石黒奈留の場合3
集合住宅の近くには、堀が深めで幅の広い大きな川が流れている。
川を挟んだその両サイドはアスファルトで舗装された道になっていて、子供が川に落ちないよう、少し高めの手すりがしてある。
この川の名前は佐松川という。
石黒奈留はひとり、このアスファルトの道を歩きながらゆっくりとため息をついた。
福富神子にあそこまで言われてしまったわけである。なんだか、将来絶望しかないと断言されてしまった気分だった。岩松先生にも相手にされなくなってしまったので、自信喪失だ。
パシャ。
カメラのフラッシュ音がなった。
見ると、川沿いに設置された手すりによりかかって、女性が大きなカメラを構えて、向こう側の住宅を撮影していた。
遠景写真というやつだ。
優しそうな横顔の美人だった。カメラを持つその姿はとても様になっていた。
だから奈留はしばらく見とれてしまったのだった。
そう、蒼野まといである。
すると奈留は、蒼野まといと目が合ってしまう。
奈留はすぐに謝罪した。だって、見ず知らずの人にずっと見られていただなんて、相手からしたら、あまりいい気はしないはずだから。
でも、蒼野まといは怒らなかった。
そんな彼女は、実に清涼感のある声をしていた。
「気にしないでね。というより、こんな風にひとりでパシャパシャ写真撮ってると、たまに怪しむ人とかいるから、そういうんじゃなければ私は別に構わないと思ってる」
「もしかしてジャーナリストの方ですか?」
「えっ」
「だって、様になってるし………」
「違うわ。遠景の写真を頼まれたから撮ってただけ」
「頼まれた?雑誌か何かですか?」
「マンガ家に頼まれたの。背景として使いたいからって」
「マンガの背景ぃ?」
少し拍子抜けしてしまった。
カメラ姿があんなにも様になっていたのに、マンガがどうのこうの言い出したからである。
まあ別に、マンガ家をバカにしたいわけではないのだけれど………。
まといは奈留に対し、自身の仕事をこう説明した。
「マンガの背景ってね、綿密であればあるほど、定規でイチから描くと膨大な時間がかかるから、写真から線画を抽出したり、逆に抽出はしないで漫画風の背景に加工したりする人もいる。でも、欲しいアングルの背景を撮りに行くだけでも時間が撮られてしまうから、私がこうして代わりに撮ってるってわけ」
今はデジタルでマンガが描けるので、わざわざ定規を使わなくてもリビングテーブルを描きたいならリビングテーブルの形をした3Dオブジェクトから線画を抽出できるが、写真ならではの味わいを好む漫画家もいる。
手間賃込みで10枚で最低5000円だ。ビルがいっぱい写っている写真などは、相手の厚意で割高で引き取ってもらえる事もある。
「へえ、そうなんですね」
そんな方法で稼げるとは知らなかった。普通にバイトで7、8時間働くよりかは疲れなくていいかもしれないが、一般企業に就職して働いた方が、安定した収入は得られそうである。
ふと、ある疑問が湧いたので、奈留はまといに聞いてみた。
「ジャーナリストになろうとは思わなかったんですか?」
「ジャーナリスト………ね」
まといは眉間にしわを刻んだ。
そしてこう言葉を続けた。
「私みたいなのはなるべきじゃないのだけはわかる。私見が入りすぎちゃうと思うから」
そんなまといに対し、奈留はこんな事を言った。
「えっ、そんな事ないと思うんだけどなぁ。なんていうか、正義側の人間のような気がするし」
「……………そう、そんな風に見えるんだ」
「私もジャーナリストになりたいと思っているんですけど、なかなかうまくいかなくて……」
「大学4年生?」
「いいえ、2年生です」
「そっか。そうだよね。もう3月だし、4年生が今からだと、就職できるところは限られちゃうか」
まといはクスリと笑った。
その笑顔を見て、奈留はうれしい気持ちになった。
「私、石黒奈留っていいます。今のうちにしっかりと地盤を固めて、悪を白日のもとに晒す事のできるジャーナリストになりたいんです」
「私は蒼野まといっていうの。理想のジャーナリストになれるといいね」
「んー、でも、少し芳しくないっていうか……」
「どうして?」
「どんな分野で活躍したいか聞かれたとき、即答できなかったんです。ジャーナリストって一口に言っても、政治ジャーナリストとかスポーツジャーナリストとかもあって…………。あと、ジャーナリストはおままごとじゃないとも言われました」
「ふうん。でも、あなたの中になにか信念があったから、ジャーナリストを目指したいと思ったんじゃないの?誰かに否定されたからといって、それが必ずしも間違いってわけじゃないと思う。まあ、私もそんなに立派な人間ではないから、偉そうな事は言えないけどね」
「ううん、充分励みになります」
「私はいいと思うけどな。立場や建前に流されないで正義を追求できるジャーナリスト」
マスコミのせいで27人の命が失われた過去があるからこそ、まといは本当に強く願っている。
嘘に惑わされないで真実を届ける事ができる本当のジャーナリストを。