何も語らず只消え去るのみ
同日7月25日の夜。PM22時15分。
老英は日本を出るため、千葉県へと車で移動した。そして、鬱蒼とした森が広がるエリアへと入って、その森を、教えてもらったルート通りに歩いて、海沿いの開けたスペースへと移動した。
その海沿いには一隻の大きな船が留まっていた。
「時間通り……」
懐中時計で時間を確認してから、老英はその船へと乗り込んだのだった。
船員に案内され、船底に近い船室へと移動した。
その部屋にはフカフカのベッドが用意されており、アンティークの蓄音機、サイドテーブル、冷蔵庫もあった。
冷蔵庫をあけると年代物の赤ワインのボトルと、それにあう高級品のナッツとチーズもあった。
あと、ワイン用のグラスも入っていて、キンキンに冷えた証でもある霜が、グラスの表面にビッシリとついていた。
「ふっ」
赤ワインの背に隠れるようにして白ワインのビンを見つけたので、キンキンに冷えたグラスと一緒に手にし、ベッドの横のサイドテーブルのうえにそのグラスとワインのボトルをいったん置いた。
「……………………」
もう日本には用はなかった。
翌日の0時の時間帯に大量虐殺の一大イベントがおこなわれる予定ではあるが、別に人が死ぬ瞬間なんて見ても面白くもなんともないので、一足先にオサラバする事にしたのである。
日本はもう………終わりだ。
何度も何度もテロが起きている国へとわざわざ旅行をしにやって来るモノ好きは少ないはずなので、そういった面でも、日本の経済に打撃を与える事ができたというわけである。
破綻とまではいかなくても、政府に入って来るお金に大幅の減りが生じれば、政府は必ずその分の補填を、中小企業への締め付けや税金の引き上げでおこなうはずなので、失業者も必然的に増え、国民年金を支払えない者が急増し、悪循環に歯止めが利かなくなってしまうわけである。
それに、“無能”が“有能”の足を引っ張り合っているのがいまの現状。
でもこれでいい。
本当は、日本に骨をうずめる覚悟だった。だからこそ、もう何十年も前の話にはなるが、恋人と一緒になんとか日本まで渡って来たのである。
だけど、“平和主義日本”は表向きの顔でしかなかったのだ。
日本人は、ちょっとした事で自分と他者を比較し、逮捕されない程度の陰湿な嫌がらせを繰り返す人間が、驚くほど圧倒的に多かった。
そのいやがらせから逃れるために日本国内を何度も転々としたが、結局は同じだった。
それでも日本から出ようとしなかったのは、他の国に移るよりも日本にいた方が、まだ警察の目もゆるく、住みやすいと思ったからである。
しかしそれは間違いだった。
恋人は日本人にレイプされ、そして自殺した。
自殺してしまったために、レイプ事件に関しては証言できる者が他にいなくなってしまったので、うやむやになってしまった。
それでも日本を出ようとは思わなかった。
金稼ぎにちょうどいい国でもあったからである。
それから何十年と時が経過していった。
そして王李のもとにあのオンナがやって来た。
復讐をするのに、ちょうどいいチャンスだなと老英は思った。
恋人が自殺したのはもう何十年も前だが、日本人は相も変わらず“差別主義者”ばかりだったので、こうなったらもう、日本そのものをつぶしてやろうかと思ったのだ。
そして現在、7月25日。
復讐をようやく完璧な形で終える事ができた。
きっと恋人も天国で喜んでいるだろう。
それに王李だって本望のはずだ………。
コンコン。
誰か廊下側からノックをした。
老英は、白ワインをグラスに注ぐのを止め、その扉を開けた。
すると扉の隙間からヌッと手がこちらへと伸びてきて、老英の額に拳銃がつきつけられたのだった。
老英は口元に笑みを浮かべ、こうつぶやいた。
「ふっ………やっぱりな」
「………………」
「なんとなくいやな予感はしていたが、でもまさか、お前の方からやって来るとはね、近衛孝三郎」
「もう終わりにしましょうか、老英さん」
「ざっとみた感じだと、まだ本調子ではないように見えるが?」
「大丈夫ですよ。さっきそこで“知り合い”とばったり出会いましたので。ほかの船員も時期におとなしくなるはずです。だから、このままあなたを撃ち殺せば、俺を殺す者はもう他にいなくなる」
「…………………」
「だけどいままでの事について口を割るというのなら、逮捕という形で殺さないでおいてあげます。どうしますか?」
「それは………無理だな」
「どのみちあなたは終わりなのに?」
「それでも、私にも譲れないものがあるんだよ。そう、命よりも大事なものがね。だから、必要以上の事は決してしゃべらない。クククっ」
「………………それはつまり、あなたとツルんで日本の植民地化を企てていたお仲間についても……という事でしょうか?」
「クククっ、言っただろう。必要以上の事はしゃべらないって」
「……………………」
「残念なのは、日本という国が本格的にゴミと化していく未来を拝めなかったという事かな。でも、こうなってしまった以上は、いたしかたなし」
「獄中で首でも吊るんですか?」
「いいや、わざわざそんなところへ行かなくても、この場所で充分だ」
「なっ………」
ガリっ!!
老英は、奥歯に仕込んであった青酸カリ入りの歯を力いっぱい噛み砕いた。
すると、10秒もしないうちに老英は体中をガタガタと震わせ、崩れ落ちるように死んでいってしまった。
その老英の死にざまを見て、近衛はこうつぶやいた。
「復讐なんてしても、結局報われる事はないというわけですね。された側もした側も……」
でも老英のスマホを入手する事ができた。
アドレス帳を開いても登録されているのは1件のみだったので、これは使い捨てとして用意されただけのスマホなのは確定だった。つまりは、このアドレス帳に登録されている電話番号の主は、まっとうな世界に生きる人物でないという事。
このスマホを処分するよりも先に近衛がこの部屋にやって来てしまったために、このスマホを残したまま彼は亡くなったというわけだ。
すると城士松が近衛のもとへとやって来る。
近衛は城士松にそのスマホを渡した。そしてこう言った。
「26日の0時に、本当にあなたの言う悲劇が起こるというのなら、そのスマホの電話番号の主は100%例の黒幕という事になります。直前まで黒幕のために老英が手を貸していたからこそ、そのスマホを持っていたはずなので。まあ、私が本当に手に入れたかったのは、老英と手を組んでいた別の人間の方の電話番号なんですけどね……」
「助かる………」
「で、結局あなたは、こんなところにいるという事は、加賀城密季のそばにいるよりも、見殺しにするという選択肢を選んでしまったというわけですね」
「………………」
「………だからこそ私はあなたが嫌いだった。昔の自分と同じ末路を辿りそうで、もどかしかったから」
「………………」
「彼女が死んでも、あなたにはこの先も未来がある。だから、彼女に恥じないためにも、道を違わずに正義を貫き通してほしい」
「………………」
「この場は私に任せ、あなたはもう行きなさい。穂刈くんに頼めば、きっと場所を特定してくれるはずです」
近衛は懐からメモ帳を取り出し、穂刈の電話番号を書き込んだ紙を城士松へと渡した。
「ありがとうございます」
そして城士松は船から出て行ったのだった。