Hide and seek 1
4月6日 午前10時。
東京23区内。
とある釣り堀では、定年を迎えた白髪交じりの男達が、瓶ビールのケースをイス代わりにして、各々魚釣りを楽しんでいる。
プレハブ小屋が建っている隅の方では、釣り堀用の餌を売っている40代くらいのがっしりとした筋肉質の男が立っていて、たまに彼のもとに客がやって来ては、明るく応対などをしていた。
だが、ふてぶてしい顔の客がやって来ると途端に、ギラリとした表情に変わった。一応、餌はその客にも売ったものの、つり銭を渡すと同時に、コインロッカー用の小さなカギを小銭の下に忍ばせたのである。
すると突然横から、その客の手首をガシッと掴む者が現れた。
加賀城密季である。
加賀城が警察手帳を2人に対し見せると、とたんに彼らは真っ青になった。
ふてぶてしい顔の客の方は組織犯罪対策部の捜査官にすぐに連れていかれたが、筋肉質の男の方は、いったんその場で加賀城と話をする事になった。加賀城は、彼に聞きたい事があったからだ。
加賀城は彼に対しこんな事を言った。
「私もここは盲点でした。まさか、こんな場所で拳銃の取引が行われているなんてね」
「ちっ、なんでここがわかったんだ、チクショー」
「拳銃の需要が大きく膨れ上がりすぎたのが原因でしょうね。で、あなた方はお金欲しさに取引の回数を多くしてしまった。そのせいで、2日以上も鍵が閉まったままのコインロッカーが増えた……。あっ、コインロッカーの中に入っていたブツの方はこちらの方ですべて回収しておきましたので」
「くっ」
「物騒な世の中になってしまいましたが、みんながみんな拳銃を携帯し始めたら、よけいに物騒になってしまいますから、あなたの罪を見逃すわけにはいきません。ご理解ください。まあ、私の要件は別にあるんですけどね」
「えっ?」
「このひと…ご存じないでしょうか?」
加賀城はふところから1枚の写真を取り出し、男に見せた。
「こっ、この女は………」
「鹿津絵里といいます。ご存じないでしょうか?」
「しっ、知らねぇな」
「まああなたは、こんなところで拳銃の取引なんてしているくらいですから、その拳銃で誰が被害に遭おうが、なんとも思わないんでしょうけど、黙秘してもあなたの罪は軽くはなりませんし、刑務官のあなたに対する印象は、ずっと最悪のまま覆らないでしょうね」
「そっ、それがどうしたっ」
「第一印象はやはり、大事にした方がいいですよ。早々に相手から嫌われてしまうと、マンガやドラマの世界とは違って、どんなに好感度のために動いたとしても、なかなか覆りませんからね。なるべく早く仮出所したいとあなたが思っていても、刑務官が難色を示したままでは、それもうまくいかないと思いますけど?」
「おっ、脅しているのか?」
「脅してはいません。ですが、今のあなたの態度をありのままみんなに話したら、きっと刑期も増し増しになってしまうかと」
「くっ、わかったよ、チクショー」
男は観念した。
そしてこう言葉を続けた。
「去年の8月のあたりかな。俺達の仕事をこの女、手伝ってたんだよ。金が欲しいっていうから、男を紹介したりもした。そして、ある時ふと去っていったんだよ」
「なるほど。その時期から彼女は企てていたというわけですか…。当然顧客リストはとってありますよね」
「ああ。俺達のアジトを調べりゃ出てくんだろ」
「わかりました。有益な情報、どうもありがとう」
少し離れたところに組織犯罪対策部の捜査官が立っていて、加賀城が目配せをすると、その捜査官は男に手錠をかけ、近くに停めていた黒塗りの車の方へと連れて行ったのだった。
急に風の勢いが強くなり、加賀城の後ろ髪をバタバタとはためかせる。
その風は冷たく、まるで、冷蔵庫から漂ってきたような、ひんやりとした風だった。
「……………………」
夕桐高等学校で働いていた頃の鹿津絵里は、人当たりもよく、実に穏やかだったそうだ。だが、モンスターペアレントが教育指導にまで幅を利かせるようになり、問題のある生徒を容易に罰する事が出来なくなってしまってから、彼女の歯車は狂い始める。
田端翔に対する不良達からのいじめが長期化したのも、これがひとつの原因だった。
不良達のいじめはあきらかに停学、いや、退学に相当するケースのはずだったのに、モンスターペアレントからの圧力によって、うやむやにされ続けてしまったのである。
鹿津絵里はそれでもなんとか田端翔の手助けになろうとした。
でも、彼が彼女に言った言葉は『役立たず』の一言だった。
いじめられている立場からすれば、そう言いたくなってしまう気持ちもわからなくもない。
どんなに『頑張れ』と心を込めて言われたところで、暴力によるいじめがなくなるわけではないからだ。
根性で乗り切れと言う者もいるかもしれないが、完璧な心の強さを持った者なんてひとりもいない。
田端翔は不良達に徹底的に追い詰められ、鹿津絵里は、田端翔の言葉によって打ちのめされた。
それでも彼女は、不良達を退学にしようと奮闘したそうだ。それがモンスターペアレント達の怒りを買う事になり、PTAでも問題にされ、ついには夕桐高等学校にいられなくなってしまった。
夏休みと共に彼女は夕桐高等学校を去っているので、先ほどの男の話と、時期は一致している。
問題なのは、その田端翔も、もうこの世にはいないという事である。
彼は、赤橋駅へと続く大きな歩道橋の階段にて、足を滑らせて死んでいる。
それ以前に、彼の学校の上履きと体育館履きの裏から、なぜか透明のワセリンが検出された。
田端翔はあの時会議室にて加賀城に、靴底がヌルヌルしているようでしかたないと言っていた。つまり、その時にはもう“暗示”にかかっていたと見るべきだろう。
証言者の話によると、いったん歩道橋のうえまでのぼった田端翔は、なぜか慌てた様子で踵を返し、階段を降りようとしたため、足を滑らせたらしい。
いや、正確には、足が滑ったと“思い込んで”重心を保てなくなって、ふらついて落ちてしまった。
その思い込みに手を貸したのが、大崎望である。
田端翔を憎むようになった大崎望へ鹿津絵里が提案したのは“未必の故意”による殺害方法だった。
大崎望の手の爪の裏から、わずかだがワセリンの成分も検出されている。
田端翔が死ぬかもしれないと認識したうえでそのような行為に奔ったのなら殺人罪としての適用は可能だが、もう大崎望もこの世にはいないので、故意だったかどうかは立証不可能である。あの時大崎望が死なずに今も生きていたとしても、ただのイタズラだったと言い張ってしまっていたら、故意だったかどうかの判定はどっちにしろ難しかった。
硫化水素の爆弾をあの視聴覚室に設置したのも大崎望だ。
でも、爆弾自体は別の何者かが作ったものだ。
そして完成した爆弾を大崎望の自宅へと宅配便で送り、爆弾の設置を彼にさせた。
その証拠に、宅配便伝票の控えが彼の自室から発見された。
これらの事から総合して鹿津絵里は、大崎望が警察に捕まる事になろうが、どうでもよかったのだろう。だって、一方では未必の故意を彼に提案しておきながら、もう一方では、あからさまな殺人行為の片棒を担がせているのだから。
大崎望はこの時にはすでに彼女に洗脳されていたから、鹿津絵里のこの矛盾をいっさい疑う事をしなかったのかもしれない。
鹿津絵里は、メンタルケア専門の心理士だった。
でも彼女は、その話術をこんな惨い事に利用した。
田端翔はあの時歩道橋にて、突然血相を変えて階段へと引き返したが、ほぼ同時刻、同じ場所にて、娘連れの母親が何者かによって刃物のようなもので負傷させられている。
だが、母・娘ともに犯人の顔はいっさい覚えていないそうだ。
顔の見えない位置に立っていたとかだったら、それもわからなくもないが、男か女かも、そして、どんな髪型をしていたのかすらも覚えていないらしい。
これは、蔵本ワカコに起きた現象と一致しているが、だとしたら気になるのは、なぜ“カメラ”ではなく刃物を使ったのか。
それに、この娘の母親は死んでない。確実に殺す意志があったのなら、やはりカメラを使った方が確実だ。
「………………」
歩道橋のうえでは娘連れの母親が傷つけられ、歩道橋の下では田端翔が死んだ。
フォーカスモンスターのターゲットが田端翔の方だったとしても、なぜこの母親に斬りかかったのかがやはり解せない。
気になるのは、この事件には鹿津絵里が深く関わっているという事。
純粋に人の心を救いたかった頃の彼女はもうすでにいない。だけど、過去の積み重ねがあるからこそ今の彼女がいるというわけだから、たとえ歪み切ってしまったとしても、彼女の本質は早々変わらないはずである。
本質を見抜き、徹底的にプロファイリングをして、行動パターンを導き出す事。それが、彼女を逮捕するための大きなキモとなる。
冷たい風が相変わらず加賀城の髪をはためかせている。
ふと彼女の脳に、“ある嫌な考え”が浮かんだ。
「………………まさか………」