00-228 カヤネズミの疑問
扉が叩かれる。クマタカは端末を卓の下に隠すように置いて入室を許可した。部下に連れられてやってきたネズミは相変わらず後ろ手で拘束されているが、先に比べて見栄えは大分良くなっていた。あと臭いも。
ネズミを座らせたり、クマタカの背後を恭しく動き回ったりしていた部下たちに下がるように伝える。駅の頭首とネズミのみを残していくことに部下たちは最初躊躇ったが、頭首の無言の視線の前では彼らの主張は意味をなさなかった。
静まった室内を物珍しげにネズミは見回す。天井の消えた電灯を見つめた後で壁の蝋燭を見遣り、若干眉根を寄せている。
「酒を飲ませるわけにはいかないが、」
クマタカが口を開くと、ネズミは思い出したように顔を向けてきた。
「喉くらい潤しておけ」
部下が配ぜんしていった湯呑を顎で指し、クマタカ自身も手前の湯呑に手を伸ばした。
一口含んで飲みこみ、湯呑を置く。警戒しているのか、ネズミはじっとクマタカを見つめるだけだった。
「安心しろ。毒など盛っていない」
クマタカは事実を述べたが、ネズミはまだじっとしている。
「お前を殺す気はないと…」
「どやって飲めっつんだよ」
ネズミに言われて気が付いた。確かにワンのような長い舌でもない限り、湯呑から直接茶を啜ることは難しい。しかし拘束を解いてやるわけにもいかない。
「口が利けるならそれでいい」
ネズミから視線を逸らしてクマタカは呟いた。
「アイはいないみたいだな」
カヤネズミと名乗ったその男が蝋燭を見遣りながら言う。
「いれば話ができないだろう」
伏せた端末をちらりと見下ろしてクマタカは答える。
「地下牢には時々いたじゃん」
「俺が外出中は使用を許可している」
「あんたがいる時は使っちゃ駄目なの? なんで?」
興味深そうに、馬鹿にしたように顔を突き出してきたカヤネズミの目が煩わしくて、クマタカは本題を切りだした。
「どうやって夜汽車を止めるつもりだ」
「その前に少し世間話でもしようぜ」
しかしカヤネズミは再び話を脱線させる。
「世間話?」と訝ったクマタカにいやらしい笑みを向けて、
「俺らのこと、あんたらのこと、そしてアイのこと」
聞かざるを得ない『世間話』に、クマタカは眉間の皺を深くした。
カヤネズミは後ろ手に拘束されて背中を丸めたまま、かつてアイから聞き出したという塔と地下の関係を語った。視線は卓上に落としたまま、努めて無表情に無感情に口だけを動かすことに専念している、そんな風にクマタカには思えた。
一通り話してからカヤネズミは一息つき、「どう思う?」とクマタカを見た。
「どう、とは?」
「あんたの知識と照らし合わせて、どっか違和感とかなかったかって聞いてんだって」
すぐに刺々しくなる短気なネズミを冷ややかに見下ろして、クマタカは首を横に振る。大筋は間違っていないと思う、それは事実だった。ただ視点が異なるだけで。
否定されることを望んでいたのだろうか。カヤネズミは不服そうに眉根を寄せていた。それから諦めたように息を吐くと、「あんたじゃないのか」と呟いた。
「どういう意味だ」
すかさずクマタカは尋ねる。
「正確に言えば『あんたら』だけどな」
「だからどういう意味だと聞いている」
むっとしてクマタカはネズミに詰め寄る。カヤネズミは丸めていた背中を伸ばして、上半身を退いた。
「興味ないと聞いてなくて気になることにはむきになるって、あんたどんだけ子どもだよ」
呆れた口ぶりで小言を言われ、クマタカの眉根はさらに接近したが、
「義脳…アイはこの話に『多少齟齬がある』っつってた」
カヤネズミの不機嫌な真顔を前にして、自分の主張は控えた。
「あんたならその『齟齬』がどこの部分かわかるかと思ったんだけど、そこまでは話してないみたいだな」
必要最低限の会話しかしていないクマタカは、多少後ろめたさを覚える。
「『夜汽車を作ったのは皆さんだ』ってよ」
「『皆さん』?」
クマタカの疑問に「アイが」とカヤネズミは主語を答える。
「俺は夜汽車を作ったのは義の…アイだとばかり思ってた。アイが夜汽車を作って、塔と地下に住む者を分けて、いがみ合わせて、さらに俺らは生産体とか受容体とか保管体とか治験体とかに選別して。
でもあいつはそうじゃないって言った。『夜汽車を作ったのは皆さんだ』って。線路も夜汽車も夜汽車の中のあの子どもたちも何もかも、『皆さん』が作ったんだろって。
なあ、『皆さん』って誰のことだ? 俺は…、少なくとも俺と俺の仲間は夜汽車なんて作ってない。でもあんたでもないんだろ? あんたは夜汽車を止めたがってるしな。じゃあ別の地下の奴か? でも地下の技術で夜汽車を造れるとは到底思えない。なら誰なんだ? 誰があんなむごい制度を作ったんだ?」
カヤネズミは縋るような、困惑を隠さない真剣な眼差しを向けてきた。初めて見せた男の素顔を見下ろしながら、クマタカは納得する。
塔に住む者の常識が地下とは別のところにあることは、イヌマキたちとの会話で知っていた。そうすることで互いを敵視し交流を断絶させることで夜汽車制度は成立している。
だが塔に住む者と言ってもイヌマキたちとネズミはまた異なるのだ。イヌマキたちがクマタカとは異なる常識の中で暮らしていたと言えども知識は備えていたのに対し、ネズミや夜汽車は知識さえも与えられずに育てられたらしい。
マツの扱いで多少はそういう系の相手も馴れたつもりでいたクマタカだったが、イヌマキと同等だと思って接していた相手が夜汽車程度の知識しか持っていないことに気付き、態度を改めざるを得なかった。
「義脳が『皆さん』と呼ぶのは俺たち全てに対してだ」
マツに言い聞かせるように易しい言葉を選びながら、ネズミに合わせてアイを『義脳』に言い換えて、クマタカは説いていく。
「地下も塔もネズミも夜汽車も、全てを指して義脳は『皆さん』と呼ぶ」
「それは知ってるって」
あまりに程度を低くして話されたことが不服だと言わんばかりに、カヤネズミは鼻筋に皺を寄せた。
「だからそういうことだ」
眉間の皺を伸ばしてクマタカは言う。
「そういうことって?」
「『皆さん』とは『俺たち全員』のことだ。俺たちが夜汽車を作り、俺たちがそうすることを選んだ」
カヤネズミが呆れたように唇を開けきる。「だから、」と言いかけたクマタカを遮って、
「あんたほんっと話聞かない奴だな。俺らは夜汽車なんて作ってないつってんじゃん」
カヤネズミが小ばかにしたように言い切った。
「『皆さん』ってのが俺もあんたも含んでるっつうのはわかってるって。でも俺は、俺らは違うんだって。だから変な話だろっつってんじゃん。
それともあれか? 俺ら以外のあんたら全員ってことか? 上階の奴らと地下のあんたらで結託して、夜汽車とネズミを騙してたってことか?」
「そうじゃない。俺たちというのは俺やお前だけを指しているのではなくて、俺たちよりももっと上の世代の、俺たちの祖先から続けられてきた制度だと言っている」
俺たちという『種』が脈々と受け継ぎ、そして引き継いできた線路と夜汽車だ。
「アイが『皆さん』と呼ぶのは俺やお前だけを指しているのではなく、俺の父や祖父、曾祖父、恐らくはそれ以前からの夜汽車を使ってきた…」
「なあ、『そせん』って何だよ」
カヤネズミが怒ったように口を挟んだ。クマタカは目を見開き口籠る。
「……祖先というのはだな、お前の父や母、親を含めた全ての上の世代の、お前に繋がる血筋の…」
「『おや』ってのは聞いたことある」
そこからか。
「意味は知っているか?」
「聞いたことはあるって」
単語を耳にしたことはある、という事実だけをカヤネズミは強調する。
そう言えばイヌマキが言っていた。塔には養育係なるものがいると。そして夜汽車は親を持たない子どもたちだと。カヤネズミの話ぶりからするに、ネズミもまた夜汽車同様、親の無い子どもたちなのだろう。そして彼らはそれを当然としている。親がいない不運を惨めに思わせない代わりに、アイは彼らに『親』という概念そのものを与えなかったらしい。
それにしても親の仕事を放棄した親たちは、塔で何をしているのだろうか。
この場においては意味の無い疑問を抱き、目の前の男にとっては意味の無い教授を続けることに空しさを覚えたクマタカは、
「お前がこの件を理解することは無理だろう」
と、目頭をほぐしながら呟いた。
「おい、どう意味だよ!」
カヤネズミは再び噛みつきそうな勢いで身を乗り出してきたが、
「どうやって夜汽車を止めるつもりだ」
クマタカは手を下ろして視線鋭くカヤネズミを見据えた。
「アイを消せば止まんだろ」
カヤネズミはふくれっ面になり、さも当然だと言わんばかりに呆れ声で言ったが、こちらに気を使って『アイ』と呼ぶことは継続している。見た目と違って本来は冷静な男なのかもしれない。
「だからどうやってアイを消すつもりだと聞いている」
ネズミに気を使って『義脳』と呼ぶことを早くも忘れたクマタカは、自分で思うほど落ち着きのある男ではない。
アイは塔その物だ。アイを消すとはつまり、塔の電気を完全に落とすことを意味する。無論、電気がなければアイは存在し得ないし物理的に夜汽車も停車するだろうけれども、
「アイの無い状況をお前らが受け入れるというのか」
ネズミは塔に住む者だ。塔の地下に住む者だ。塔を拠点として地上にやってくる彼らはアイの手足であるはずだ。それなのに、
「ネズミにも事情があんだよ」
しかしカヤネズミは本丸を裏切る覚悟があると繰り返した。
「アイを消してどう生きていくつもりだ」
だが俄かには信じられないクマタカは、さらに質問を重ねた。目の前のネズミの真意がまだ読めない。
「塔からアイを引けば残るは無機質な鉄の容れ物だけだ。アイがなければ空調も切れるし浄水設備も止まるのだろう? 夜は火を熾せば暖が取れるかもしれないが、昼はどうする。あの鉄塊の中で電気を使わずに室温を下げることなど不可能だ。地下に避難すれば熱波を免れることも出来るかもしれないが、お前ら全員が避難出来るほど塔の地下は空きがあるのか? 空きがないからこそあそこは厳格な出生制限を…」
「随分こっちの心配してくれんだな」
怪訝そうに眉をひん曲げた顔に遮られた。
「確かにアイちゃんがいないと塔は大混乱だよ。おっさん共はまたやかましく追いかけて来るだろうし保管体なんてものの二秒で死んでるって。
でもあんたにそれ関係ないじゃん。っつうかあんた俺らの敵じゃなかったっけ? うちのジャコウ殺してくれたのあんたじゃなかったっけ。違った? あれ、ワシ違い? 俺、勘違い!?」
早口にまくしたてるカヤネズミは徐々に語気を荒らげていく。床から伝わる小刻みな振動はネズミの貧乏ゆすりに起因していたらしい。
クマタカは白い目で湯呑の中の震える水面を見下ろしていた。だが間もなく振動は収まり、遅れて水面も静まった。顔を上げると俯いたネズミの頭頂部があった。
「……っつう話はこの際脇においとけっつう話だよな」
自身に言い聞かせるようにして、カヤネズミは肩を怒らせながら深呼吸を繰り返していた。世の中には分別のあるネズミもいるらしい。クマタカは自身を省みて視線を落とし、迷惑以外の何物にもならない思慮の浅さを恥じた。
「単刀直入に聞く」
顔を上げる。
「お前らの目的は何だ」
「夜汽車を止めることだって」
下を向いたままカヤネズミは面倒臭そうに繰り返した。