壊された運命
そしてまといは目を開けたのだった。
まずはじめに鼻にツンと来たのは、むせてしまいそうなくらいにキツイ消毒液の匂いだった。
次に耳に入ってきたのは、ガタが来ているエアコン独特の振動音だった。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。電車の走行音のようにも聞こえる。
でも、エアコンではなかった。真っ白い天井に埋め込まれた換気扇の音だった。
そして、肩の骨が思わず軋んでしまいそうなくらいの硬いベッドに、まといは横たわっている。
右を向くと、透明のカーテンが目に映った。
まといが今横たわっているベッドは、この透明のカーテンに四方を仕切られている。
カーテン越しに色々家具やらがぼやけて見えるが、全体的に白のトーンでまとめられている。人の姿は見えない。
手首にはテープが巻かれてあって、そこから管が伸びている。
ベッドの横には見覚えのある点滴があった。
点滴のパックの中身は空になっていた。
「…………………………」
まといは手首のテープを外し、点滴の針を抜いた。
問題なのはここがどこかという事である。
上半身だけ起こしてみると、右肩の部分だけ不自然に服が切り裂かれているのに気づいた。そう、例の女性に撃たれた箇所だ。だから右肩部分の肌が今、あらわになっている。
そしてその撃たれた箇所にはガーゼによる処置が施されていた。
左太ももにも同様の処置が施されているのに気づいた。
今、この部屋には本当にまとい以外はいないらしい。
とりあえず、よくわからない場所にこのまま居続けても仕方がないので、ゆっくりとベッドから降りた。その際、右肩にじんわりとした痛みを感じたが、気にせず透明のカーテンを開けた。
すると、丸椅子の上に紙袋が置いてあるのに気づいた。
中身は黒のパーカーに白のスウェットパンツである。
サイズは、タグを確認してみると、FREEと印字されてあった。
新しい靴まで入ってた。
まといはそれに着替える事にした。
かわりに、脱いだ分の衣服を紙袋に入れ、紙袋を胸に抱いた。
医療品が並べられた棚にはまといのカメラが置いてあった。
人を不幸にしか陥れないカメラである。
それでも、こんなところに置きっぱなしにしておくわけにもいかなかったので、カメラもついでに紙袋の中にしまって、部屋を出たのだった。
「………………………」
部屋を出て左側は行き止まりとなっていて、埃をかぶった段ボールがいくつも積まれてあった。
右側には階段があった。
まといはいったん階段をのぼりかけるも、すぐに部屋へと戻り、自分をここに連れてきた人物の手がかりがないか、隅々まで調べてみた。
でも特に何も見つからなかった。
やたらカタカナの多い透明の小瓶やらは置いてあったが、これらが手掛かりになるとは思えなかった。
キシロカイン。プロポフォール。あと傷の消毒でおなじみのマキ○ンである。
仕方がないので今度こそまといは部屋を出て階段をのぼった。
階段をのぼった先の正面にはまた段ボールが積んであったが、右側に扉があったのでそこを開けて先へと進んだ。
すると、一気に埃臭くなった。
なにやら倉庫みたいな部屋に出た。もちろん電気はついていないので薄暗かった。
やたらと段ボールが置いてあったので、もしかして怪しげなものでも入っているのではないかと思い、いくつか開けてみた。
「……………………」
たしかに怪しげなものは入っていた。
でも海外版と思しき18禁DVDだった。しかも年代がとても古そうな。
左奥に扉が見えたのでその先へと進むと、また通路へと出た。いったいいつになったら外に出られるのかと思ったが、左側の壁には窓がついていて、そこから日が差し込んでいた。正面奥には、ガラスのついた出入り口っぽい扉があったので、ようやくかと安堵のため息をついたのだった。
「…………………………」
まといは迷わず正面奥の扉へと進み、扉を開けて外へと出た。
目の前には車2つ分縦に停められそうなコンクリのスペースがあったが、無関係の人間が入れないよう、進入禁止のロープが張ってあった。
まといはそのロープを潜って、道路へと出た。
車がやって来る様子は見られない。耳を澄ましても、遠くの方で車が走っているようなそんな走行音は聞こえなかった。
自分がさきほどいた建物の方を振り返る。
1階分の高さしかない、地味で灰色の四角い建物だった。
周囲には似たような建物があったが、とても閑散としていた。
シャッターの閉まったパン屋。これまたシャッターの閉まったクリーニング屋にコインランドリー。看板の壊れた歯科医院まであった。
なんだか、時代に取り残された場所といった感じである。
本当に、ここはいったいどこなのだろうか。
閑散としているのは、まだ時間帯が朝だからだろうか。それとも、この周辺には人は住んでいないからなのか。
とにかくまといは歩いた。
電柱さえ見つければ、電柱にはおおまかな住所のナンバーの載ったプレートがだいたい取りつけてあるので、おおよその場所くらいは把握できるだろう。
「………………」
と思ったのだが、電柱はなかなか見つからなかった。
このままだと、太ももがパンパンに腫れあがりそうである。
でも、ようやくにして、道路を走る車の走行音が聞こえてくる。
頑張って先へと進むと、ビルの多い大通りへ出る事ができた。
少し離れた歩道沿いのところにバス停も見えた。バス停の近くにはやたら横長のビルみたいな建物もあった。
まといは紙袋の中に手を入れ、脱いだ衣服のポケットから小銭入れを取り出した。
バスに乗るためである。本当はお金を使いたくはないが、頭がクラクラするし、陽の光が目に染みて辛いので、体力が持ちそうになかった。
右肩にじんわりとした違和感があったが気にせずバス停へと向かった。
バス停に書かれた看板を見て、まといは愕然とした。
「掻揚町前………えっ、掻揚町なんて町、聞いた事がないよ」
しかも、ここを通るバスの終点は戸土間駅行きらしく、さらに聞いた事がない名前だった。
これだと、たとえ戸土間駅から家に帰ろうとしても、見当違いのところしか線路が通っていない可能性もあった。
スマホは持ってない。
蕪山からもらったスマホは寝室のクローゼットに閉まってある。
おそらくあのスマホを使おうとしても、彼の遺族がすでに解約していると思うので、電話もメールも無理だろう。
家族が死んだ場合のスマホは、必要書類さえあれば遺族でも解約できるのだそうだ。
でもあのスマホは形見として持ち続けている。
実は1度、碧はまといにスマホを持たせようとしたのだが、毎月5000も6000も払いたくはなかったので断ったのである。
でもスマホはガラケーと違って動作がサクサクだと聞くし、いちいちブラウザを開いて地図情報サイトを検索しなくても、地図専用アプリもあるのでワンタッチで済み、位置情報をパッと見る事もできる。
ここに来てようやくスマホの必要性を見出す事になるだなんて、なんて皮肉なのだろうか。
でも、近くにはケータイショップなんて見当たらない。やたら横長な建物があるだけである。
「………………………」
とにかく行ってみるしかない。さいあく受付の人に赤橋町方面の行き方を尋ねればいいわけだから…。
まといは建物の方へと歩いた。
何度でも言うが、この建物、やたら横長なため、なかなか出入り口が見つからなかった。
ガラス張りの壁から覗くフロア内は、ちょっとしたカフェになっているのは確認できた。
でもビジネスマン風の人が多くみられたので、総合百貨店というよりかは、超巨大なオフィスビルといった感じである。
「蒼野さん」
男の声で話しかけられた。品のいいトーンの声である。
振り返るとそこにはスーツ姿の背の高い男性がいた。
「………………」
最初、顔を見ても誰だかわからなかった。
名前がすぐに出てこなかったのは、普段からスーツを着るようなイメージがなかったためである。
そう、直江宗政である。
宗政は品のいい笑みを浮かべていた。
「蒼野さんは、このホテルに何か用ですか?」
「……えっ?ここホテルなんですか?」
「そうです、ビジネスマン向けのね。幹部同士の交渉の場としても使われます。また外資系の企業をもてなす場としてもね。1泊の値段は高いですし、コーヒー1杯の値段も相当なものです。だから、少々嫌味な言い方になってしまいますが、年収700万以下のご家族が気軽に泊まれる場所ではないですね。やたら広いプールもありますし」
「そうなんだ…まあでも、赤橋町までの行き方さえ聞ければ私は別に構わないけれど………」
「…そういえば蒼野さん、その黒のパーカーにスウェットパンツといった格好、寝間着っぽくも見えますね」
「いや、あの………その………」
どう説明していいかわからない。
何者かにあの建物の地下の部屋まで連れてこられたからこそ今こうして困っているわけだが、それを正確に説明するとなると、銃で撃たれた事まで言わないといけなさそうだ。
そうなると、カメラで人殺しをしている事まで言わないと話が通らないわけだし……。
「蒼野さん、私が家まで送りますよ。今日は車でここまで来てますので」
「いや………でも………」
「用事はもう昨日済んじゃいましたから。あとは直江寺まで帰るだけですので」
「それならよけいになんか悪いです。お寺に帰っても、住職としての務めがまだあるでしょうから」
「私の事……怖いですか?」
「えっ?」
「遠慮と恐怖は表裏一体です。何事に対しても遠慮してしまう人は、それ相当のお返しをしなければ相手が怒るのではといった恐怖があるからなのです」
「……………そんな、怖いだなんて」
「私の事怖がらないでください。私はモノなんていりません。本当のあなたが見たいだけなのです」
宗政はまといの手首を掴み、ホテルの裏にある駐車場へと連れて行った。
宗政の車は、黒塗りのセダンである。とてもピカピカだった。
宗政は、いったん消臭スプレーを車内に軽く吹きかけてからまといを助手席へと座らせた。
「それじゃあ行きましょうか」
宗政は車を走らせる。
車内はいい感じに温度が調整されていて、ポカポカ陽気を浴びているようだった。
クラクラしていた事もあり、まといはすぐに眠ってしまった。
まといが自宅のマンションに着いたのは9時過ぎだった。
まといは、玄関をあがって、人通りの部屋をまわったが、やはり碧はいなかった。
ウッドシェルフのうえに置かれたデジタル時計の日付を見て、あの日から2日も経過してしまっていた事にまといは気づいたのだった。
銃で撃たれて死にかけたあの時は、碧の事なんて微塵も考えたりはしなかった。
ただただ当然の報いとして、喜んですらいた気がする。
なんて身勝手だろうと思った。
報いはたしかに受けるべきだ。でも、碧に何も話そうともせずひっそりと死ぬだなんて、それこそ、彼女の善意を、そして厚意に対しツバを吐きかけるようなものである。
もっと仲良くなりたいと言ってくれた彼女の想いに、まだ自分は答えてはいないのだから。