タペストリーの裏側
そして福富神子は、ベッドのうえで目を覚ましたのだった。
「…………………」
その日は、やたらと熱気のこもった夜だった。
電気がついていなかったので多少の薄暗さは感じたが、きれいな四角い月明かりが外から差し込んでいて、この部屋のどこに何があるのかは目で確認する事ができた。
この部屋は、むき出しのコンクリートの壁に囲まれていて、ベッド以外の家具はたいして置いてはいなかった。ベッドの近くにサイドチェストは置いてはあったが……。
あとこの部屋、いっけんホコリがないように見えるが、四隅には砂ぼこりが積もったままだった。
「…………………」
人間には、それなりの生活習慣というものが体に染みついている。
目を覚ました場所がここではなく、いつもの自分の部屋の中だったなら、福富神子はすぐに毎日の生活習慣通りに体を動かしていただろう。そう、まずはシャワーを浴び、それからコーヒーを飲む。これが日課だった。
だけど、ここが知らない場所というのもあってか、5分経っても10分経っても彼女の意識はずっとまどろんだままで、自分の名前すらもしばらく思い出せずにいた。
でも、記憶を失ったとかではなかった。見知らぬ場所だったからこそ、状況を整理するのに時間がかかってしまっただけ。
「ああ………そうか……」
鉄パイプで殴られたのだ、たしか。
花房聖には事前に、もうすぐ殺されるかもしれないとは言われてはいたので、それだったら、普段の自分なら絶対に取らないだろう手段をあえて試すのもアリかなと思ったのだ。だからこそあの橋のうえから飛び降りた。
どのみち助からなくても、加賀城密季にあのメールさえ送れたら御の字くらいにしか思っていなかった。
でも、不思議な体験をしたのは、飛び降りたそのあとの事だった。
なぜ、高所からの川への飛び込みを禁止しているスポットが多いのかというと、コンクリートの地面へと落下するのとは違って安全のように思うかもしれないが、体へとかかる衝撃は、着水した際の体位によっては、骨折するパーセンテージは格段に跳ね上がるからである。
でも福富神子は、あの日、あの川の中へと着水した際、たいして痛くなかったどころか、ふわりとした感覚が全身を包んだのである。
だけど、それだけではなかった。
鋭利にとがった太い木の枝や、殺傷力が高そうな大きめのタンスまで奥から流れてきたというのに、まるで福富神子を避けるようにして急に軌道を変えたりしたため、そういった類のダメージをいっさい負ったりはしなかったのだ。
「……………………」
そして現在、福富神子はこの場所にいる。
頭には包帯が念入りなくらいにきつく巻いてあった。
この部屋には鏡がないのでハッキリとはわからないが、指で触った感じだとこの包帯、新品の指触りではある。
「あっ」
ベッドの横に置いてあった背の低いサイドチェストの隣に、見覚えのあるカバンが置いてあった。
そのカバンの中には、見覚えのある財布やハンカチ、メモ帳も入っていたが、そのほとんどが水分を吸ってしまっていたせいか、メモ帳なんかはとくにたわんでしまっていて、もう使い物にならなそうだった。
そしてその中には、スマホも入っていた。
折り畳み傘、あとカメラが入っていなかったが、まあ、出版社に戻ればスペアのカメラはいくつかあるので、そこまでのダメージはない。
「……………………」
一応スマホの電源を押してみると、あの時水没したはずなのに、画面がぱっと点灯し、パスコード画面が表示された。
パスコードを入力しトップ画面に表示されている現在の日時と時刻をいったん確認してから、スマホの電源を一度切り、カバンの中へと入れた。
そしてそのカバンを肩から下げ、部屋を出る事にした。
べつにそんなに慌てなくても、この建物の中にいる限りは、そこまでの身の危険はないはずだ。
だって、そこの部屋にベッドがあり、ついさっきまで自分がそこのうえで寝ていたという事は、ここまで運んできた“何者”かがいるという事だからだ。ご丁寧にも頭の治療までしてくれたわけだし。
まあ、普通なら病院に連れていくはずなので、まっとうな世界に生きる人間でないのだけは確かだろう。
なので福富神子は、その人物の正体を探るために、まずこの階の部屋から誰かいないかどうかを確認していった。
廊下の外には窓があり、その窓から下を見下ろしてみると、いま自分がいるのは5階だというのがわかった。
あと、この建物の近くには、似たようなボロイビルや古びた団地なども見えた。
5階をザっと確認してはみたが、この階には誰もいなかったので、階段を下りて、今度は4階をまた同じように調べ始めたのだった。
でも、その階にも、そしてそのまた下の階にも誰もいなかった。
もしかして今、この建物の中には誰もいないのだろうかと思った。
それでも、中途半端に調べるのをやめると気持ちが悪いので、一応1階もザっと調べたのだった。
するとようやくにして、1階の、やたらとロッカーがある小さな部屋の奥の方に、その“違和感”を見つける事ができたのだった。
その部屋は窓ひとつない部屋だった。
それなのに、壁一面を覆うほどに大きいクリーム色のタペストリーが、なぜか部屋の内側へとふわりふわりと揺れていたのだ。
なので福富神子は、そのタペストリーの裏側に、なにか別の空間があるのではと思った。
タペストリーに手を触れ、めくってみるとビンゴだった。
地下へと続く階段がそこにはあったのである。
「…………………」
さっそく福富神子は階段を下りた。
すると、突き当たりの道の正面のところに室外機のような機械が置いてあり、左へ曲がった奥の方には扉が見えた。
この室外機のような機械からは大きな音とともに風が出ている。
多分、この風が階段の上まで届いて、タペストリーを揺らしていたのだろう。
問題なのは、ここから見えるあの扉の奥に、誰かいるのかどうかだった。
福富神子は、いったんごくりとツバを呑み込んでから、扉の所まで歩いていき、ドアノブをひねり、ドアを静かにゆっくりと開けたのだった。
「………………」
扉の奥にはさらに細い通路が続いていたが、その通路を抜けた先にはもう扉はなく、一般病棟の6人部屋くらいの広さの部屋があった。
そしてようやくにして“人がいる部屋”にたどり着く事ができたのだった。
その部屋には、福富神子がさっき寝ていた部屋と同じくベッドがあったが、さっきの部屋と違う点をいくつかあげるとするならば、生命維持のために必要な装置がいくつも置いてあるという点だろうか。
あと、点滴の機械も置いてあった。
そしてベッドのうえには、顔色の悪そうな若者が現在進行形でノートパソコンをいじっている。
「…………………」
この顔には見覚えがあった。
「やあ、福富神子さん。あなたならきっと、ここまでたどり着けると思ってたよ。まあ、タペストリーの裏に隠してあったあの出入り口は、いつもはあんな状態で開けっ放しにはしてないんだけどね」
「……………あなたは………」
「あっ、君のスマホは修理しておいたから普通に使えるよ。あと、万が一のために、特別なセキュリティアプリも入れておいた。だから、そのスマホを使えば、個人情報を盗み取られる事も、会話を盗聴されるような事もないはずだよ」
「…………わたしが、あなたの言葉を信じるとでも?」
「………頭のいい君ならわかるはずだよね?信じるしか他に道はないって……」
「…………………」
たしかにその通りだった。
でも、だからこそ胡散臭くてしかたがないのである。
よりにもよって“この若者”がこの場所にいる時点でもう、胡散臭さと同時に怒りも湧き上がってくる。
だけど、怒りに任せてこの部屋を出てしまうのは愚かの極みだった。なので、今だけは怒りを堪え、この若者の話に耳を傾けるとしよう。




