ミチルとワカコ4
夕方。
ここはワカコの自宅である。
きれいなレースのカーテンが特徴の、上品な家具でまとめられた一室だ。
ワカコはパソコンを開いている。
ミチ&ワカを応援するために設けられたネット掲示板では、こんなコメントの数々が書かれてある。
『ワカ様の声、神。屈服する』
『きれいな声だけど力強さもあるんだよね。まじ歌の世界に没頭するわ』
『てか、絶対美人だろ、この人』
『下僕にしてくれー』
そのコメントの数々を見て、ワカコはゆっくりと深いため息をついた。
実はワカコには、ミチルには言ってない事があった。
歌うのは楽しい。
ミチルの作ってくれる歌の世界でだけ、正直で純粋な自分でいれるからである。
でもその裏で、ある罪悪感に苛まれていた。
誰かに好かれる事に対し、嫌悪感があった。
誰かに好きだと言われるたびに、『何をいまさら』と思ってしまうわけである。
本当は幸運な事だと思わなければいけないのだが、どうしても、あのイジメられていた頃の気持ちが残ってしまっていて、好意的に思われても、手のひら返しの上っ面にしか感じる事ができないのだ。
「私に歌を歌う資格なんて………」
ワカコは、もう1度深くため息をついた。
ジレンマである。
あれからもう8年間だ。それでもちっとも強くなれない自分の心が、ワカコはどうしようもなくもどかしくてしかたがなかった。
魔が差したワカコはふと、とある掲示板を開いてこんな書き込みをした。
フォーカスモンスター。どうかわたしを殺してください。
これはあくまでうわさでしかないが、書き込みをすれば、フォーカスモンスターは応えてくれるらしい。
そんな時だった。
ミチルからのボイスチャット要請が表示されたので、ワカコはすぐにチャットOKのボタンを押した。
さきほどの書き込みはすぐに消した。
なんて馬鹿な事をしたと、我に返ったからだった。
翌日。
学校が終わってもミチルはそのまま帰宅はせず、新宿の芸能プロダクションの事務所へと向かった。
お誘いがあったからである。
ワカコとは一緒には行かなかった。
本当は一緒に行くのが筋なのだが、昨日のボイスチャットの時も含め、最近落ち込んでいるように感じたので、1人で行く事にした。
何に対し悩んでいるのかはあえて聞かなかった。
ワカコは内気なので、無理やり聞き出す事でストレスを感じてしまう可能性だってある。
大切な親友だからこそ、相手の気持ちを尊重できる相棒でいたかった。
それに、なんとなく察してはいた。
ワカコは、8年前とは違って今では普通に笑顔を見せてくれるようにはなったものの、ほかの人とのコミュニケーションの際は、ストレスを若干にじませた表情をする。
ほかのみんなは気づいていないようだが、ミチルはそれにとっくに気づいていた。
でも、完璧な人間なんてこの世にはいない。
心の傷が治るのにだって個人差がある。
だからミチルは、ゆっくりでいいと思っている。
事務所契約の手続きの件もいったん保留にしてもらって、ミチルは、今日のところは帰る事にした。
今はその時ではないと感じたからだった。
そして、その芸能事務所からの帰り道、駅へと向かう帰りの途中で、ミチルはまた蒼野まといと出会った。
蒼野まといは、背の高い大きな門の前に立っていた。
児童養護施設廃墟前である。
ここは以前、大きな火事で焼けてしまったのだが、建物をかつて囲っていた外側の塀と、出入り口の門だけは残ったままだ。
ミチルは蒼野まといに対し、こんな事を言った。
「枯れてる木の次は、この廃墟を撮るんですか?そういうのって、もしかしてバズるとか?」
ミチルはニコニコと笑っていた。
でも、蒼野まといは笑わなかった。
そしてまといはこんな事を言った。
「27人死んだの」
「えっ?」
「この施設出身の女の子がね女優としてデビューしたんだけど、麻薬所持の罪を着せられてね……そのせいでほかの子まで近所からのいやがらせにあったり、マスコミに追い掛け回されたり、クラスメイトに犯罪者呼ばわりされた。せっかく合格した大学入試の結果も、結局無効になって」
「じゃあ、近所の誰かがいたずらで放火したとか?」
「いいえ。どこの大学にも行けなくなってしまったその子が火をつけたの。それに、ほかの子達も彼と同じくらい精神的に参っていた。だから、その男の子はね、無理心中という形でみんなで死ねば、それはそれで幸せになれるいう考えに行き着いた」
「そんな………」
「だから、この場所を撮る気になれないわ……」
「私、無神経な事言っちゃいましたよね。バズるとかなんとか……」
「いいのよ。ちゃんと反省できる人を、私は責めたりはしないし、事情を知らない人から見たら、ただの廃墟だしね」
「じゃあ、まといさんはなんでこの場所に立っていたんですか?」
そうなのだ。この場所を撮る気がないのであれば、なんでここから動かずにいたのか、意味がないわけがないのである。
するとまといはこう答えてくれた。
「親友との約束を思い出してたの」
「約束?」
「大学に行くのを遠慮した私に対し、彼女はこのカメラを私に渡してこう言ったわ。だったらせめて、ちゃんと夢くらい叶えて幸せになれって」
「素敵な親友じゃないですか?」
「だから、やめる踏ん切りがつかなくてね………」
「そうですか……」
ふとワカコの事がよぎった。
彼女ももしかしたらやめる踏ん切りがつかないだけなのだとしたら……。
「じゃあまといさんは、もう撮りたいものがないんですか?」
もしそうだとしたら、親友が何と言おうと、やめるのもまた道である。
でもまといはこんな事を言った。
「いいえ、撮りたいものはあるのよ」
「なにをですか?」
「もうそろそろ人が撮りたいかな」