(4)魔を退ける者
「貴方が新城創太。たった一人、生き残った男の子……」
夕日が沈み始め、夜の闇に包まれ始める上野町第一高校の屋上で、その異変は起こった。創太がアリスへ普段よりも少し誇張した自己紹をした直後。彼女の薄紅色の唇から有り得ない言葉が飛び出したのだ。
「……やっと見つけた。十年前の事件について、洗いざらい全部吐いてもらうわよ」
ロンドン育ちで帰国子女のアリスが上野町大災害について発言したのだ。それも災害ではなく、事件と確かに彼女はそう言った。
「事件って……まさか、上野町大災害の事を言ってるのか?」
「この町で十年前といえば、それ以外に無いわよ。それと災害なんて、回りくどい言い方で隠さなくてもいいわよ。私も貴方と同じ関係者だから」
アリスは災害と言い直さず、あくまで事件と主張する。
「事件? 関係者? 一体何を言ってるんだ藤堂さん。サッパリわからねえよ。それに、あれは災害で関係者なんて俺以外にもうこの世にはいないだろ」
「貴方、本気で言ってるの? だとしたら、退魔師の掟違反よ。退魔師同士で秘事はしない。古臭い掟だけど、貴方も同じ退魔師なら一度くらい聞いたことはあるでしょう?」
「たいまし? 何だよそれ、薬物の売人か? 俺を受け子か何かと勘違いしていないか。悪いが俺は人生を棒に振るつもりはないぞ」
事件、関係者、掟、退魔師。まったくもって聞き覚えの無い単語に創太は眉を寄せる。
上野町大災害を用いた冗談なら、笑えないし創太にとっては文字通り冗談では済まされないのだが、目の前にいる金髪青眼の少女は真剣そのものだった。
「魔を退けると書いて退魔。世に蔓延る魔術師を狩る、正義の味方。それが退魔師よ。上からの命令で私は退魔師、新城創太をずっと探してたんだから。これ以上しらばっくれるなら、その頭握り潰すわよ」
混乱している創太に業を煮やしたアリスは、指の関節をパキパキと鳴らしてゆっくりと距離を詰めていく。
創太は見るも無残に折れ曲がった南京錠を思い出し、その場から後退りするがそこは屋上。ジリジリと追い込まれていき、すぐに逃げ場はなくなった。
「ちょっと待ってくれ! 本気で何の話かわからねえよ! 新手の冗談とかなら、そろそろネタばらしの一つでもしてくれ!」
「貴方の喚き声はもう聞き飽きたわ。最後まで白を切るっていうのなら、身をもって後悔させてあげる!」
そう吐き捨てるように言って、アリスは拳を高く突き上げる。女の子の華奢な拳が空を切り、創太の頬を捉えようとしたその瞬間、
「……俺は記憶喪失なんだよっ!!」
創太は声を張り上げて、自身のコンプレックスを叫んだ。
「……っ、は?」
創太の悲痛な叫びが届いたのか、アリスは創太の顔をかすめるギリギリで拳を止めた。
恐怖で眼を閉じていた創太は自身にあるはずの痛覚がない事に気づくと、まつ毛が眼球に刺さった時と同様にそっと眼を開いた。
「……シチュエーションは同じなのに、どうしてこうも目に広がる光景が違うんだろ」
自身の目の前で拳を突き出す金髪青眼の少女がそこに立っていた。殴られなかった事に安堵する反面、彼女が本気で殴ろうとしていた事に震え上がる創太だった。
*
今から十年前、上野町大災害時に新城創太は己が生きてきたおよそ七年間の記憶を失った。数々の検査及びカウンセリングを受けたが原因は不明、心的外傷による過度なショックという形で決着がついた。
当時7歳の少年には、多くの人間が目の前で死んでいくという地獄の光景は、創太の記憶という繊細なガラスを破壊するには十分過ぎた。
自身の名字、家族、生活環境、経験、思い出。彼はあらゆる自身を構成する記憶を失った。
十年という長い年月が経過し上野町へ戻って来た今でも、創太は当時の記憶を何一つ思い出せないでいる。
「それで、記憶喪失ってどういう訳よ。退魔師だった頃の記憶は本当に残っていないの?
「だから退魔師って言葉自体、俺は初耳なんだって。もし知ってるなら、藤堂さんが拳を振り上げた瞬間に答えてるから!」
夕日は完全に沈み、時刻は午後六時。
校庭で活発に活動していた運動部たちは既に撤退し始め、校内は静かさに包まれていた。
創太とアリスは二人で投棄されていたベンチに腰を下ろし、創太の記憶喪失について話し合っているのだが、なかなか話が進まない。
なにせあったかもしれない、なかったかもしれない過去の話をしているのだ。どれだけアリスが退魔師について力説しようとも、創太自身が覚えていないければ話にならない。
「どういう事よ、神山の話と違うじゃない。もしかして私、結構な面倒ごとを押し付けられたの?」
情報の齟齬にアリスは嘆息。目の前にいる新城創太は探し求めていた少年で間違い無い筈なのに、どうにも達成感に欠ける。
いっそ洗いざらい全てを話してしまいたいアリスだが、肝心の創太が記憶喪失では、退魔師や10年前の事件について話したところで、かえって混乱を招くだけである。
故に核心をついた話ができていないでいた。
「退魔力って超能力や魔法、みたいな物か?」
黙り込むアリスにじれったさを覚えた創太が切り出す。
「魔術と同列にされるのは不服だけど、まあそんなとこよ。目に見えない力。武器みたいな物よ。貴方のは眠っているみたいだけど、ちゃんと鍛錬はしているの?」
「自分が知りもしない力を鍛えるなんて、無理じゃね。言っとくが、もし日本のアニメに影響されて、こんなわけのわからない事を言ってるのならやめとけ。いつか自分を殺したくなる日が訪れるぞ」
「……はあ、貴方と話していると頭が痛くなってくるわ。信じてないみたいだし、やっぱり目の前で証明するのが一番よね」
証明に必要なのは、証拠と証人。創太に退魔師という存在を信じてもらうには、あとは証拠が必要で、
「身をもって理解してもらうのが一番よね。記憶が無くても、身体が覚えているかもしれないし」
故にアリスは物的証拠を見せることにした。
アリスは立ち上がり制服のスカートをパタパタと払って、見えない汚れを落とすと、再び指の関節をパキパキと鳴らした。
「暴力はしないんじゃ……」
「貴方は私を何だと思ってんのよ」
ーーー金髪碧眼美少女の皮を被った腕力ゴリラ。創太はそう思っていたが、自身の命が惜しいので心の奥底に秘めておくことにした。
「ただ少し、眠っているものを引っ張り出すだけ。安心しなさい、別に暴力を振るうつもりはないわ。ほら、貴方も立って」
「引っ張り出すって、何をだよ。もしかして内臓?」
「退魔師が生まれながらに備え持つ、退魔力よ。貴方が情報通り退魔師なら、たとえ記憶喪失でもその身体の内に秘められている筈よ。だから、私を介して貴方の奥底に眠る退魔力を呼び起こすわ」
アリスは創太の軽口を無視する。創太はそのあまりにも淡々とした彼女の態度に、
「わかったわかりました。そんな得体の知れない力、俺には無いと思うけど……」
と言って肩を落とした。
ぐだぐだと文句を垂らしながら立ち上がる創太だが、内心では少し気分が高揚していた。アリスの言う事が妄言虚言では無く真実だというのなら、長年探し求めていた上野町大災害の真相に一歩近づけるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に創太はアリスの指示に従うことにした。
「背中、触るわよ」
「おうっ!? 何で服の中まで?」
制服の中、背中にすべすべとした柔らかい感触を感じて、創太は飛んで驚く。
「変な声上げないで、肌に触れるのが一番効率良いの。別にアンタの貧相な身体に触れたい訳じゃないから」
「ちょっと驚いただけだから! 女の子に身体を触られるなんて、初めてだったから! ……てか、俺を貴方からアンタへ呼び方を変えたのは、親交の証ってことでオーケー?」
「アンタは私に何か気に入られるような事をしたの?」
「でも、さっき友達になってとか……いや、何でもないです」
アリスの表情が強張るのと同時に創太の腰は低くなる。それが亜紀先生を相手にしているようで、不思議と頬が緩んでしまう。
「いい? 目を閉じて集中して、心の奥底に形は問わないから一つの箱をイメージしなさい」
「箱ね、中身は? 色とか大きさは?」
「質問が多いわよ、少しぐらい自分で考えなさい! 形は問わないって言ったでしょ」
背後にアリスの怒りを感じるが、怯える間も無く創太を不思議な感覚が包み込んだ。誰かに抱擁されているような、優しくて暖かい心地の良い感覚。
胸の辺りから、何かが身体全体に広がっていく。
「ゆっくりと、慎重にその箱を開けて」
「お、おう」
アリスの指示に従い、創太は心象世界に作り出した箱を開ける。創太がイメージした大きな箱から、自身のイメージには無い眩い光が漏れてーーー。
「……あ」
次の瞬間、創太の意識は闇に消えた。