死の当日 後編
午前9時過ぎ。
碧がいつものように出かけてから、すぐにまといは冷蔵庫の中をチェックした。
さすがに今日は買い物に行かないとまずそうだ。明日の朝の分が足りない。
とは言っても、しょせんは女の2人暮らしなので、朝食用の食パンやベーコン、食欲がない時用にスープ春雨などあれば大丈夫である。夜は脂っこいものにしなくても、ほうれん草の胡麻和えやきんぴらでも充分だ。
熱は下がっている。
これでまた高熱が何日も出ようものなら碧の付き添いの下、病院に連れていかれる可能性があったので、なんとか一安心ではある。
だけどこんな調子だと長時間の肉体労働は当分無理そうだ。碧にはとことん甘えっぱなしなのでなんとか自立はしたいと思ってはいるのだが、情けない限りだった。
やはりしばらくは写真のバイトでコツコツ貯めるしかない。
ノートパソコンを開くと、いくつか写真の仕事が入っていた。
「えっと…下校途中のシーンで使えそうな写真と、あとライブハウス内の写真か……」
これらはすべて、マンガの背景に使う用の写真だ。
マンガ制作用の3Dオブジェクトを使えば、そのオブジェクトから線画を抽出する事は可能ではあるが、公式サイトで売られているオブジェクトの種類にも限りがあるので、似たような背景ばかりになってしまう。だから、カメラでしか取れない写真を撮って来てほしいらしい。
自動販売機が歩道沿いに映っている写真などもあればうれしいそうだ。
あと、ライブハウスについては、依頼主の漫画家さんが近々そういった背景のシーンを描く予定だが、自分でライブハウスまで取材に行く時間がないため、まといに依頼してきたのである。
そのライブハウスは、電車に1時間くらい乗って行かなければならない距離にはあるが、漫画家さんの方で交通費分も写真代に上乗せで支払ってくれるそうだ。あと、ライブハウス側にはもうアポは済んでいるとの事。
これら2つとも同じ漫画家さんから来た依頼なので、まといはすぐに漫画家さんへと電話をし、アップと引きの構図をどれだけほしいか打ち合わせをして、仕事を引き受ける意志を伝えた。
そしてさっそく家を出たのだった。
午前中という時間帯もあって人の通りは少なく、下校途中のシーンの方はすんなりと撮影は済んだ。
坂道や急カーブの背景も欲しいという要望もあったので、下り坂や上り坂のパターンもいくつか写真におさめた。
もちろん、人は撮らないようにタイミングを見計らった。
ライブハウスには13時過ぎに着いたが、それなりの数のスタッフが中にいた。今日は公演はないようだが、予行演習のために、21時頃にヴィジュアルバンドの人達がやってくるらしい。
まといは、フォーカスの中に人が入らないようタイミングを計ったりしていたため、その分時間はそれなりにかかってしまった。
まといは15時頃にすべて撮り終え、赤橋駅には16時30分すぎに着いた。
オレンジ色の空がどこまでも続いているそんな時間帯である。
さすがに疲れたのでバスに乗ろうと、西口の2階の出口に接続している大きな歩道橋の上へとそのまま移動した。
この歩道橋は本当にとても大きく、広場と言っていいくらいのそんな四角い広さがあった。
あと、下はバスターミナルとなっていて、バス停へと続く階段がいくつもある。
さらに、向かい側のビルまでこの歩道橋は繋がっていて、そこにも降りる階段がある。
でもまといはあそこまでは行かない。歩道橋の真ん中の位置にある4番バス停乗り場への階段を下りれば、自宅のマンション近くを通るバスに乗れる。
だからまといは歩いた。
高熱の際に出る頭のだるさはなかったが、背中から汗がびっしょりだった。
やはり、まだ本調子ではないらしい。
ふと、前方を歩いていたマスクに帽子姿の女性が転倒した。彼女は杖をついて歩いていたのだが、脚がもつれてしまったらしい。
もうまといは、目的の階段前まで来ていたが、女性がなかなか立ち上がらないものだから、『大丈夫ですか?』と駆け寄った。
「ええ、大丈夫です。でも、まだまだふらふらしてます。あそこの向かい側のビルの方の階段を降りないといけないんだけど………待ち合わせもあるし、休んでいる暇がない」
声は若かった。
無感情の瞳がまといの事を捉えていた。
「わかりました。一緒に降りましょう」
一応、その階段の近くには車いす専用のエレベーターがついているのだが、1つしかついていないうえに狭いので、場合によっては待たなくてはいけなくなる。
まといは女性の肩を抱き、彼女が倒れないように気を配りながら歩いた。
歩きながら、彼女はこんな事を口にした。
「カメラ………なさるんですね……」
「ええ、まあ…………」
「まさか……成功するとはね……」
「えっ?」
「フォーカスモンスターは死の運命に引き寄せられる傾向にある。それはおそらく磁石のようなもの」
「………………」
「だったらその死の運命を私自らの手で確定させたらどうなるか?あなたが姿を現すかどうか?それがずっと知りたかったの」
「………………」
「私は、人を救える人間になりたくてカウンセラーになったの。でも思い知ったわ。私には誰も救えない。だから私は逃げ出した。夕桐高等学校から」
「あなたは…………あなたは誰ですか?」
まといはそっと彼女から離れ、身構えた。
目的の階段まで、もうそんなに距離もなかった。
「鹿津絵里。私はあなたになりたくてずっと待ってた」
生暖かい空気がまといの頬を撫でた。
鹿津絵里の目は、半月型に歪んでいた。
そして彼女は目的の階段の方を指さした。
その階段をあがってきた田端翔が、赤橋駅の中へと入るためにこちらへと歩いてくる。
まといは、田端翔の本名こそは知らなかったが、彼の事を忘れてなどいなかった。
「ジャストタイミング」
そして田端は、まといの姿を見つけるなり発狂し、踵を返して再び階段を降りようとした。
だが、油を靴底で踏みつけたような錯覚に囚われてしまい、脚を滑らせ、下まで落ちていった。
「フフフ………人間はひとたび疑心暗鬼へと陥ると、操るのはたやすい。フォーカスモンスターに殺されるといった恐怖に囚われたのならなおさら、油を塗りたくっていない靴底のシューズでも簡単に転倒する」
「………………………」
「決まりね。やっぱりあなたがフォーカスモンスター。だって彼はあなたを見て驚き、そして死んだのだから」
大きな叫び声が階段下から聞こえてくる。
その叫び声はこの歩道橋のうえにいる人達の方まで連鎖していって、彼らを野次馬へと変えていき、大きなざわつきを生んだのだった。
死体が階段下にあると知った彼らはそれを見ようといっせいに走り出し、死体なんて見たくない一部の人達とぶつかっても謝りすらしなかった。
階段の方からやって来た小さな女の子を連れた母親が、死体を見てしまったせいなのか、気持ち悪そうな顔をしていた。
そんな母娘が、鹿津絵里の横を通り過ぎようとしたその時だった。
鹿津絵里の持っていたステッキの先端から刃が飛び出し、母親を斬りつけたのだった。
そして小さな女の子をその母親から奪って、女の子の首元へと先端を突きつけたのである。
「そのカメラちょうだい。この女の子を死なせたくなかったらね」
何という事だろうか。
警察に捕まる未来は想定していたが、この未来は想定していなかった。
ここまでの計画を立て、まさか自分のカメラを奪おうとする者が現れるとは……。
まといは眉間に深くしわを刻ませた。
カメラをあげるか、女の子を見殺しにするか。
簡単には決められない二者択一である。
カメラを渡したら、もしかしなくても、より多くの人達が死ぬかもしれない。
カメラを渡すのを拒んだら、女の子が死ぬだけで済む。
大勢を見捨てるか。それとも女の子を見殺しにするか。
「……………………」
「はやく決めてちょうだい。あと、勘違いしないで。あなたに与えたのは3つの選択肢。大勢の命を見捨てるか。女の子を見殺しにするか。あと、タイムリミットを迎えて結局女の子を死なすか」
「………わかった」
まといはこっそりメモリーカードだけカメラから抜き取ってそれを彼女に渡した。
そして鹿津絵里は去っていった。