正体不明の夫2
7月12日。AM10時。
炒麺飯華の店長の紹介で、加賀城は、港区に住む在日外国人のアパートを訪ねた。
その人はフィリピン人だった。
やさしそうな男性で、加賀城にルイボスティーをふるまってくれた。
名前はエミリオというらしい。
「テンチョーさんから話は聞いてるよ。芹華ちゃんについて知りたいんだってね」
「ええ………」
「あの子を、黒か白かで例えたら、やっぱり、その中間のグレイってところかな。悪人ではないけれど、まったくの潔癖というわけでもないしね」
「なるほど」
なんとなくそんな感じはした。
エミリオはさらにこう言葉を続けた。
「芹華ちゃんは、右も左もわからない私達にとっての救世主だった。日本人はまじめで優しい人が多いとよく言うけれど、私達みたいなのをゴミのように扱おうとする輩は思いのほか多かった。たとえば、言葉巧みに安い賃金でわざと働かせたり、女の子なんかは、タダ同然で、ビザが期限切れになるまで風俗で働かされたりしてたよ」
「ビザが期限切れになると、強制退去になりますからね。そうなってくると、最悪5年間は日本への入国が認められなくなってしまう。風俗で搾るだけ搾り取ってから、祖国へと強制的に帰らせるように仕組み、女の子達に泣き寝入りさせる。とても胸糞悪い話ですね」
「そう。警察に相談したりもしたけれど、私達が外国人ってだけでゲンナリとした顔を浮かべる人が多くて、まともに取り合ってもらえなかった事が多かった。でも、芹華ちゃんは違った。彼女は積極的に、ああいった連中を取り締まったりしてた」
橘芹華自身も、純粋な日本人ではないからこそ、彼らの気持ちが痛いほどよくわかっての行動だろう。
「あと芹華ちゃんは、私たちの仕事の世話もしてくれた。最初は工場とかだったけど、芹華ちゃんのおかげで、私達が働ける場所も少しずつ増えていったんだよ」
それを実現させる事は決して並大抵ではなかったはずだ。
差別とまではいかなくても、話せる言語が違うという理由だけで、外国人を敬遠する人もいる。
言語が違うと、仕事を教えるのにも苦労するからだ。
だけど橘芹華はそれをやってのけた。
エミリオは加賀城にこんな事も言った。
「もちろん私達も、芹華ちゃんに甘えるだけはしないで、仕事に活かせるスキルを学ぶ努力を続けた。炒麺飯華のテンチョーさんもその中の1人だね。彼には料理の才能があったから、いっぱいいっぱい努力して、店まで持った」
「なるほど……」
「いまでは、私達の助けを必要とする企業も増えた。多言語を話せるってだけでも価値があるからね。観光地で外国人相手に観光案内してる子もいるよ」
橘芹華が積み重ねてきたものは、彼女亡きいまも生き残り続けているというわけだ。
彼女は、雇用主側の信頼も地道に勝ち取っていき、そして彼女の意志に応えるために、エミリオさんも真摯な姿勢で努力を重ねる事を怠らなかった。
こうした姿勢が雇用主側の信頼をさらに得るかたちとなり、彼らの活躍する場は着実に増えていったというわけだ。
「エミリオさんは、芹華さんの夫について何か知りませんか?」
そう、大切なのはそこだった。
まだまだ20年前も共働きの時代だったし、仕事をしたがらない夫とそもそも彼女だって結婚しないはずなので、夫の仕事の世話も彼女がした可能性は高かった。
「知らないなぁ」
「たとえば、わけありそうな日本人男性とか、見かけた事はありませんか?その男性は心労が祟って死んでしまったので、健康そうな見た目ではなかったのはたしかです」
人間、ちょっとやそっとのストレスでは死んだりはしない。
相当、精神的に悪い生活を続けてきたからこそ、自律神経による乱れが数多くの身体的不調を引き起こし、彼はボロボロになった。
橘芹華と出会った時にはすでに、手遅れだった。
だから、ほかの人から見て、その夫の顔色は普段からそんなに良くはなかったはず。
エミリオは加賀城に対してこう言った。
「悪いけど私にはわからないかな。でも、在日外国人の就労をサポートしている場所はいくつか知ってるよ。それに、話を聞く限りだと、その芹華ちゃんの夫さんは、そんなに遠くまで通える体力はなかったんじゃないかな。芹華ちゃんが昔住んでいた自宅周辺から、一軒一軒、調べていけばあるいは何かわかるかもしれないね。待ってて、メモに書き記すから」
エミリオは引き出しからルーズリーフを取り出し、会社の名前と住所をいくつか書き記していった。
あと、橘芹華の事を知っているほかの在日外国人の名前もルーズリーフに書いてくれた。
「助かります」
「芹華ちゃんは、刑事をやめたら、恵まれない子供たちの世話をしたいって言ってたよ。無戸籍の子供達のサポートとかもしたいって」
「……本当に立派な方だったんですね。橘芹華って」
そして加賀城はエミリオからルーズリーフを受け取った。
という事で加賀城は、エミリオに礼を言ってから、次の目的地へと向かった。
橘芹華が亡くなってから、もう20年以上も経っているため、潰れてしまっている会社もいくつかあった。
でも、希望がないわけではなかった。
たとえどんなに大変でも、たぐり寄せていけばきっと見つかるはずだ。
橘芹華が紡ぎあげた絆という名の糸は、広大な海のようにどこまでも拡がっているはずだから。
そして…………数時間後。
22時過ぎから雨も降り始めてしまったが、ようやく見つける事ができた。
そこは工場だった。24時間ずっと稼働中なため、いまも工場の中ではたくさんの人が働き続けている。
橘芹華の夫について知っていたのは日本人だった。彼の今の名前は浦成というらしい。
人気のない奥の通路で、加賀城と浦成はこんな会話をした。
夜になって降り出した雨の音が、コンクリートの壁の奥まで響いてきて、ザァァっという音がずっと聞こえていた。
「俺、昔、とある会社の社長に横領の罪を着せられたんだよ。その罪は芹華さんが晴らしてくれたけど、その腹いせに社長は、方々へと圧力をかけまくった。そのせいで俺はどの会社に行っても雇ってもらえなくなっちまった。それがきっかけで芹華さんは俺の仕事の面倒を見てくれた」
「そして名前を変えたと?」
「あっ、ちゃんと正規の手続きはしたから、違法じゃないよ」
「つまりは、家庭裁判所に手続きを申し出たと?」
「そういう事♪」
「………………」
だとしたらやっぱり妙だ。
やむない事情があったとしても、この浦成さんと同じような方法で改名すれば済む話。偽の戸籍を使う必要なんて、本当ならないはずなのだ。
まさか、家庭裁判所に手続きを出せない理由があったとか?
ますます気になる。
浦成は加賀城にこんな事を言った。
「その人はね、線の細い優男って感じでしたよ。今でいうところのヒョロッちいイケメンって感じかな。でも礼儀正しかった。背筋がピンとしてたよ。頭もよさそうだったな」
「なるほど」
「あと、いつもきっちりとしてたかな。俺は結構ルーズなタイプだけど、あの人が着ている服はいつもパリッとしていたよ」
「神経質なタイプとか?」
「いや、違うかな。一緒に呑みに行った時、俺が醤油の雫をあの人のシャツにつけちゃった事があって……。でもあの人は怒らなかった。それどころか落ち着いた感じで、別に洗濯すれば落ちますからって言ってくれた」
「めったに怒らないタイプだと?」
「そうそう。穏やかっていうかなんていうか……。本来大人はあああるべきだなって、あの人には何度も思い知らされたよ。いまじゃ俺も、そんなに怒らなくなったな」
「なるほど……。あっ、顔は覚えてますか?」
「さすがに20年以上経ったあとだしね」
たしかにその通りだ。
20年以上経っていなくても、人の記憶というものは案外頼りにはならないものだ。それが他人の顔だった場合はなおさらだ。
わかった事と言えば、悪事に手を出したから追われる羽目になったわけではないという事。でなければ、橘芹華は彼を助けようとは思わないからである。この浦成と同じく、横領の罪を着せられた可能性もなくもないが、だったら普通に正規の手続きをして改名すればいいだけの事。
それができなかった理由は、決してそんなに多くはないだろう。
家庭裁判所と通じている何者かがいた場合、せっかく名前を変えても、改名後の名前を知られてしまっては何も意味はなくなる。
彼が安住の地で安らぐためには、偽の戸籍を用意するしかほかになかったから、橘芹華はグレーゾーンを踏み越えた行為をした………のか?
誰だ。
いったい誰に追われていたのだ?
でも、この夫が鍵なのはたしかだ。
この夫を通じて、この一連の事件の犯人は橘芹華についても詳しく知っていたからこそ、王李のもとまでたどり着き、彼を仲間にした。
だけど、橘芹華は用心深い人間だったらしいので、よっぽどじゃない限りは、ペラペラと身内について教えたりはしないだろう。
「……………………」
ピンときた。
散らばっていた点と点の2つがひとつの線となって繋がった。
だとするならば、次調べるとしたら“あの事”についてかもしれない。
でも今日はもう遅いので帰ろう。
雨も降ってきたことだし。




