ミチルとワカコ3
1
次の日、ミチルは少しだけ寝坊してしまった。
それでも走ればなんとか学校に間に合う時間だったので、新曲の入ったUSB型ウォークマンを制服のブレザーのポケットに入れ、慌てて家を飛び出したのだった。
そして、公園脇の一本道にて……。
ある人物と正面から勢いよくぶつかってしまう。
その人物とぶつかった際、まるで見えないバリアにでもはじかれたかのようにミチルはバチンと飛ばされ、後ろ向きのままズシンと尻もちをついてしまった。
さらに、地面に散らかっていた小さな石が、スカート越しに、突き刺さったような痛みをミチルへと与える。
もしもミチルが、瞬間湯沸かし器のごとく怒りっぽい性格だったら、ここで1発、『何すんだコロやろーっ!!』と声をあげていたかもしれない。
でもミチルは冷静だった。
それどころか、不可解な表情すら浮かべているではないか。
それもそのはず。
だってミチルは、しっかりと前を向いて走っていたからだ。
それでも、ぶつかった。
誰もいなかったはずなのに…。
ミチルは目線をゆっくりと上へとスライドさせ、ぶつかった相手がいったいどんな人物なのかを確認したのだった。
女の人だった。
若干灰色がかったゆるふわショートヘアの女性である。
背は160以上はあり、優しそうな大きな瞳の美人だ。
ラフな格好が好きなのか、ジーンズと、無地の長袖のシャツしか着ていない。
そして彼女は、むき出しの大きなカメラを手にしていた。
彼女の腰には、カメラをしまうためのベルト状のポーチが固定されている。
彼女はミチルに対し、すぐに謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、避けなくて」
清涼感のある、おっとりとした声だった。
「いいえ、私こそ」
今の世の中、ぶつかっても謝らない人の方が多いのが現実。
しっかりと謝れるタイプは貴重だった。
だからミチルはすぐに彼女の事を許した。
「けがはない?」
「ええ、このくらいだいじょーぶです。たぶん私の方が悪いと思うし。なんというか、ちゃんと目の前を向いていたのにあなたにぶつかってしまったんです。だから、ボケっとしてたんだと思う」
「そう」
「それじゃあ、わたし学校があるので」
ミチルは深く頭をさげ、また走り出した。
そんなミチルの背中を、女性はフォーカス越しにしばらく眺めていたが、足元に落ちているそれに気づき、拾い上げたのだった。
一方その頃。
ワカコは校舎裏にて、深いため息をついた。
せっかく朝早く来たのに、別の組の男子に、校舎裏まで誘導されてしまったからである。
しかも方法が少しせこいのだ。
最初は『せんせいが呼んでるから来て』だったのに、『職員室にはせんせいはいない、こっちだよ、こっち』と言われ、この場所に至っている。
この時点でもう、ワカコの、この男子に対する好感度は皆無だった。
それでも『いや』とは言わなかったのは、以前、『お高く留まってる』と怒り出した男子がいたからである。
「ワカコさん好きです」
「ごめんなさい、私好きな人がいるから」
もちろん別に好きな人なんていない。
というより、恋愛には興味が持てないのである。
ワカコは、ミチルと出会う以前は、内気すぎる性格のせいで、男子にもさんざんイジメられてきた。
だから、こうして色んな人に告白されるようになったのに、違和感しか持てないのである。
まあ、こういうところが、他人から見ると、お高く留まっていると感じるのかもしれないが。
「じゃあ、二股でオナシャス。スリルがあって楽しいと思うし」
「ごめんなさい。私は浮気なんてしません」
「えっ?意味不明なんですけど。なんだよそれっ。だったらなんで、その気があるようなそぶり見せたのっ」
煩わしい。
どこをどう見れば、その気のあるそぶりと勘違いができるのか……。
昔はよかった。誰かのご機嫌取りをする必要がないほどに、みんなから嫌われていたからだ。その分、面倒事がなくて楽だった。
2
ミチルが、USB型ウォークマンを落としたのに気づいたのは、昼休みの時だった。
ワカコに新曲を聴いてもらおうとさっそくバッグを開けたのだが、隅を探しても見つからなかった。
落としたとして一番可能性があるとしたら、"あの人"とぶつかった時だろう。
なのでミチルは、午後の授業が終わると同時に、さっさと学校を後にしたのだった。
すると公園の方で、あの女性の姿を見つける事ができた。
彼女は、あるモノに対してカメラのフォーカスを向けていた。
そのあるモノとは、真っ二つに折れてしまった枯れた大木である。
そして彼女は、その大木をパシャパシャと撮っている。
でも、とても思い悩んだ表情だった。
「あっ、あのぉ、すいません」
ミチルは彼女に話しかけた。
すると、彼女の表情から思い悩んだ感じがすぐにスッと消える。
そして瞳がミチルへとゆっくりと向けられた。
「あら?」
相変わらず清涼感のある声だった。
というより、毒気が一切感じられないのである。
たとえば、一見優しそうに見える人でも、わずかな目の動きや表情の引きつりから本音が見えたりもする。
でも、この彼女にはそれがない。
「あなた、コレ落としたんじゃない?」
彼女は、にっこりと笑みを浮かべながら、ミチルへとUSB型ウォークマンを差し出す。
「あっ、ありがとうございます」
「いいえ」
「あの、なんで枯れた大木なんて撮ってたんですか?」
ミチルは、気になったので聞いてみた。
すると彼女はこう答えてくれた。
「もうすでに死んでるから」
「えっ」
「もうすでに死んでるから、殺しようがないでしょ」
「木を……殺す?」
「だって、人にフォーカスを向けるのって怖くない?やり方ひとつ違えば、人生を粉々に殺すことだってできてしまうのだから」
「なるほど、言っている意味はよくわかります」
でもだったら、この女性がカメラを続ける意味ってあるのだろうか。
今だって、大木を楽しそうには撮ってはいなかったから。
すると、彼女はミチルに対し、こう尋ねた。
「それにしても、あなたはドン引きしないの?」
「なにがです?」
「だって、いきなり殺すだの死んでるだの相手が口にしたら、普通はびっくりするでしょ?というより、変な人だと思うんじゃない?」
「あー、しません」
「なぜ」
「だってお姉さん、絶対にいい人だってわかってるから」
「よっぽどの自信ね」
「まあ、私はエスパーでもなんでもないけど、人を見る目はあると思います。だから、相手がいい人だとわかりきっているなら、ちょっとやそっとの事では評価を変えたりしません」
「そう………。本当はね、枯れた大木を撮って来てほしいって依頼があったの。マンガの背景に使うんだって。私としては被写体が人でなければ、なんだっていいのだけれど。それにしてもあなたはいい子なのね。私の名前は蒼野まとい。あなたは?」
「来栖ミチルです」
「じゃあ私はそろそろ行くけど、夜はあまり出歩かない方がいいわ。最近は特に物騒だから」
そして、蒼野まといは去っていった。
そんな彼女に対し、ミチルはひとり、こんな事を言った。
「うーん、あの人の声も私好きかも。毒気がないから癒されるんだよね」
とにかく、USB型ウォークマンが無事でよかったとミチルは思った。家に帰ったら、ワカコをチャットにでも誘って、さっそく聞いてもらおうではないか。
なのでミチルはすぐに公園を出て、住宅街の道へと入り、家のある方角へとひたすら歩いていく。
すると、向こうからやってきた他校の女子達がこんな会話をしているのが聞こえてきた。
ねえ、フォーカスモンスターって知ってる?