幕間23 約束
まといにあの黒いコートを貸したのは加賀城だった。
血まみれの服のままで帰らすのはアレだからと言って、気を利かせたのである。
まといの車のカギは樫本が持っていたので、まといは徒歩ではなく車で帰る事にはなったが、だからといって、誰がどこで見ているとも限らない。すれ違いの歩行者が偶然、運転席の方へと顔を向ける可能性もあったので、まといとしては、とてもありがたかった。
そして帰宅後、まといは玄関の前で碧と少し話してから、自分の部屋へと戻った。
「………………………」
そして、ウエストポーチの中に入れていたモノを全部、デスクの上へとひとつずつゆっくりと置いていった。
財布に………車のカギ。それとあともうひとつ。キーホルダーサイズのひげクマくん人形である。
しかもこのひげクマくん人形、緑色のネクタイをつけていた。
「……………………」
このネクタイは、まといが自分で作ったものだった。
このひげクマくんのサイズに合うように布をハサミで切って、ミシンは家に無かったし逆に縫いづらいので、裁縫セットの針で、細かく手縫いをして、このネクタイを作ったのだ。
そして、6月25日のあの日、このネクタイを巻いたひげクマくん人形を“碧”にあげたのだ。
そう………誕生日プレゼントとして。
加賀城密季が、礼拝堂のようなあの建物に到着する少し前、まといはこの人形を、聖が履いていたボトムスの、ベルトを通す輪っかの部分についているのを見つけた。
「………………………」
このままだと、この人形ごと聖の遺体が警察の手によって運ばれてしまうと思ったまといは、ベルト通しの輪っかの部分からひげクマくんキーホルダーを取り外し、自分のウエストポーチの中に入れたのである。
そしたら、出入り口の外でずっと立ったままだった“近衛”がゆっくりと近づいてきて、まといにこんな事を言った。
「私の事、黙っててくれるとありがたいんですけどね」
「……………えっ」
近衛は、顔色がとても悪かった。滲み汗のせいなのか、外からの光が彼の頬に反射していて、やたらとギラついて見えた。
近衛はまといに、さらにこんな事を言った。
「花房聖をここまで連れてきたのは私です。それなのに、私は彼女をむざむざと死なせてしまった。だから、こんな事、あなたに頼む資格なんてないのはわかってます」
「…………………」
「でも私は、ケジメをつけたいんです。警察の人間がここへ到着する前に、直江家が長年隠し続けてきた“悪事”に関しての証拠を見つけ出したいんです。そして、その証拠をもとに、政財界や、警察組織に蔓延っている膿を、1人でも多く一掃したい」
「…………………」
「そしてそれは、なるべく早い段階の方がいいんです。そう、なるべく早く、トップから無能を引きずり降ろさなければ、他国に付け入る隙を与えてしまう事になる。いや、もうすでにそうなっている可能性が高い。だから、取り返しがつくうちに、なんとかしないといけないんです」
「…………そんなの、私に関係ないですよね?」
「たしかにそうだよ。関係なかったからこそ、私は花房聖を、ここに連れて来るべきではなかったんだ。それはすまないと思っている」
「…………………」
「だけど、約束しよう。もし君が、来年の9月1日までに生き残っていなかった場合は、風椿碧のクアラルンプール行きは私が絶対に止める。私がもし、その日までに生きていなかったとしても、信頼できる人間に託そうとも思ってる」
「……………………」
「話は全部聞かせてもらったよ。にわかには信じがたい話だが、そう考えた方が全部つじつまが合う。彼女は、未来を“ある程度”知っていたからこそ、先回りができ、手を打つ事もできた。でも、彼女もしょせんはただの人。自分の目で見たモノや、ニュースやネット記事に載っていたモノ以外は知る手段を持っていないから失敗を繰り返し、同じ時を何度も何度も繰り返すハメになった」
「……………………」
「でも、来年の9月1日に黒幕があの場所に現れる事を、ようやくにして彼女は掴んだ。だから、私が手をまわせば、風椿碧だけは確実に生かす事は可能です」
「……………………」
「だけど、君がそれを望まないんだったら、あえて再び彼女にタイムスリップさせるという手もあります」
「えっ………………」
「そうすれば彼女は、花房聖として新たな人生を歩む事にはなりますが、もしかしたら今度こそは、花房聖を死なせずに済むかもしれない。ふたたび来年の9月1日まで彼女を生かす事もできるかもしれない」
「…………もしかして、わかってて、あえて言ってます?聖を救うために、碧さんにわざわざタイムスリップさせて、彼女を花房聖にしても、何の意味もありませんよ。そんなの、救った事にはならない」
「………ええ、そうでしょうね」
「私の胸の中で死んでいった聖は、何ものにも代え難い、唯一無二の、ただひとりの人間なんです。たとえいまの碧さんが、過去の花房聖の記憶をまるごと引き継いだとしてもそれは変わりません。それにね、私は碧さんを、風椿碧として守り通したいんです」
「…………………………」
「だから、碧さんを、過去に戻らせてはいけないんです。過去に戻っても、彼女が取り戻したかったものは、きっともとには戻らない。だって彼女は、風椿碧として生きる事ができなくなってしまうから」
「では、いいんですね?彼女のタイムスリップを私が止めても」
「……………構いません。私が来年の9月1日までに生き残れなかった場合はお願いします」
「…………わかりました」
「…………ありがとうございます」
「………………では、わたしはもう行きますね」
そして近衛はまといに背を向け、建物の外へ向かって歩き始めた。
だけど、急に彼は足を止め、振り返って、まといにこんな事を言った。
「20代半ばくらいの女性で、仲のいいトモダチ、あなたの身近にいませんか?」
「えっ?」
急に何言いだすのかとまといは思った。
だから驚きの表情を浮かべてしまった。
そんなまといの顔を見て、近衛は深くため息をついてからこう言った。
「…………その顔は………いないみたいですね」
「碧さんと同い年の同級生ならいますけど、20代半ばくらいのトモダチはいないです。でも、それがいったいなんなんですか?」
「………私、ずっと捜しているんですよ。20年前からずっとね。でもいまだに見つからない。不思議なくらいにね」
「そうですか………」
「………では、今度こそ行きますね」
そして近衛は、今度こそまといのもとから去っていったのだった。
それから、そんなに時間が経たないうちに、加賀城がまといのもとに到着した。
加賀城はまといにあまりいい顔はしなかったが、当然の反応だなとまといは思った。
それでも加賀城はまといにコートを貸してくれた。
だけど…………もうそろそろ限界だろう。
あの刑事は必ず、証拠を持って、自分のもとへとやって来る。
あの時の彼女の瞳、本気だった。
そして、それはきっと近いうちのはずだ。
いや、たとえ証拠を彼女が見つける事ができなかったとしても、こちらが道徳心に背いた行動を少しでも取れば殺しにやって来るだろう。
あの目は、そういった覚悟の目でもあった。
時間がない。




