望郷の彼方
望郷の彼方
きっと罰が当たったのだ。
母が曹操に捕らえられたと聞いた時、最初に思ったのはそれだった。初めて仕えた劉備殿の包容力と慈愛に触れた驚きがあまりにも大きかったから。自分の才を存分に振るうことができた喜びがあまりにも大きかったから。ずっと傍にいられるかもしれない。軍師として劉備殿に仕えて、信頼されて、末永く共に歩んでいけるかもしれない。そんな甘い夢を見てしまった自分への。
「元直、大丈夫か?」
石韜が心配そうに俺を見ている。運ばれてきた茶は口がつけられていない。
石韜は俺と同じ潁川出身で、共に水鏡先生に学んだ門下生である。母が捕えられたことをいち早く知らせてきたのがこの石韜だった。同郷ということで最も気の置けない友人の一人だ。
大通りに面した茶房に外の賑わいが聞こえてくる。俺の表情を母への心配と受け取ったのだろう。石韜は安心させるように俺の肩を叩いた。
「心配するな。曹操のことだから、君が魏に仕えれば母御を殺すことはあるまい。…元直?」
俺が険しい顔で黙っているので、石韜は意外そうな顔をした。
「曹操が君の才を認めたんだぞ。すごいことじゃないか。これは魏に帰るいい機会だ」
「帰る…?」
「そうさ。君だって、弱小勢力の劉備にずっと仕える気じゃないんだろう?」
正直に告白すれば、劉備殿に近づいたことには計算があった。若気の至りで人を殺めてしまった前科者の俺は、死に物狂いで学問を修めてもまともな就職先は望めない。同じく無頼の徒と思われた劉備軍なら仕官できると思ったのだ。ここで実績を作れば名が売れて、のちのち就職活動に有利になると。
浅はかだった。今は劉備殿以外の主君などとても考えられない。
「元々君は潁川の出身なんだし、曹操の方が将来性も…」
「ここを離れたくないんだ」
思い切って言うと、石韜は目を丸くした。
「何故?昔言ってたよな。劉備のもとで実績を作って曹操に高く売り込もうって。二人で魏に帰ろうって」
そんなこともあった。まだ水鏡塾の門下生だった頃は皆でいろいろな計画を立てたものだ。無頼の生活が長かった俺は人を信じていなかった。どんな英雄でも己の力で制御できると思っていた。劉備殿という稀有な人物に会う前は。劉備殿を知り、その魅力に惚れこんでしまった今では考えられないことだ。人には感情という制御できない部分があると、当時の俺には分かっていなかったのだ。
「どうしたんだよ。まさか劉備に情が移ったなんて言わないよな」
石韜が詰め寄る。そのまさかだ、と言えなかった。一緒に潁川に帰ろうと言ったのは本当だったから。
一緒に帰れればどんなによかっただろう。
母が捕えられるように仕向けたのは孔明かもしれない、と俺は思った。門下生の中で、孔明だけは最初から劉備殿に仕えると決めていた。俺が劉備殿に興味を持ったのは孔明の影響である。当初、俺は劉備殿のもとを去って代わりに孔明を推挙しようと思っていた。俺が去った方が孔明を高く売り込めるからだ。しかし俺がなかなか劉備殿のもとを去らないので孔明はしびれを切らしたのかもしれない。孔明は俺の心変わりを知らないから。それとも、気づいたから先手を打ったのか。
それでも俺が劉備殿のことを託せるのは、孔明しかいなかった。
「…分かってる」
振り切るように頭を振り、俺は小さく頷いた。母が捕えられては選択肢がない。
「魏に行く。孔明を推挙してから行くと、隆中に伝えてくれ」
数日後、俺は劉備殿のもとを辞した。
俺は劉備殿のいる方角を振り返り、手を翳した。木々が邪魔で城がよく見えない。
と、彼方で土ぼこりが見えた。劉備殿と、関羽殿と張飛殿が馬で駆けてくるところだった。
俺は胸が熱くなった。涙が滂沱と溢れ、視界の木々がぼやける。もう一度会いたい。せめてひと目だけでも。最後の挨拶を。
だが顔を見てしまったら決心が鈍る。劉備殿の顔を見て、声を聞いたら、俺はきっと戻ってしまう。そうしたら母はどうなる。病弱な弟もいるのに。
いざ別れるという時になって初めて、俺は、劉備殿との日々がかけがえのないものだったことを知った。
俺は溢れる想いを振り切り、馬首を北に向けた。そしてそれが最後となった。
あれからまもなく曹操は荊州を手に入れ、俺は江陵に向かう劉備軍を追撃する曹操軍の中にいた。荊州の地理に詳しいという理由で従軍していたのだ。敵として劉備殿の前に現れなければならない我が身の運命を俺は呪った。しかし同時にこれが最後の機会だとも思った。
先日、母が死んだ。もう俺を魏に繋ぎ止めておくものはない。
――もし叶うならば、もう一度あなたと。
俺は馬の腹を蹴った。幸い乱戦で俺の動きを見咎める者はいなかった。全速力で駆けながら俺はまっすぐ劉備殿の陣を目指した。捕虜になれば戻れるかもしれない。あの人のもとへ。一度そう思うと抑えた想いは怒涛のようにあふれて止められなかった。
「劉備殿!」
俺は叫んだ。
「劉備殿!劉備殿!劉備殿!」
自軍の兵を斬りながら俺は懐かしい人の姿を血眼で探した。劉備殿の気配はすぐに分かる。わずかな気配を追って、俺は敵軍深くどこまでも斬り込み――
「元直、何してる!」
不意に俺は後ろから肩を掴まれ、引きずり降ろされた。素早く受け身を取って立ち上がると、目の前にいたのは、石韜だった。
石韜は全て分かった目をしていた。あれから彼も一緒に曹操に仕えていたのだ。俺の行動を予測していたのだろう。
「どうしても戻りたいなら止めない。だが、戻ってどうなる」
はっと我に返った。
血の混じった砂埃が顔に吹き付ける。俺を取り囲んでいた人馬の足音が急に遠くなった。
分かっている。これは自分のエゴ。俺が戻ったところで今更どうなるものでもない。もうこんなに運命は変わってしまった。俺がいた場所には、劉備殿の隣には、俺が推挙した孔明がいる。あそこに俺の場所はもうないのだ。
三顧の礼。水魚の交わり。噂は俺の耳にも入っていた。耳を塞いでいただけで。
「見なかったことにしてやる。帰ろう」
石韜が手を差し伸べた。
ああ、今ようやく分かった。分かりすぎるほどに。分かりたくなかった。
この手は二度と届かない。
(了)