放っておけばいい
石黒奈留の後姿を見送りながら、まといは深くため息をついたのだった。
写真はひととおり撮り終わったのでカメラを操作して画像データを開き、写真の出来を確認する。
しかし心の中ではまだ謝罪の仕方について悩んでいた。
もしも自分が高収入の夫だったら、ブランド物のバックでも買ってご機嫌を取るといった選択肢を選べるのだが、そこまでのお金はない。場合によっては、『こんなモノでチャラにしようとするな』とこじれる可能性も……。
まあ………許してもらえないなら、それはそれでいいのかもしれない。なぜなら、いつまでもこの生活を続けられるとも限らないのだから。
「………………………」
まといは川沿いの道を歩き始める。
まだ昼の時間帯のせいか、人通りはまばらだ。
今日は川の流れが速く、なんだか急かされている気分になった。
「ばびょーん」
すると、いかにもチンピラ風な5人組の男が、遠くの方で、なにやら騒いでいるのが見えた。
彼らはあろうことか、キャッチボールの要領で子猫を投げあったり、お手玉のように扱ったりしていた。
5人組の1人が、スマホを片手に、仲間の男達を撮っている。
そして急にタイトルコールをはじめた。
「ばびょーん。題して、子猫を川に流してみたシリーズぅぅぅぅ!!!!!FOO!!」
そして、どこまでも響く男達のゲラゲラとした笑い声。
「ゲリラっちょ。警官に小麦粉ぶつけてみたシリーズは飽きたしねぇ。皆様に胸糞悪い新しいタイプの動画をお届けするっちょ」
動画配信サービスでよからぬ動画を流した場合、その手の類は、通報されてすぐ運営に強制削除されて終わりだが、削除される前に誤って動画を見てしまった人は実に災難と言えるだろう。
つまりは、このまま放っておけば確実にあの子猫は川に流される。
人通りは少ない。
あの子猫を救うための選択肢は限られていた。
カメラを使ってあの男達を殺すか、カメラを使わずに男達に立ち向かうか。
「………………………」
迷う必要なんてない。カメラを使わずにあの男達を…………。
そう思ったすぐ後の事だった。
子猫の体が弧を描くようにして空高く飛び、手すりを越えて川の下へとポシャン、落ちてしまったのだった。
「プップクプー。子猫ちゃんの人生、ジ・エンド。俺たちの悪行は誰にも止められないじょー」
「キャハっ、ね、胸糞になった?ねえねえ、いまどんな気持ち?」
男達はスマホに向かって、ピースやら、ポーズやらをとっている。
「まあ、もちろん俺たちの顔と音声は加工しちゃうんで、すぐには犯人特定不可能だっぴょん、きゃは」
そして男達は満足そうな顔で去っていった。
まといはと言うと、実は、子猫が川に落ちたと同時にカメラを地面に放り投げ、後を追うようにして川へと飛び込んでいた。
子猫の姿が水面からでは見当たらなかったので、何回か潜ったりして、子猫が沈んでいないか確認しながら前へと進んだ。
すると、川底に沈んでいた木の枝に子猫が引っかかっているのを見つけたので、すぐにそこまで泳いで、木の枝を乱暴にどかして助けてあげた。
子猫と一緒に水面から顔を出す。
「痛っ」
太ももに痛みを感じた。
不法投棄された鉄の破片がここまで流されてきて、まといの太ももを抉ったのだ。
それでも動けないほどではなかったのでなんとか上がれる場所を見つけ、痛みを堪えながらハシゴをのぼった。
子猫は生きていた。口をもぞもぞと動かしている。
でも、毛は水分を吸ってしまっていて冷たく、早く乾かさないと命の危険があった。
「そうだ、カメラ」
本当はあんなカメラなんて放っておいて子猫の命を優先すべきなのだが、呪われたカメラをあんなところに放っておいたらそれこそ大変な事になりかねなかった。
だから元の場所まで戻ろうと速足で歩いたのだが………。
「あっ……」
元の場所に戻る必要はなくなった。
カメラを手に持って近づいてくる人がいたからである。
遠藤炭弥だった。
炭弥はすました顔で近づいてきて、まといの目の前で止まった。
彼は、まといの手を指さして、「血…」と言った。
「えっ?ああ………」
まといの手からは血が流れていた。
さっき、木の枝から子猫を助ける際に切ってしまっていたらしい。
太ももからも血が滲んでいる。
「あんた、どんだけお人好しやねん。猫なんて放っておいたらええ。猫のために人生棒に振るつもりか?あほか?」
「………あなたは、罪もない猫の命がくだらない理由で奪われたとしても、なんとも思わないんですか?」
「なら、あんたはどうなる?人のため、猫のためにいつもいつも自分の体や気持ちを犠牲にして……そんなの、自分の人生と言えるん?そこにあんた自身は存在するんか?」
「でも、私は後悔なんてしたくないから」
「後悔のない人生なんてあらへん。間違わない人生もな。まあええわ。正解かどうかはともかく、その猫乾かさないとな。あんたも来な。その方が早いわ」
「…………わかりました」
炭弥の言う通り、まといは喫茶店CAMELへと移動したのだった。
炭弥は裏口を通ってまといと子猫を自宅の中へと入れた。
炭弥の自宅は喫茶店CAMELと繋がっているので、自宅から店内へと出られる。
まといは、炭弥があそこにいたくらいだから今日は喫茶店CAMELはお休みなのかと思ったが、店内には中年男性のウェイターが何名かいて、炭弥なしでも賑わっていた。
炭弥は開店前にはいつも、スープやソースの下ごしらえは済ませているので、多少の時間なら店を開ける事が可能というわけである。
炭弥は、2階へとまといをあがらせ、以前まといが夜を明かした事のあるあの部屋へと入れたのだった。
2階なら、休憩がてら、ウェイターがリビングの方までやって来る事はあっても、わざわざ階段をあがったりはしないからだ。まあ、モラルのない図々しい人間なら、他人の家の隅々まで詮索する可能性は高いが。
炭弥はまず、大きなタオルを使って、子猫の全身の毛に染み込んだ水分を拭った。
そして大雑把にドライヤーで乾かしたのち、折りたたんだ毛布の上に猫を寝かせ、その近くに電気ストーブを置いた。でも、あまりにも電気ストーブとの距離が近いと逆に猫が火傷をしてしまうので、ちゃんと距離には気を配っていた。
次に、まといの掌の血をタオルで大雑把に拭い、消毒液を染み込ませたコットンでさらに汚れを落として、包帯を巻いた。
「ありがとうございます」
「でも、まだ太もものところの処置が終わってへん。まあでも、下を脱がすわけにもいかんから、あとは自分でせえ。替えのスウェットは持ってくるから」
「わかりました」
炭弥はスウェットを別の部屋から持ってきてまといに渡し、部屋を出て行った。
まといは下を脱いで太ももの血を拭い、傷口を消毒した。
「………………………」
なんだかんだ言って、炭弥に世話になっている自分がいる。
猫なんて放っておけとは言われたが、ただの無神経な発言ではないような気がした。