深淵 まとい編
引き続き7月2日 PM19時
オレンジ色だった空も、すっかり黒く染まりきっている。
六文太弥勒が運転する車に連れられ、まといは、23区内にあるコインパーキングまで、黒のワゴン車で来ていた。
弥勒はアイパッドをダッシュボードから取り出し、電源を入れた。
そして地図アプリを開いて、現在表示されている地図の、赤い丸の部分を指さし、まといにこう言った。
「君には、イベントスタッフとして、ここの建物のなかに忍び込んでもらう」
「不審がられませんかね?」
「もうじきここで、有名なアーティストのライブが行われるんだけど、100人近いイベントスタッフが派遣として出入りするから、その点は大丈夫。いちいちみんな、顔なんて覚えてられないよ。とはいえ、そのまんまの格好だと、さすがに怪しまれちゃうから、ウィッグは被ってもらう。あと、スタッフ用の制服と帽子も用意してある」
弥勒は、後部座席へと手を伸ばし、まといに、大きい紙袋を渡した。
そして弥勒は、アシストグリップの横についているボタンを押した。
すると、後部座席を遮るようにして、運転席と助手席の後ろからシャッターがゆっくりと下りてきた。つまりは、後部座席へ移動しても、運転席と助手席の方からは、まといの姿を見る事はできないというわけだ。
「これで、俺に気にせず、後部座席で着替えられるでしょ♪」
「そうだね」
まといはいったん車を降りて後部座席へ移動し、着替えてから、また助手席へと乗り直したのだった。
今回、まといが身に着けているウィッグは、前髪ぱっつんの黒髪ショートヘアだ。つばのついた帽子をそのうえに、目深にかぶっている。
「インカムの使い方はわかる?」
「うん」
まといは、紙袋の中に一緒に入っていた白のインカムを耳に装着した。
そして、紙袋から、USBメモリも取り出した。
「そのUSBはパソコンにぶっ挿すだけでいい。ぶっ挿すだけで、パソコンのセキュリティ網に“バックドア”を設ける事ができる優れものさ。あとは自動で、データがUSBの中へと移動するはずだから」
「バックドアってなに?」
「他人のパソコンを乗っ取るための裏口みたいなものだよ。あっ、そうだ。あと、これも渡しておく。内ポケットに入れておいて」
弥勒は、スマホサイズのシルバーの薄型プレートをまといに渡した。その謎のプレートには、スピーカーのような穴がポツポツとあいている。
「これはなに?」
「今や、パスモやSUICAでコンビニのモノが買えたりするだろう?このプレートはね、それに似たシステムが組み込まれている。だから、開けられないナンバーキー式の扉があったら、そこの小さなボタンを3秒間押し続けてから、ナンバーキーの近くでそのプレートをかざしてみて。そしたら開くから」
「……………弥勒くん。あなたは何者なの?」
こんな、スパイ顔負けのアイテムまで用意できるのだ。ただの一般人でないのは確かだった。
そんなまといに対し、弥勒はこう言った。
「それについては教えるつもりはないよ。フォーカスモンスターの件とは関係がないからね」
「………………」
「この建物の中に、君が探している“カメラの持ち主”がいる……かもしれないし、いないかもしれない。でも、危険なのは確かだから、念のためにこのカメラを持っていって。いま君が使っているあのカメラだと、ちょっとデカいし、ポケットに入れて持ち運ぶ事はできないからね」
「わかった」
弥勒は、ポケットに入るサイズの小さいデジタルカメラを、まといに渡した。
まといは弥勒にこう尋ねた。
「もしカメラの持ち主がいたらどうするの?」
「それは君に任せるよ。そういう“約束”だしね。本当はね、もうちょっと時間をかけて、いっせいに“連中”達を潰したかったんだけど、色々と事情が変わってね。だから、潰すのはあきらめて、情報だけ手に入れる方針に切り替えたんだ」
「そうなんだ………」
「まあ、死にたくないんだったら、タイミングはちゃんと考えた方がいいよ。たとえあの建物の中にカメラの持ち主がいたとしても」
「えっ…………」
「君の気持ちはよくわかる。危険を冒してでも、なるべく早めに決着をつけた方がいいのは確かだ。拳銃とは違って、カメラによる“攻撃”は、狭い場所なんかは特に、避けにくいからね。特殊能力でもない限りは、正面から立ち向かってもまず勝てない。だから、ある意味では、君自身の手で決着をつけた方が、犠牲者は少なくて済むのかもしれない」
「………………」
「でも、あえて忠告させてもらうよ。君がここで死んだら、悲しむ人間が確実に出てくるよね?」
そうだ。ここで死んでしまったら、碧にも会えないし、家で待っている聖にも会えない。
彼女達を傷つけたくないのなら、自分で蒔いた種とはいえ、解決を急がない事もまた、選択肢のうちのひとつでもあった。
「ふふふ、やっぱり弥勒くんは優しいね」
「えっ?なんでそういう話になるのさ??」
「そうだね。まあとにかく、無理はしない事にするよ」
「あっ、そうだ。あと、このメガネをかけてよ。ここのボタンを押せば、赤外線モードに切り替わる。部屋に誰かいれば、赤色か黄色の人型が扉越しでもくっきりと見えるようになるから」
「うん。わかった」
まといはメガネをかけた。
そしてまといは車から降り、丸型の大きなコンサートホールへと入ったのだった。
弥勒の言った通り、中では、派遣スタッフがたくさん行き交っていた。
インカムからは、弥勒の声がクリアに聞こえてくる。
『俺が調べてほしいのは地下フロア。このコンサートホールのホームページに載ってるフロアマップには、地下駐車場しかないけど、建設当時のマップによると、もっと広いフロアがあるはずだから、管理マネージャーから適当に仕事をもらいつつ、地下への道を探してみて』
「はい」
まといは、言われた通り、管理マネージャーからの指示で、キャスター付きの機材を運んだりしながら、1階をひと通りまわった。
そして見つけた。
配線用遮断器のある薄暗いフロアの隅に、その扉はあった。
最初、台車の上に積み上げられた段ボールの陰で隠れてて、見えづらかったが、チカチカと光るモノに気づいたまといは、その台車をいったん退けてみたのだ。
そして見つけた。ナンバーキーによってロックされた扉を。
「弥勒くん………」
『ビンゴだね。そこで間違いないよ』
「わかった。じゃあ、扉を開けるね」
まといは、弥勒からもらったシルバーの薄型のプレートを懐から出し、3秒間ボタンを押してから、ナンバーキーの近くでかざしてみた。
すると、ナンバーキーが勝手に作動し、ビーという音とともにガシャンと重たい音が鳴った。
扉を開くと、緑色の廊下が奥まで続いているのが見えた。
そして両側の壁には、等間隔に1つ、2つ、3つ、4つ、5つと扉がついている。
ここから見えるのは、これくらいだけだ。
まといはごくりと息を呑んだ。
廊下には人の姿がなかったが、でも、いつ、そこの扉から出てこないとも限らない。
まといは、メガネを赤外線モードへと切り替えてから、一歩前へと出て、扉の向こう側へと移動した。
一応扉をきちんと閉めてから、まるでスパイのように、奥へ、奥へと進み、誰もいない部屋に入っては、怪しげなものがないかしっかりと確認していったのだった。
緑色の廊下の奥は、曲がり角になっていたので、まといは音を立てないように気をつけながら、そこを曲がり、近くの、誰もいない部屋へと入った。
そしてようやく見つけた。誰もいない、且つ、パソコンのある部屋を。
まといはパソコンを起動させ、USBメモリを穴へと挿しこんだ。
ウィィンという稼働音とともに、USBメモリについていた小さな丸がチカチカと点滅をはじめたのだった。
赤外線モードでもう1度あたりを確認したが、誰かがこっちへやって来る様子はなかった。
『OK、蒼野さん。もう終わったよ。USBを抜いて大丈夫だよ。これにて任務終了。あとはもう戻って来るだけでいい。お疲れ様』
「うん」
まといは赤外線モードをいったんオフにし、USBメモリへと手を伸ばした。
だけど彼女は、ふと、手の動きを止め、扉へと顔を向けた。
いつの間にか、部屋の中には、まといの他に“もう1人”いた。
でもそれは、人間と呼ぶには禍々しい姿だった。
「……………サラ?」
それは、黒いガスのようなものに塗れた、人型をした“ナニカ”だった。
顔はあった。でも、なぜか右半分だけだった。
右半分だけでも、まといには、その顔がサラだというのがわかった。
「…………サラ………なの?」
いや………違う。
顔はサラだが、これは正確にはサラではない。
「そうか……………やっぱりそういう事だったんだ」
なるべく考えまいとしていたが、ぽっかりと空いた穴のような空虚感の正体は、サラだったのだ。
サラからもらったカメラを通じて、2年前のあの日、自分の中に入り込んでしまったのだ。
時々、サラの“幽霊”を見かけたりしたのは、“そういう事”だったのだ。
でも………なぜだかもう、自分の中には“サラ”は残っていない。
サラの幽霊は、もうこの世には存在してないという事かもしれない。
だから、いまこうしてまといの目に映っているのは、サラではなく、サラとまといの魂がくっついてしまっていた時期にあのカメラに入り込んだ残留思念のようなもの。2年前は特に、復讐の事しか考えてなかったから、こんなにも禍々しい形となって、まといのもとに現れたのだ。
だからこそわかる。あのカメラが、この建物の中にあるという事を………。
どうしよう。




