の傷を後回しにして引き摺って運び出そうとしたが、突如暗がりに包まれた。
「逃がすわけないじゃん。ジュウゴ、撃っといてさあ」
横目で戸口を盗み見る。ヒバカリたちが全滅している。何秒もった? 一分経ったか? 呼吸もままならないまま顔を上げると、血走ったネズミの三つの目に見下ろされていた。




