金持ちの道楽
4月3日。朝の9時。
ここ最近碧は夜中帰って来ては早朝家を出るのがくり返しなため、まといは今日もまた謝るタイミングを逃してしまった。
というより、碧は碧であえてまといの事を避けているかのようにそそくさと出て行ってしまっている。
「……………………」
こんな状態が続くようならいよいよ家を出ていくべきかもしれない。
そう、ここは彼女の自宅である。自分がいる事で安らげないようなら、これ以上ここにいても…。
いや、まだ焦る時ではない。
出て行ってほしいならとっととそう言うはずである。いいかげん、マイナスに物事を考えるクセをやめないと、うまくいくはずの事ですらうまくいかなくなってしまう。
とりあえずまといは今日も派遣の仕事に出かける事にした。
派遣といっても、事務の方ではなく、相変わらず工場での作業にはなるが。
指定された駅へと電車を乗り継いで行き、改札口の外へと出る。
すると、今日一緒に働く同じ派遣の人がグループになって固まっていたので、まといはそこに合流したのだった。そして………。
「わっ」
突然、後ろから何者かに思いきり肩をガシリと掴まれ、脅かされた。
まといは目を大きく見開かせ、すぐに後ろを振り向く。
するとそこには、昨日会ったばかりの質屋の娘がいた。
まあ、娘と言っても、まといよりかはあきらかに年齢はうえだが。
今日は、あのへんなローブは着ていなかった。
彼女はとても勝気な笑みを浮かべている。
「アッハッハッハッハ。おはよう、蒼野さん。驚いた?」
「…………………………」
「あれ?怒っちゃった?ふーん。やっぱり、1日2日そこいらじゃ、他人に気は許さないタイプかな?」
「……それは当然かと。たいして仲も良くない人に茶化されるのと一緒で、ほぼ初対面の人からの脅かし行為は相手を苛立たせるだけかと」
「……………じゃあ、あなたはいつ心を許してくれるの?」
「えっ?」
「まるで正論のように聞こえるけれど、あなたはいちいち、段階を踏まないと誰とも仲良くできないの?」
「………そっ、それは………でもやっぱり、無神経にズカズカ入って来られるよりかは、ちょっとずつお互いを知る方がいいに決まってるはずです」
「でもそれは、あくまであなたが決めたラインにのっとって………じゃないの?そんなんじゃ、相手だって疲れちゃうよ。気の使い過ぎでね」
「…………………………」
「まあいいわ。私も派遣の仕事に来ただけだから」
「えっ?でも…………」
「ささ、みんな行きましょー。レッツラゴー」
なぜか彼女がみんなのまとめ役となって、先頭を切って工場へと出発したのだった。
そして3時間後。
今日は簡単な梱包作業である。
A4サイズの厚紙の箱の中に試供品のクリーム5種類を中に入れ、チラシを3枚入れ、封を閉じるのを繰り返していけばいい。
こんなの手作業でやる必要あるのかと思うかもしれないが、そこは工場側の都合なのだろう。機械だからこそできる作業と、人間の目できちんと確認しないといけないタイプの作業があるのかもしれない。
作業は、大きなテーブル席6つに分かれて行われる事となり、例の質屋の娘は、さも当然のごとくまといの目の前で作業を行っている。
質屋の娘は、訝しげに試供品のミニボトルをつまみながら、まといにこんな事を言ってきた。
「ふーん、これで8時間6400円ねぇ。ねえ、蒼野さん、安すぎない?」
それに対し、まといはこう答える。
「私語は禁止ですよ」
「そう?でも、ここの正社員っぽい人が遠くの方で、どこのパチンコが出やすいかとかいう話をしてるけど?」
「それはそれ。これはこれなんです」
「はいぃ?」
「私たちはあくまで派遣です。うえの機嫌を損ねただけでも、仕事ができない認定される。だから私語は禁止」
「ふーん、つまりは、セクハラに泣き寝入りする構図と一緒ってわけね」
「……それとこれとは話が別のような……」
「あと2、3分もすればお昼時間だから、そこでなら話をしてもいいんだよね?」
「………まあ、そこでなら」
という事で、お昼休みの時間を利用して、そこで話をする事になった。
工場内に食堂はあったが、まとい達は派遣用に用意された会議室のような場所で、各々持参したお昼ご飯を食べる事になった。
まといは、残り物のご飯にのりを巻いて握ったおにぎりを持ってきている。
質屋の娘は、コンビニで買ってきただろう高級いくらおにぎりを口にして、こんな事を言ってきた。
「ねえ、蒼野さん。さっそく本題に入るんだけど…」
「えっ?」
「1回15万円でどう?」
「えっ??」
「んもう、1回15万円でアレを一緒にしてみないって言ってるの」
「は???えっ????もしかして、私のこと宗教に誘ってます?で、1回の講演料が15万円……」
「違うってばっ。だからね、もう、耳貸して」
質屋の娘は、まといの耳に顔を近づかせ、小さな声でこう言った。
「いかがわしい方の行為を、あなたと一緒にしたいんだけど………」
まといの表情から、感情のすべてが一瞬にして消えた。そのせいかはわからないが、まといの、彼女を見る目には冷たさが感じられた。
「蒼野さん、もしかしてドン引きしちゃった?」
「というより、昨日の今日ですよね?こんな事言われるような過程を私、踏んでない気がするんですけど」
「あっ、そうやってすぐ過程の話をする。いいじゃんべつに。ピンときちゃったんだから」
そんなふうに言われるとたしかに、ピンとくる恋もあるかもしれないが、チャラい見た目の男子が普通に言ってきそうなセリフでもあるので、まといはすんなり受け入れられずにいた。
こういうところが彼女からしたら、生真面目すぎるのかもしれないが……。
「…………………」
「わたしね、たしかに恋人の事引きずってた。でね、ちょっとやさぐれてた。だからかな、恋人にあげるためのカメラを売りに出したのかも。そして諦めようとしたの。私が一生懸命選んだカメラが、たいしたことのない人間に買われるようなら、結局はその程度の運命だったってね。そう思う事にしたの。そう思いたかったの」
「…………………」
「でもあなたはその運命を覆した。だからね私、あなたの事、気に入っちゃったんだよね」
「でも、あなたは恋人の事、まだ引きずってるんですよね?」
「だけど寂しいの。寂しくてしかたがない」
「……………その穴を私で埋められるとは思わないけれど」
「そんな事ないよ。自信もっていいよ。あなたじゃなきゃだめなの。難易度が同じくらい高めじゃなきゃだめなの」
「難易度???」
「そう。難易度。私は結構直感的だけど、あの人は論理的だったっていうか……だから結構平行線な部分があったのよ」
「それって性格の不一致というやつですよね?」
「そうっ。普通に考えたらうまくいきそうにない2人かもしれないけど、それでも私はあの人の事大好きだったし、あの人も同じだったって信じたいの。だから、あの人に結構似ている考え方のあなたじゃないとだめなの」
「つまり、その人と似ている私と付き合って、あの時彼が死んでいなかったら、うまくいっていたはずだったっていう未来を導き出したいって事ですか?」
「そうなの。そうすればきっと振り切れると思うの、あの人との過去を」
「……………そうですか………」
「じゃあさ、いかがわしい行為は最初は抜きでどうでしょうか。で、うまくいけばそのままという事で…………」
「……………………」
「15万円は払うから……」
「いらない」
「えっ?」
「よく私、いろんな人に言われる。もっと自信を持つべきだとか、いちいち謝らなくていいとか」
「そうなんだ」
「だけど私、やっぱり自信なんてない。だから1回のデートで15万円とかはちょっと怖すぎるっていうか………」
「いやっ、蒼野さん、あのね、むしろ10億以上の価値は軽くあると私は思ってる。でもそれじゃあさすがにまともに取り合ってくれないかなと思って、15万円に設定したんだけど」
「6400円でいいです」
「はっ?ちょ、それはさすがに……」
「デートだけでいいんでしょ?長時間電車に揺られて働きに行くよりかは、楽かなとは思ってる」
「そっ、そうなんだ。でもさ、もっとお金だすよ」
「ううん、それ以上はもらえない。だって碧さんに………」
「ん?」
「ううん、なんでもない」
まといは眉間にしわを刻み、彼女から目を背けた。
頭に浮かんだのは碧の顔である。
まだ体調が万全ではないので、デートだけで6400円稼げるのは願ってもない事だった。
だけど、こういう事でお金を稼ごうとするのも、碧は嫌がるのではとふと思ってしまったのだ。売春ではないものの、自分を売って金を稼ぐ点では同じなわけだから。
早く謝りたい。