惨劇の続き
いやな予感がした加賀城はすぐに夕桐高等学校へと駆けつけたが、時すでに遅しだった。
加賀城はスリッパすら履かずに靴を乱暴に脱ぎ捨て、迷わず階段をあがって、その視聴覚室のある4階へと向かったのだった。
4階をあがってすぐの階段付近には、教員と思われる数名の男女が倒れている。
空気が、空気が非常に悪かった。
匂いは無臭ではあるものの、目一杯吸い込んでしまったら吐いてしまいそうなくらいの、そんな空気だった。
視聴覚室の扉はむりやり外された状態で脇に置かれている。
本当なら、扉を蹴破る行為をいちいちしなくても、学校なら特に、スペアキーはきちんと常備はしてあるはず。でもそれをせずにこんな事をしてまで開けざるを得なかったという事は、誰かがそのスペアキーを持ち去ってしまったのだと考えた方が自然だった。
きっとこの扉は、階段付近で倒れている教員と思しきあの男女数名が蹴破ったのだろう。そしてようやくにして彼らは気がついたのだ。視聴覚室内には硫化水素が充満していると。
でも気づいたのが少し遅すぎた。ハンカチで口も塞がずに、視聴覚室内から流れてきた空気を吸ってしまったため、気分が悪くなってしまったのだ。だから、中にいる生徒達を助ける事なく、視聴覚室から離れざるを得なくなってしまった。
だが、彼らはかろうじて意識があった。
加賀城は、倒れていた女性教員からヘアゴムを借り、自分のポケットからヘアゴムとハンカチを出し、即席のマスクを作った。
そして119番に通報した。今回は火事ではなく硫化水素なので、レスキューの人達がそのうちやってくるだろう。
その女性教員を含めた男女数名は、はやく下の階に避難したいようだったが、彼らひとりひとりに肩を貸しながら階段を降りるのは時間があきらかにかかりすぎてしまうため、加賀城は乱暴に彼らを同じ階の、視聴覚室からちょっと離れた場所の理科室へと引きずっていった。
理科室で授業をしていた生徒と女性教師には窓を開けるように指示し、視聴覚室から離れた反対側の階段の方から避難するように言った。
加賀城はその女性教師にこう尋ねる。
「この階でほかに授業を受けているクラスは?」
「家庭科室と、あとパソコンルームを使ってるクラスがいます」
「なら彼らにも避難するよう伝えてください。できれば、下の階にいる人達にも」
「わっ、わかりました」
加賀城はすぐに理科室を出て、さきほど作った即席のマスクをつけ、視聴覚室の近くへと戻った。
視聴覚室の中からうめき声が聞こえる。
まだあの中に生き残りがいる。
センシビリティ・アタッカーの力で確認してみると、感情の鼓動がハッキリしているのは5名だった。あとは、死んでいるか瀕死かのどちらかである。
だが、安易にあの中に飛び込むのは愚の骨頂。新たな被害者に自分がなるだけである。
空気を吸わないようなるべく息を止めて中に入ったところで、ただでは済まないのはあきらかだった。
硫化水素をなめてはいけない。硫化水素は目をも傷つける。
それでも、自分がダメージを負ったとしても、救える命がひとつでも増えるのであれば、迷っている暇はない。
さいわい、このセンシビリティ・アタッカーの力があれば、生徒の細かい位置の特定は可能だった。
つまり、目を閉じたまま、意識のある生徒のところまでたどり着けるという意味である。
「…………………」
加賀城は決意した。
目を閉じ、息を止め、センシビリティ・アタッカーの力をオンにした。
そして視聴覚室の中へと飛び込み、意識のある生徒のもとへと駆け寄り、乱暴に首根っこのシャツを掴み、引きずった。
その生徒のほかにもうひとり、近くに意識のある生徒がいたので同様に首根っこのシャツを掴んで、両手で2人分引きずった。
その際、加賀城は机に思いきり腰をぶつけたが、そんなのは気にしなかった。
なるべくスピードを緩めず理科室へと目をつむりながら引っ張り、視聴覚室へと戻った。
「!」
だが、まだ視聴覚室の中に残っていた意識のある3名のうちの1人の反応が消え失せてしまった。
ただ寝ているだけなら、うっすらと感情を感じ取る事もできるが、それすらもなかった。
おそらく、死んだのだろう。
それでも加賀城は動きを止めるわけにはいかなかった。
さっきと同様目をつむって視聴覚室の中に入り、意識のある生徒の首根っこのシャツを掴む。
あともうひとりだけ意識のある者がいたが、場所的に遠回りにもなるし、目をつむっているので今掴んでいる生徒の体をどこかにぶつけてしまうリスクがあると判断し、いったん理科室へと1人だけ連れて行った。
加賀城は少しだけ、喉からこみ上げてくる吐き気を催したが、ためらわずに視聴覚室へと入り、意識のある生徒のもとへと走って、首根っこのところのシャツを掴んだ。この間にも、瀕死だった生徒の何名かが息を引き取ってしまっていた。
「…………………」
視聴覚室から出る直前、教壇の横に転がっていた男性教師が意識を取り戻したので、彼の首根っこも掴んで、理科室へと引きずっていった。
レスキューの人達はまだ来なかった。
渋滞にハマるような時間帯ではないはずなのに………。
せいぜい遅くても20分から30分くらいの時間でやって来ると思っていたのに……。
だったら彼らが到着するまで、あともう2人くらい助けに行くべきか。まだあの教室内には、瀕死ではあるが生きている生徒はまだ複数名いる。たとえ望み薄であっても可能性があるのなら、価値がないわけではなかった。
でも、頭がクラクラする。脳みそがつねに左右に揺らされているような、そんな気持ち悪さがあった。
だめだ。もう無理だ。
硫化水素が充満している中をあえて飛び込んでいるこの時点でもう愚の骨頂なのに、自分まで瀕死になるわけにはいかなかった。
命の取捨選択をしているようで悪いが、これ以上は自分1人ではどうしようもない。
「…………………」
なぜ、なぜこんな事になってしまったのだろうか。
あの時の電話にて、品川かなめの取り繕うような声のトーンに言い知れぬ予感を感じ、来てみたら、すでにここは地獄と化していた。
硫化水素があんなところから発生したという事は、誰かがそう仕組んだからにほかならず、品川かなめには充分すぎるほどの動機があった。
犯人が彼女だとしたら、こうならないための選択肢は確実にあったはずだ。
馬鹿正直に精神科警課のフロアに直接出勤なんてしないで、彼女が登校する時間を見計らって通学路付近で待ってる事だってできたはずだ。
言い訳のしようはいくらだってある。
だが、目の前に広がっているこの現実は、どんなに屁理屈をこねようとしても変える事なんてできない結果だった。